ジェラトの壊滅
――あれは三十九年前のことだった。
「怯むな! 立て!」
「皇帝陛下様は偉大なり!」
「背を向けた者から死ぬぞ!」
むさ苦しい男どもの張り上げる大声と、それを掻き消す勢いの轟音。地上に降り注ぐ無数の炎の弾と、砂煙に交じった血肉。
ここは氷の国ジェラト――氷の魔術師の国である。
押し寄せる敵は皆、炎の国ソルトピアの屈強な戦士だ。ジェラトの魔術師たちは氷の盾で己の身を守りつつ、敵陣の兵士たちを次々と凍らせていく。しかしこの戦争において、彼らは目に見えて優位に立っているわけでもない。
「焼き尽くせ!」
「蹴散らせ!」
「かかってこい!」
猛火は氷の盾を溶かし、氷の魔術師の軍勢を焼き払う。夜の戦場を照らす金色の炎は、氷塊の光沢を一層際立たせる。ジェラトとソルトピアの兵力は拮抗しており、双方に同等の勝機があると言っても過言ではない状況だ。
――ただし、それも「ハルマゲドンの書」が無ければの話である。
遠方から甲高い咆哮が聞こえてきた。二本の脚と二枚の翼を持つ小柄な竜――ワイバーンの群れの登場だ。その一頭一頭の背には、ベテランの竜使いがまたがっている。ソルトピアの兵士たちは次々と竜使いたちに引き上げられ、ワイバーンの背に乗って戦場を後にする。
「……撤退か?」
ジェラト軍の兵士たちがそう思うのも無理はない。彼らはただ、これから起こることを知らないのだ。荒野の上空に巨大な黒い竜が現れたのは、それから間もないことだった。大地を影で覆うほどの巨躯を乗りこなす竜使いは「ハルマゲドンの書」と呼ばれる魔導書を左手に持っていた。
「全てを消し炭にするのだ……ハルマゲドンの書よ!」
黒い竜の背のすぐ上方に、直径十メートルはある炎の球体が形成される。そして竜が素早くその場を去るや否や、残された置き土産はジェラトの荒野に落とされた。この瞬間、戦場には逃げまどう者もいれば、氷のシェルターを作る者もいた。
「これ以上冷たい氷は作れないのか!」
「不可能であります! 熱エネルギーの量は0より少なくはなりません!」
「まさか絶対零度の壁にぶち当たる日が来るとは……」
絶対零度に近い冷たさの氷でさえ、ハルマゲドンの書の生み出した炎には瞬時に呑まれてしまう。そして地獄の業火と呼ぶに相応しい真っ白な光が大陸を包み込み――――
――――氷の国ジェラトは滅びた。
生存者たちは難民化した。彼らのうちのほとんどは、隣国のアルケミア国に流れ着いた。無論、一つの国が壊滅する事態ともなれば、それは世界各地で騒がれるような一大事であると言っても過言ではないだろう。ジェラトからの移民たちは歴史的敗者という不名誉な汚名を着せられた。否、彼らのみならず、全ての氷属性の魔術師がその烙印を背負うことになったのだ。それからの社会情勢は最悪だった。己の魔法を他者に知られることは、氷の魔術師にとって奴隷として売買されるようになることを意味していた。しかし不幸中の幸いか、氷属性の魔術師には容姿における特異性がない。彼らが氷属性の魔術師であることを一目で見抜ける者は誰もいないだろう。氷の魔術師たちは皆、己の魔法を隠しながら生きるようになった。
この時はまだ、世界中の誰もが予想しなかった。ジェラトが滅びた三十九年後に、氷を司る魔術師が歴史に名声を刻むということを。
*
時は現代。氷の魔術師に対する差別感情は、今もなお人々の間に根付いている。持ち前の魔法を活かした職に就く者の多い世界において、氷属性の魔法しか使えない者は仕事を選べる立場にはない。そして、そんな彼らのうちの一人とも言うべき少女が今、雨の降る街を一人で練り歩いている。
「……ここか」
彼女は銀髪を風になびかせつつ、怪しげな建物の中へと足を進ませた。




