泣いたお月様
「お姉さまあれを見て。お月様が泣いているわ」
「いつものことだけれど、お姉さまは随分と詩的な物言いをなさるわね」
「詩的も何も、私は見たまんまのことを口にしているだけよ。ほらあそこ。映画館の9番シアターの3列目。スクリーンには何も映っていないのに。他には誰もいないのに」
「お姉さまは私を試しているのね。確かにすすり泣く声が聞こえるわ。でもそれがお月様のものなのかはわからない。私は目が見えないのだから」
「きっと太陽が恋しいのね。お姉さまが私を求めるように、あのお月様はお天道様に恋してるのよ」
「あら、お姉さまも私を求めているのでしょう?」
「そうね。私たちの神様が、二人の恋路を邪魔しているから泣いているんだわ」
「でも、障壁が多い方が恋は燃え上がるって、お姉さまが言っていたじゃありませんか」
「ごめんなさい。お姉さまには秘密にしてたけど、高すぎる壁は建てたら壊すことができないのよ」
「そうやってまた詩人らしくはぐらかすのね。そこが好きなのだけれど」
「どうあがいても、昨日には戻れない」
「ええそうね。だからこそ、お姉さまの目には何が映っているのか、私にはわからないの」
「私にもわからないわ。ところで、お月様はちゃんと入館料を支払ったのかしら」
「これはお金で解決できない問題なのよ、お姉さま。支配人も許してるのよ」
「あら、そう。でもここは忘れ去られた映画館なのよ」
「お姉さまにはそう見えるのね。それがお姉さまの目に映ったもの……また一つ、お姉さまのことを知ることができたわ」
「このシアターはとても広い。その中でぽつりと泣いているお月様。それくらいのことはわかるわ」
「あら。崩れた天井から差し込む星の光はわからなくて?」
「風なら感じるわ」
「お姉さまのことがたまにわからなくなるわ。けれどそれ以上にもっと知りたくなる」
「冷たい風……しがない絵描きの筆の先のようね」
「わからないわ。絵描きも絵も。知識としてはあるけど、生まれたときから目が見えない私には、体験としてのそれがない」
「知識があれば十分よ、お姉さま。でも不思議ね。絵はわからないのに、涙はわかるの?」
「お姉さまが幼いころによく泣いていらしたのを覚えているわ。その涙をぬぐった感覚が、今でも手に残っているの」
「それは愛すべき記憶だわ。きっとあのお月様にはそういった記憶が欠けているのね」
「愛すべき記憶なんてあるのかしら?」
「たくさんあるわ。この世界はそういう風に創造されたの」
「それなら仕方がないわね。あのお月様はそういう世界のもとに産み落とされた不幸な存在なのだから」
「愛すべき記憶に囲まれて育ってきた私たちは幸せね。お姉さま」
「そうね、お姉さま」
「どうやらあのお月様も、自分の不幸せを認識したみたい。空へと還っていくわ」
「幸が訪れますように」
「大丈夫よ。あのお月様は未来永劫、瞼を開けることも、音を聞くこともしないのだから」
「お姉さまってやっぱり詩人ね」
「そんな自覚は全くないのだけれどね。でも、一つ言えることは、私はお姉さまの傍に居れて幸せだってことだけ」
「私もよ、お姉さま」
「目の見えないお姉さまに、耳の聞こえない私。愛すべき記憶の中で生きていられる幸せを感じるわ」
「そうね。さあ、私たちも帰りましょ、お姉さま」
「ええ、お姉さま。二人だけの家へ」