炎立つところ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
みんなは、「踊り炎」という言葉を知っているかな?
感じ炎、感音炎とも呼ばれ、音の振動をはかるために使われる手段のひとつだ。
細く長い炎のそばで音を出すと、炎の大きさに変化が見られ、あたかも踊っているかのように思えるから、この名前がついたのだという。
専門的なものでなくとも、みんなも燃え立つ炎が形を崩すのは、しばしば目にすることだろう。
あおられすぎれば吹き消えてしまうが、ほどよい強さであれば、かえって燃える強さは増していく。先生も子供心に不思議な現象だと思っていた。
炎が立つということは、何とも奇妙で怖いものだよ。
先生の昔の体験なんだけど、聞いてみないか?
青い炎。みんなも授業で幾度か、見たことがあるはずだ。
ガスバーナーの火は、ついた当初こそオレンジ色を帯びることがほとんど。酸素が不足しているためだね。
そこに入る空気を調節してやることで、バーナーの炎は完全燃焼状態へうつっていくことができる。みんなの家でガスコンロを使っているときも、鍋をあたためるときなどに出てくる炎は、この青色のはずだ。
青い炎は1000度を超える高熱で、とてもじかに触れられるものじゃない。
それが火元から出ているなら、まだいいほうさ。近づかなきゃいいし。
しかし、みんなも青い炎が火元もなしに、浮かび上がるケースを知っているんじゃないか? 何も科学的なものでなくともさ。
そう、人魂。
あるいは狐火だったり、鬼火だったりと呼び名やいわれは数あるものだろう。
たたられたり、ケガをしたりというのも、もし正体がこの完全燃焼した高温の炎であったら、無理からぬ話ではある。近づかれただけで、たちまち身体に悪影響を及ぼすだろう。
しかし、その正体を正確にとらえられる機会は少ないはず。
先生も怪談話として、小さいころから聞いてはいたが、まさかあのときに自分が体験するとは考えていなかったんだ。
午前中から降っていた雨が止んだ、夏休みのある日のこと。
屋内に陽が差してくるのを確かめるや、先生はそそくさと外へ出かける支度を始める。
雨が降っている間は、涼しい部屋の中でにわか百物語と、身体を冷やすに十分な環境だったからね。いささか鳥肌も立っていたし、身体を暖めるにうってつけの陽気とくれば、動かない手はない。
当時の先生宅のまわりは、大半が田んぼであって、遊び場所もその道の途中にぽっかり設置されていた空き地と相場が決まっていた。
お約束道具の土管などはないが、草野球をするには十分な面積。その敷地の隅には、何本もの立ち木があった。
小さいころの先生は、虫を捕まえるのが好きだった。それもこだわりがあって、道具のたぐいを一切使わずに、手づかみでとらえることに魅力を感じていたんだよ。
あの自分の手の内で、虫たちがバタバタもがいたり、必死に羽ばたこうとしたりする振動が、伝わる時間がなんとも心地よい。まさに彼らの生きている証といえよう。
大人になるにつれて、あれを感じるのが嫌になってきたんだよねえ。なんというか「生」の感触に違和感、嫌悪感を覚えるようになったというか。
知識を仕入れていくにつれて、じかさわりした時のリスクとかが、脳裏をかすめるようになったのかもしれないね。
ともあれ、無知なる先生はくだんの空き地で虫探しを始める。
この時期、見つけやすいといったら、やはりセミが筆頭だった。
いまでも先生の耳に、しつこく音を叩きつけて存在をアピールし続けている。
まだつがいを見つけられず、必死こいているところなのだろう。それが人間サマをはじめとする、他のやっかいな生き物を引き寄せるリスクがあったとしても、だ。
声を頼りに、そろそろと木の一本へ近づいていく先生。
いかに自分の声に必死なセミとて、でかい図体が音立てて寄ってくれば、退避を考えてもおかしくない。気配はできる限り消していくという、基本には忠実にあるべきだ。
そうして、身をかがめている先生の頭を、何かがかすめる気配。
いや、厳密には野球帽をかぶっていたから、帽子の表面に触れられたのか。
二度、三度と、こづかれるくらいの衝撃が続き、振り返るより前に、先生の眼前を飛び去っていく影が数個ほど。
ひとつひとつは、あずきくらいの大きさだったが、それよりも先生が気にするのは奴らの残り香だった。
妙に油臭い。
家で揚げ物などに油をふんだんに使った時に発する、あの気持ちいいとはいえない香りが、にわかに鼻をついてくる。
状況からして、あいつらがもたらしたように思えた。帽子にぶつかってきたのも、あいつらだろう。
――まさに「アブラムシ」といったところか。
すっかり小さくなった奴らを見送りつつ、先生はまたセミのいるであろう方へ向き直る。
セミは先ほどのことなど気にもとめない、といった様子で、木の幹の中ほどでシャウトを続けていた。
ちょうど先生の手が届くほどの位置。さっと手をかざしたまま、セミとの間合いを詰めていく。
先生個人の、必殺の間合いがある。そこまで寄ったら、秒も数える早業で、羽根越しにがっちりとそのボディをつかんでやると思っていたのだけど。
逃げられた。
先生が手を設置し終えるより先に、セミは声を出しながら、ぱっと飛び去ってしまったんだ。その胴体の端から、細かいしぶきが飛ぶのが見える。
おしっこだ、と先生はとっさに身をかわしたが、今回はそうもいかなかった。
おしっこが宙から地面に落ちるまでの、ほんのわずかな時間に、その液体へ飛び込んでいったものがいたのさ。
引き返してきた、あの「アブラムシ」たちだった。
あっという間に先生の視界内へ飛び込んできたこいつらは、おしっこを身体に浴びるや、たちまちその身体に青い炎をまとったんだ。
思わぬ爆風も伴う。子供とはいえ、先生の身体が軽々と浮き、数メートルも後ろへ吹き飛ばされるほどのものだった。
鬼火となったアブラムシたちは、おしっこの出どころを探るように、セミを追従。
もろにぶつかり、セミそのものを火だるまにしながら、おもいおもいの方へ飛んで行ってしまう。
二匹は田んぼの彼方だが、一匹は空き地からそう遠くない一軒家。そのブロック塀の内側にある木をかすめるような軌道を取る。
木はぷすぷすと煙を吐くや、ほどなくはっきりとしたオレンジ色の火を灯し、燃え始めてしまったんだ。
ほどなく、その家の人が気づいて消防車まで呼ばれてさ。あわや本格的な火事になるところだったんだよ。
先生が見た、あのアブラムシたち。
あいつらが鬼火とかのすべての原因とはいえないが、ああも強烈に発火して、なお飛ぶのであれば怪談として語られうると思うんだよ。