脱走
つららは恐怖という感情をよく知っていた。彼女はルイスの指示で数多の被験者を殺し、そのたびに彼らの怯える姿を目の当たりにしてきた。
「助けて……」
「嫌だ! 死にたくない!」
「殺さないで……」
そんな声ばかり耳にしている彼女も、ルイスには歯向かえない。つららは何も聞こえないふりをし、生唾を呑み込みながら氷の太刀を振り下ろす。そして虚ろな眼差しで骸を見下ろしつつ、彼女は深い溜め息をつくのだ。
この当時からすでに、ルイスは彼女の実力を買っていた。
「……溶けない氷を作るには、ただやみくもに冷たい氷を作れば良いわけではない。氷は結晶が大きく、密度と純度が高いほど硬く溶けにくくなる。六歳にしてそれに気づき、応用するとは……やはりお前は優秀だな」
「皆……怖がってた」
「ん? どうした?」
「僕に殺される時! 皆、怖がってた!」
「ああ、その通り。死ぬのは怖い。だから生き残るために競争をする。だから生物は淘汰され、進化し続けるのだ」
もはやこの男には何を言っても無意味だろう。心身ともに成長していくにつれて、つららは徐々に彼の異常性に気づいていった。
それから月日は流れ、彼女が十歳になった夏のことである。ルイスは奴隷市場から一人の少女を買い取り、その少女をつららと同じ部屋に入れた。つららはすぐに少女と仲良くなり、彼女を「親友」と呼ぶようになった。
「おはよう、親友。外の世界には培養肉や工場野菜以外の食べ物があるって聞いたんだけど、本当なの?」
「ええ、本当よ。クレープという食べ物が特に美味しかったわね。イチゴやバナナ、ホイップクリームなどを生地に包んだ食べ物なんだけど、とても甘くて美味しいのよ。口で説明しても、伝えきれないほどにね」
「良いねぇ。僕も食べてみたいよ、クレープ」
奴隷市場で買われた少女は少しだけ外の世界のことを知っており、彼女のする話はつららにとって新鮮なものであった。それから二人は更に外の世界のことを知りたいと考え、毎日のようにルイスの研究室や書斎に忍び込むようになった。そして本を読めば読むほどに、ルイスが常軌を逸した人間性をしているという疑惑も確信へと変わっていった。
ある日、二人は決意した。
「親友……ここを出ないか?」
「また書斎に行くのね?」
「いや、外の世界に行くんだ」
「え? そんなことをしたら……」
「大丈夫、僕が君を守るよ」
つららは親友の手を握り、周囲を警戒しながら薄暗い廊下を突き進んでいく。この時、二人は大きな希望と緊迫感を共有していた。物音を立ててはいけない。息を潜めなければ、あの狂人に見つかってしまう。二人は各々の夢を思い描き、声を精一杯抑えながら未来について語らった。
「ねえ親友。ここを出たら、とびっきり美味しいクレープを食べに行こう」
「良いわね。遊園地にも行きたいし、動物園にも行きたいわ」
「どこにだって行けるし、どこにだってつれていくよ。約束する」
「それなら私は、ケーキとか、ドーナツとか、シュークリームとか……とにかく美味しい食べ物をいっぱい紹介するわね」
「へへへ……楽しみだなぁ」
つららは屈託のない微笑みを浮かべていた。これから脱出できることを確信しているわけではない。ルイスが奴隷市場で買ってきた少女は、彼女にとって初めての親友なのだ。つららは唯一無二の親友を守り抜こうと意気込んでいた。
――――しかし人体実験場の正面口では、ルイス・エアロシュタインが二人を待ち構えていた。
つららは絶望した。
「嘘……どうして……」
敵はルイス一人ではない。彼の周りでは、無数のキメラがつららたちを睨みつけながら臨戦態勢で構えている。キメラの姿は、人型を保っているものからそうでないものまで様々だ。ルイスは二人に真実を告げた。
「被験者は皆、GPS機能の搭載されたマイクロチップを体内に埋め込まれている。当然、お前たちの行動も常に監視されていたというわけだ」
「いつの間に……⁉」
「学習は素晴らしいことだ。だからお前たちが書斎に忍び込んでいることに関しては目を瞑っていたが、脱走を企てているのなら話は別だ」
……彼はつららたちの動向に気づいていた。




