4話:株の稼ぎで家を新築
その後も、柳生敦夫は、その商店の近くの公民館で、毎週日曜日にベーシック教室を継続して、多くのパソコン商売し、特に中古品の売買で4年弱で1000万円を手に入れた。1982年が終わり1983年を迎えた。
この当時は、電化製品が高く一般庶民は、月賦で購入する人が多く買ってから月賦が終わる3年、4年で、画期的な新製品が出た。その月賦途中の流れ品は、新品同様でも買い値は、半額以下になりそれを柳生敦夫が、現金で買いとった。
そして定価の2,3割引で販売する。この美味しい商売は、お客さんに顔が、あるかどうか信用されてるかどうかが決めだった。その点、柳生商店では、パソコン購入者に無料でパソコンの使用法と説明会とベーシック言語の教室を開き、お客さんとの信頼関係を保っていた。
そのため、秋葉原で修理用の部品を買ってきて、修理したり、特選中古品を販売したりして稼いでいた。簡単な電気製品の修理方法もメーカーへ行き講習を受けてマスターしていき、地域住民への修理も万全を期していて、便器屋として重宝がられていた。
そのうち、バイクも商うようになった。当時、ホンダ・スーパー・カブは、原動機付き自転車免許で乗れ、大人気でこの地域でも売れていた。その修理の方法や特長をホンダの工場へ行き、講習を受けて、ホンダ特約店となりスーパーカブを始めオートバイの売買を広げていった。
これが、パソコンに、次いで、美味しい商売であった。やはり無理して月賦で買って払いきれずに安く引き取れた。そのスーパーカブをきれいに洗って、整備して、新品の2割引で売った。
下取りは、通常5割引で、汚れがひどいと6割引、修理が必要な場合7,8割引だった。たまに車輪が曲がったりした事故車を無料で、引き取りに行き、無料で手に入れることもあった。それを磨いて3割引で売れるのだか、笑いが止まらなかった。
稀に、不良っぽい、高校生、大学生が高価なバイクを買ったが保険に入れないというので、サービスとして、保険をつけてやった。そして、その不良っぽい、兄ちゃんが、交通事故で死亡して、保険金が入る事があった。
しかし、これは、大金が入るが、さすがに、罪悪感に苛まれて、継続することは出来なかった。敦夫も、将来、死ぬときになっても地獄より、天国に行きたいので、直ぐにやめた。
そんな事で、1987年には、父に借りた100万円も全額返済し、父も保険や、その他の手続きなど含めて、総額1000万円を父に渡し、それでも、敦夫には2000万円が残った。
そして1987年4月22日、早朝、証券会社から電話が入り、日本電気株が上昇しているので25000円で売り指値を指示されて了解し、売りを指示した。すると、その晩、電話で全株売れたと連絡が入った。税引き後利益17700万円ずつ、父と敦夫が手にした。
そのため、親子とも資産が2億円を超えた。ちょうど、その頃、ワリコー、郵便局の預金の金利が7,8%であり10年で2倍になった。そこで、父の資産のアドバイザーをしてくれていた、
地元の柳生鉄郎の息子が一橋大学を出て三菱銀行に勤めていたので、利殖方法を聞いた。すると、不動産が良いが、1億円では、足らない。そこで、株でもうけた方が良いと教えられた。
1988年4月に、柳生敦夫の長男の柳生利一と長女、柳生愛子が、そろって地元の中学に入学した。長男は理系が得意で、長女は英語と国語、文系が得意だった。
中学2年になって、長男の利一は、早稲田大学の理工学部をめざすと言い、長女の愛子は、慶応大学商学部を目標にすると言った。そして、両者とも、出来たら高校から早稲田と慶応に入りたいというので、入れれば良かろうと、父の敦夫が許可した。
その後、勉強を続けクラスベスト3に入り、中学3年の時に担任の先生から、受験しても良いと、許可が下りた。その時点での合格の可能性は75%だった。そして、中学3年になり、2人とも、学年でベスト10入りした。