H2.逃げられると追いかけたくなる心理を理解した瞬間
ぼくの留学先となる王国は、千年以上の歴史を持つ古い国だ。伝統的で保守派。それが彼らの誇りでもあり、おごりでもある。
王国人は歴史に、つまりは過去に生きている――それが諸外国から見たかの国のイメージだ。
実際、実用されている魔法の術式が、他の国に比べるといささか旧式であることは否めなかった。
たかだか百年程度の皇国は、正直なめられていると言っていい。
恭順の意を示すために伏せられた顔には、「力で従わせた乱暴ものが」という嘲りの表情が隠れている。ちやほやおだてられてもけして油断はしないように、舞い上がりでもすれば裏で笑い話にされるぞ――出発前、そんな注意をされた。
まあぼくは今まで散々「あいつ一人だけ皇族っぽくないんだよなあ……」と半眼で見られてきた人間なので、それならさほど変わりないのかなと特に気にしなかった。
ところが行ってみたら予想外のことが起きた。
ものすごく歓迎されるのである。どこに行ってもだ。
最初は「事前注意のあれか、真に受けないようにしよう」と思っていたが、少ししてすぐ「これはひょっとして本心からぼくを褒めているのでは……?」と感じるようになった。
なんかこう、熱っぽい目がどこかの誰かによく似ているのだ。あれから殺意を消した憧れのまなざしが、王国ではいたる所から向けられる……。
どうも皇室では「軟弱」「皇族の外れ値」「本当に成長期来たの?(来てるよ、喉仏あるでしょ!)」と不評なぼくの線の細さが、この国では理想の貴人らしさと合致するらしい。
色白で線が細い垂れ目の薄幸系が、王国におけるスタンダードなモテ美人なのだとか。複雑な気分だ……。
でも全体的にはものすごく快適だ。少なくともこの国には、ぼくを殺しに来る人間がいない。
今頃皇室で「兄上がいない、余の毎日の目標が!!」とか泣いているかもしれない弟よ。将来皇帝になるお前の重責を察しつつ、保身を優先させてしまった、ふがいない兄さんで本当にすまない。
だけど、もうしばらくきみが曲がり角から飛び出してくることを警戒せずに済むと思うと、空気がこんなにもおいしいんだ。これが自由……なんという開放感……!
願わくばこの間に、きみが別のストレス発散方法を見つけてくれることを祈っている。
さすがに正式な滞在先にはそれなりの人員が配置されているのだけど、学園内ではぼくはほとんど単独行動ができた。
元々皇族は万が一の時のためにと、ある程度自分の面倒が見られるよう、躾けられている。だから一人になっても不便は感じなかった。
――さて、留学して数日後、ぼくは一人で放課後の学園を探検することにした。
案内の申し出は多数あったのだが、丁重にお断りした。お気持ちだけで。今はまだ純粋な熱しか感じないけど、ちょっとトラウマを思い出させるので。
ぼくは校庭から続く大階段を登るといいことが起こる、と小耳に挟んだので、そこに向かっていた。
大階段は記念広場に続いている。広場自体は、学園に多額の寄付をした支援者の名前を刻んだ石碑が置いてあるだけの、面白みのない場所だ。
ただ、無駄に長い階段なだけあって、登り切るとそれなりの高さになる。石碑に背を向けてやると、結構良い眺望なのだそうだ。
暇だし、ちょうど人がいなくてのんびりできそうだし、行ってみない手はなかった。
だけど登っている間にまさかの事件が起きた。
……人が降ってきたのである。
大階段には手すりも踊り場もない。足を踏み外したら、そのまま本当に一番下まで真っ逆さまに落ちてしまう。想像しただけでヒヤッとする事故だ。
とっさに受け止めたぼくが呆然と見下ろしていると、少女がうっすら目を開けた。
――翡翠色の、とても綺麗な目だった。
ぼくははっとする。
見間違いでなければ、瞳に特徴的な光が宿っていた。
ぼくを――ぼくから立ち上る魔力の流れに焦点が合って、まぶしそうな表情になる。
(これは……精霊眼かな?)
珍しい。色々と“見える”目なのだと、どこかの書物で読んだ記憶がある。その名の通り、精霊を見ることで彼らと契約を交わすことすら可能なのだとか。
さすが伝統的魔法国家、といったところだろうか。こんな人材が勝手に落ちてくるだなんて。
感心していると、不意に天使なのかと聞かれた。
どうも階段から落ちたショックで、相当混乱していたようだ。予想外すぎて、ちょっとツボに入ってしまった。神の御使いに見間違えられたのは、たぶんこれがはじめてである。
そのまま気絶してしまったので、医務室まで送っていった。
色々聞いてみたいこともあったし、目覚めるまで待つ時間もとてもワクワクした。
……だけど残念、どうやらあまりこちらの第一印象はよろしくなかったようだ。
「きみ、名前は?」
「シャリーアンナ……」
「そう。可愛い名前だ。シャンナって呼んでいい?」
こく、と頷いた顔色が悪かったので先生に声をかけにいったら、その一瞬の間でいなくなってしまったのだ。怯えさせてしまったらしい。そんな変なことをしたつもりはないんだけど……。
がっかりした。と同時に、ますます興味を持った。
恐縮しながらも、ぼくを見つめる目には尊敬が浮かんでいるように見えた。
少なくとも、蔑みではない。好意に近いような気がするけど、それなのに逃げていってしまった。
嫌われて遠ざけられることも、変に執着されるも経験がある。だけどこんなことははじめてだ!
(シャリーアンナ……シャンナ。黒髪、翡翠の目。たぶん貴族令嬢だけど、そこまで上級ではない……)
そういえば、今までぼくはもっぱら、逃げる方の担当だったけど。
せっかくの気分転換に来ているのだし、今までできなかったことを試してみろと両陛下だって言っていた。追う方になるのも悪くはない。
――こうしてぼくは、シャリーアンナ=リュシー=ラグランジュに強い興味を持つようになった。