キミのいない世界
「何を、言っている」
ロウの低く抑えた声。明日香はそれを震える思いで聞いていた。
「あのね、ロウ、」
決めたはずなのにと、明日香は苦く思った。固いと思われた意思は、ロウを前にすると、こんなにも容易にぐらぐらと揺れてしまう。明日香は、握っていた両手を一度開くと、また握り直した。
そして、話を続けようとして、途端に遮られる。
「あのね、」
「どういうことだっ。 オレよりコタローを選ぶってことか」
「違うの、ううん、違わない。私、コタローとじゃないと家に帰れないの。自力では登れないし、コタローにおんぶしてもらわないと、」
「オレが連れていく」
「ロウでは、私をおんぶしたまま『双樹』を登れない……」
「……一緒に来てくれって、言わないんだな」
さらに低くなる声に、ぞくっと冷たいものが走る。
「……言えないよ」
「どうしてだ。別れるなんて、聞いてない」
「仕方がないの。このアシンメトリーワールドは、完全に切り離されるの。一度、向こうの世界に戻ったら、もうこっちには戻れない」
「明日香が、こっちに残ればいい」
「……できない」
「何でだっ‼︎ オレのことが嫌いになったのか? もう好きじゃなくなったのか?」
「世界が二つになったら、それぞれの時間はそれぞれで進んでいく。その時、私が居なかったら、パパとママが狂ったように心配する。きっと、私を探すと思う。でも、私は帰れない。そんな苦痛を味わわせたくないの」
「……オレが行くよ。それなら、良いはずだ」
明日香の目から涙が溢れて流れていく。それを拭うことなく、唇を噛んだ。
「ダメだよ。ロウは連れていけない。わかって欲しい、お願い、ロウ……」
ガタッとイスを後ろに倒したまま、ロウは立ち上がって外へと出て行ってしまった。
その後ろ姿。ウェーブのかかった黒い髪。明日香、と名前を呼ぶたびに、覗き込んでくるグレーに縁取られた瞳。
愛しさから、明日香は何度も、ロウの名前を呼んだ。
「ロウ、ロウ、ロウ……」
(こんな別れが来るなんて、思いも寄らなかった)
細く息を吐く。
ふと、明日香はゆかりの言葉を思い出した。
「ロウは獣人なんだよ。もし、あんたの世界でロウのことが世間にバレたら、大変なことになる。前は私が居たからなんとかなったけど、今回はもう、私は居ないんだからね。あんたにロウを守れるのかって話」
明日香はふふっと、力なく笑った。
(今回のことでよくわかった。私、本当に何にも出来なかった。どうして良いかわかんなくて、守られてばっかりで、みんなを守れなかった。こんな私なんかに、ロウを守るだなんてできない。それに……)
微かに震える手のひらを見る。
(ロウと、パパとママ。どちらかを選ぶなんて出来ない。それと同じで、ロウだってユノや皆んなと別れられない。別れちゃダメなんだよ、ロウにとってユノは、大切な家族なんだから)
「……ダメなんだよお」
声に出すと、嗚咽が抑えられなくなり、明日香はテーブルに突っ伏して泣いた。
「うっ、うえっ」
せり上がって来る悲しみは、久しぶりに明日香の中で黒い染みを作っていった。
✳︎✳︎✳︎
「明日香、本当に良いのか?」
コタローが、おずおずと明日香に声を掛けた。
腫れた目で、うん、と力なく頷くと、明日香はぱんぱんに膨らんだリュックのチャックを閉めた。
「トニマニやマルたちに色々と貰っちゃって、こんなんになっちゃった」
えへへ、と笑う。コタローにはその無理した笑顔が、辛く感じた。アシンメトリーワールドの切り離しは、明日の夜に決行されると、ゆかりに聞かされている。
明日香の選択を話すと、ゆかりは表情も変えずに言った。
「それが良いんじゃないの? お互いのことなんて、時間が経てば直ぐに忘れるって。慣れてる世界で生きるのが一番でしょ。わざわざ、苦労しに行かなくてもさあ」
コタローは、ムッとして反撃した。
「忘れるって、じゃあキミはナスダリ博士を忘れられるのかよ」
そう言われて、ゆかりもムッとした表情を浮かべる。
「あんたも言うようになったわね。何にも出来ない青二才だったくせにさっ」
「そうだよっ‼︎ ボク、何にも出来ないんだよ‼︎ 明日香を笑わせることだって出来ないんだ。ボクには無理だよ。だって、つい最近まで犬だったんだからなっ‼︎」
ゆかりが、難しい顔をしながら、言った。
「でも、良いじゃない。これからは、明日香を独り占めできるんだから」
「そんなの、嬉しいけど、嬉しくないっっっ‼︎」
コタローは、そう言い放つと、踵を返して走った。
(そうだよ、あんな明日香は見たくないんだ‼︎)
急ぎ足で、ユノの家に繋がる道へと折れた。
✳︎✳︎✳︎
「ねえ、ロウ。キミはどうしてこんな風になっちゃったのかな」
キッチンに立ちながら呆れたようにユノが言うと、ロウはイライラとしながら、キャベツを剥いていった。テーブルの上には山盛りのキャベツの葉が、その高さを高くしていっている。
「別にもうどうだって良い」
バシンと最後の葉を上へ乗せると、足元のカゴからもう一つのキャベツを取った。そして、それを剥き始める。
「ちょちょちょ、ちょっと‼︎ そんなに使わないだろ‼︎ キャベツはもういいって‼︎」
ユノが言っても、ロウはその手を止めなかった。
「おいっ‼︎ もういいってば‼︎」
ユノがキャベツを取り上げ、カゴの中へと戻す。そして、腰に手を当てると、大きな声で怒鳴った。
「オマエ、いい加減にしろよっ‼︎ 明日香を一人で行かせる気かっ‼︎」
「一人じゃねえ、コタローが一緒なんだとよ」
「ロウ、キミはそれでいいのかよ」
ユノが声を落として言った。
「いいのかって言ったって、明日香がそう決めたんだ。オレがどうこう口を挟むことじゃないだろ」
バシッと、握りこぶしで山盛りのキャベツを叩く。
「コタローに取られちゃうぞ」
「そんなこと知らねえよ‼︎」
「明日香が好きなんだろっ‼︎」
「好きだけど、仕方がないだろ」
ユノがくるっと回って、キッチンへと戻る。シンクに置いてあったバケツを取り上げると、つかつかとロウの後ろへと回り、ロウの頭の上でバケツをひっくり返して、中の水を被せた。バケツの水はバシャンと音を立てて、ロウの全身を濡らした。
ロウは驚いて、堪らず立ち上がると、ユノの胸ぐらを掴み上げた。
「おいっ‼︎ 何するんだっ‼︎」
「オマエがポンコツだからだよ‼︎」
ユノも負けじとロウの肩を掴む。取っ組み合いになり、二人は掴み合いながら、床を転げ回った。
「明日香が好きなんだろっ‼︎ だったら、何の問題もないだろ‼︎」
「うるさいっ、オマエに何が分かるんだっ‼︎ 明日香は自分で決めたことは必ず守るんだっ‼︎ オレが何言ったって変わりゃしないんだよ」
ユノの上に馬乗りになる。
「オレが居なくたって、明日香は自分の力で歩いていってしまう。そういう強い女なんだ‼︎ 一人でもちゃんと前に歩いていくんだよっ‼ 一人で歩けるんだっ‼︎ オレなんか、必要ねえんだよ‼︎」
すると、バシャンっと再度水を被った。今度はユノもびしょ濡れになった。ロウとユノが見上げると、コタローがバケツを抱えて、背中を上下させながら息を切らしている。
「はあはあ、オマエら、本当にバカだなっ」
コタローは息を整えるのも忘れて、腹から叫んだ。
「明日香はあれからずっと泣いてるんだぞっ‼︎ オマエらいい加減にしろぉぉっ‼︎」
コタローの叫び声が部屋中に響いた。




