空虚
「ごめんね、また記憶を失くしてたみたいで……」
「ああ、どうってことない」
ぽっかりと空いた心を持って、ロウはぼんやりと明日香を見ていた。
カフェの片隅で、向かい合う。明日香は、ぽつんとロウの前に座って、少し俯き加減で薄っすらと笑いながら言った。
「あ、あと、電車の事故の時。ほら、ロウが助けてくれたでしょ」
視線は合わない。
「ああ、でも結局は明日香を守れなかった」
「う、ううん、そんなことない‼︎ 直ぐに病院に連れてってもらえて良かったって、ママが……」
「ああ」
「すみません、」
聞きなれない声に顔を上げると、明日香も同時に顔を上げて、声の方へと向く。
「あの、何かご注文はありませんか?」
何も注文せずに座っていたことに気づくと、ロウは狼狽えた。キョロキョロと目を這わせてメニューを探す。
話をしても言葉が通じないので、いつもはメニューを指差して頼んでいる。何かを買ったり食べたりする金はゆかりに持たされているので、ポケットに常に入っていた。
先にメニューを見つけた明日香が、指を指しながら話し掛けてくる。
「ロウ、何か飲む?」
「ああ、これを」
指差したカフェオレと、聞き慣れない何かを明日香が注文する。すると、店員はかしこまりましたと言って、キッチンへと入っていった。
「ゆ、ユノは大丈夫なのかな?」
「オレもわからない。でも、ユノのことだから大丈夫だろ」
「そうだね」
会話が途切れそうになり、ロウは慌てて言った。
「ケガはもう、大丈夫か?」
「うん、肩の傷はもう塞がっているよ。傷は縫った方が綺麗に治るんだって。抜糸ももう終わってるし、もう痛くないよ」
「そうか、良かった」
その時、店員が注文したものを運んできた。ロウは、身体を少しだけ反らせた。
目の前に置かれたカップには、なみなみと注がれたカフェオレ。ゆかりが好んで飲むのを見て、試しに飲んでみたら、あまりに美味しくて気に入った飲み物だ。
「明日香、お前……変わってないな」
明日香の前には、クリームがこれでもかと言うほどに盛ってあるパンケーキが置かれた。
「えへ、太るかな」
明日香は、フォークを持って、笑って言った。
その笑顔。ロウは胸が締めつけられる思いがした。ユノが愛した笑顔。そして、自分も同じように、それ以上に。
「ロウも食べる?」
「いや、オレは……」
「美味しいよ、ここのパンケーキ。食べてみて」
口の縁に、クリームをつけて笑う。その笑顔に吸い寄せられる視線。
「食べる」
あはは、と笑う声。高くもなく、低くもなく、耳にコロンコロンと入ってくる。
「はい、」
フォークに刺した、これでもかと言うほどクリームにまみれた一切れのパンケーキ。ずいっと出されて、つい口を開けてしまった。
パクッと食べる。口の中に広がる甘みが、緊張感を解きほぐしてくれるようで、ロウはウマイと口にした。
キャアっと周りで声がする。チラと見ると、数組の客がこっちを見ていた。
「あ、ご、ごめん」
明日香が視線を外して頬を染めるのを見て、ロウは再度、ああ、と思った。
「オレこそ、すまない」
男が見ているかもしれない、そう思ったに違いない。
冷えていく。心が。
口の中に甘みが残ったが、直ぐにカフェオレを流し込んで、そしてそのまま蓋をした。
「ゆ、ゆか、りさんは、元気?」
明日香が先ほどまでの笑顔のまま、そう訊いてくる。ロウは、ああ、とだけ答えて、横を向いた。
「そっか、良かった」
明日香の声が震えたような気がして、ロウは明日香を見た。相変わらず、口の縁にクリームを付けているが、笑顔に違和感がある。笑っているようで、笑っていないような気がした。
「どうした?」
ロウが、声を掛ける。すると、そんな明日香の唇に釘付けになってしまった。
「え、あ、ううん、ナンデモナイヨ」
ロウが思う。
この唇は、異国の言葉を何ヶ国語も話し、そして平和を求める。
(明日香なら、平和をもたらすことができるのだ。このアシンメトリーワールドの全てを)
それなのに、その唇を自分だけのものにしたい、独善的な想いが頭の中を占めていく。
ロウは、自分がその想いに振り回されているのを、自分自身よく解っていた。




