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滑り落ちていく

「ほら、一緒に住んでるだろ」


ふわふわと宙を漂っているような落ち着かない気持ちがして、明日香はその場にしゃがみ込んだ。

今は、獣人でなく「人」の形をしているコタローが、隣で苦々しく眉根を寄せている。「獣人」の時にあったアゴのヒゲはなく、それはどこから見ても、そこら辺にいそうな青年だ。けれど、野生味の溢れる外見は、獣人の時のそれと変わらない。


「はああ」


しゃがみ込んだまま、明日香は大きな溜め息を吐いた。


「……思ってたより、」


言葉が途切れる。


「ショックだあ」


コタローにロウがゆかりと恋人同士になったと聞いてはいたが、実際仲良く肩を並べて買い物袋を下げて、一軒の家へと入っていく姿を見ると、やはり。


「……また記憶を失くしたのがいけなかったんだ。あああ、ほんとツイてない。おバカな私」


ゆかりが門を開けようとすると、ロウが先に手を掛けた。ゆかりが笑顔で何かを口にする。ありがとう、とかそういった言葉だろう。


(ロウは、優しいから。誰だって、好きになる)


最近、大学内で絶世のイケメンが出没する、という噂が、ロウを思い出した途端、繋がったと思った。ロウなら、ハーフかモデルかと話題になるのは分かっていたし、明日香は今まで「獣人」の世界にいたので気がつかなかったが、明日香の世界ではロウやユノは、そのまとっている空気感も違うし、その顔立ちなどの外見も一般人と比べるとずば抜けてかっこよく、秀でている。


(……それに、)


ロウの良いところと言えば、考え込まなくても、泉のように次から次へと湧いてくる。


あのゆかりだって、愛するナスダリ博士を失った悲しみを忘れるのに、ロウが側にいれば、きっと心の拠り所となるだろう。


「そっか……もうダメなんだ。そっかあ」


ぽつりと言葉が漏れる。

いつのまにかコタローは、犬の姿に戻って、明日香の足元に大人しく座り込んでいる。


(ナニガダメナンダ。私なんて、最初っからダメに決まってる)


心で呟くと、大きな溜め息が出た。


「……明日香、帰ろうよ」


コタローの声に、うんと頷くしかなかった。


✳︎✳︎✳︎


重い足を引きずって、久しぶりに明日香の大学へと向かうと、運良くエントランスで明日香の姿を見つけた。


明日香は、大きな木の側に立っている。遠巻きに見ていると、廊下が続く入り口から出てきた男が、明日香に近づいていく。


ロウは、慌てて下を向いた。二人を見たくなかった。やはり、来ない方が良かったと思うが、もう遅い。後悔が吹き上がっても、足は回れ右をしない。


明日香に会いたかった。会いたくて仕方がなくなって、復旧したあの電車に乗った。電車に乗ると、あの病室での出来事を思い出す。


忘れられた自分。現実を突きつけられ、居たたまれずにその場を離れた。

その時、明日香を助けたことで、明日香の両親にも会った。


あの明るく優しい明日香を育てたということが分かる、常識人の父親と優しい母親。


「明日香を助けてくれてありがとう」


病室から出たロウを追いかけるようにして、母親がすがるように何度も礼を言い続けた。


「オレは、当たり前のことをしただけ、だから」


おずおずと言うと、明日香の母親は、首をかしげて困ったような顔をした。言葉が、伝わらなかった。それが、ロウをさらに苦しめた。


明日香の住む世界は、ロウにとっては驚きで溢れている。勝手に動く階段。人がたくさん入っている不思議な箱。


思いがけず事故にあったが、初めて電車を見た時、その乗り物の大きさやスピードに驚きというよりも、何かとてつもないものが襲いかかってくるんじゃないかという恐怖を感じるくらいだった。


知らない世界に放り出されるということは、こんなにも大変だったとは。

ロウは、ロウの世界で明日香を初めて見つけた時のことを思い出した。明日香もきっと、知らない世界に放り出されて、今の自分と同じように不安だっただろうと思う。


(それなのに……明日香はいつも笑っていて)


脳裏に明日香の笑顔が浮かんでくる。

ぶわっと愛しさが湧き上がってきて、ロウの全てを占領してしまう。


ロウは、前に向き直した。そして、歩き出す。


(他の男なんかに取られたくない。明日香をユノ以外の他の男なんかにっ)


握った拳に力が入る。足取りがどんどんと速さを増して、ロウは明日香めがけて歩いていった。


明日香の隣には、あの男。笑いながら、話しかけている。胸が苦しいほど、絞られる。


(オレは一体、何をするんだ。明日香と明日香のボーイフレンドとの仲を邪魔するのか。明日香はこの男を愛しているかもしれないのに)


心の中でせめぎ合いながらも、ロウは足を速めた。


(オレが明日香を愛しているのと同じくらいに……)


男の手が、明日香の頬に伸びる。指が、もう少しで触れる。ロウの中で、カッと火がついたように何かが熱くなった。


(やめろ、触るなっ‼︎ イヤだ、あんなヤツに明日香を渡したくないっ‼︎ ユノにだって……本当はユノにだって、渡したくないんだっ‼︎ )


「明日香っ」


名前を呼んで、手を伸ばす。

すると、明日香が振り返った。


明日香はロウの方へと顔を向け、一瞬泣きそうな顔を浮かべたと思うと、ロウっと叫んだ。


「ロウ、ロウ‼︎」


明日香も、こちらへと歩き出し、両手を伸ばしている。自分へと。


(明日香、オレを思い出したのかっ‼︎)


心臓が跳ね上がった。


「明日香、明日香っ」


明日香の元へと駆け寄る。


伸ばした両腕が、すれ違った。胸の中に飛び込んでくる、そう思ったのに、明日香の歩みは寸前でぴたりと止まった。


明日香は腕を伸ばして、ロウの腕を掴むと、そのまま俯いて涙を流した。


「ロウ、良かった、無事で」


「……ああ、明日香も」


明日香を抱き締めようとした腕は、明日香の両手によって拒まれた。顔を上げると、先ほどまで明日香と一緒だった男が、怒った顔でこちらを睨みつけている。


(ああ、そうか)


俯くと、明日香の頭が見え、そしてそれは微かに震えている。泣いているということは、よく分かった。


(抱き締めたいのに、)


心から欲していた再会。


明日香が自分を思い出して、そして。何度も想像して、そうなるように願った。


待ちに待った瞬間だった。喉から手が出るほどに欲した、この瞬間だったのに。

それなのに。


(この男に……オレと抱き合うのを見られたくない、んだな)


するすると何かが滑り落ちていった気がして、ロウは強く目を瞑った。

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