得体の知れないもの
大学のカフェで座っていると、ちょとした騒ぎになるので、最近では図書館で時間を潰すことにしていた。言葉がわからないので、本を読むことはできない。けれど、写真や絵、図画なら眺めていられると思い、少しだけ厚みのある本を選んで、個別の席に座る。
パラパラと適当にめくっては、ロウはぼんやりとそれを見ていた。
カフェでは色々と話しかけられたが、この図書室は静かだ。周りは皆、机に向かって勉強をしていて、ロウは自分が学校に通っていた頃のことを思い出したりしていた。
(オレだって、ただの学生だったのにな)
昨日のゆかりとの会話には続きがあった。
「『双樹』を止める方法はないのか?」
「あんたにこの異常気象を止められる?」
窓をガタガタと揺らす風が、先ほどより強くなってきている。雷が落ち着いたと思ったら、今度はばらばらと音をさせて、みぞれが降った。
「……それと同じだよ」
ゆかりは、シンプルにそう答えると、食べ終えた食器をガチャガチャとキッチンへと運んでいった。
(オレに、そんなこと出来るわけがない)
はあっと、ロウは深い溜め息を吐いた。
ユノはどうしているだろう。戦いに巻き込まれてはいないだろうか。
考えていると、悪い方ばかりに偏ってしまい、さらに心が重くなっていった。
「ちょっとお、こんなところで、ダメだって」
ヒソヒソと声がして顔を上げると、一つのイスに男女が座って肩を寄せ合っているのが目に入った。
「いいじゃん、誰も見てないって」
男が女に顔を寄せる。唇をとがらせている。
「バカ、もう。仕方がないなあ」
女が男の唇に、自分の唇を寄せた。
「おわっ」
それをまじまじと見てしまったロウは、驚いて立ち上がった。勢いよく立ち上がったので、イスがガガッと大きな音をさせた。
その音で、周りの人の視線を浴びてしまう。その男女も赤らめていた顔で、ロウの方を見ている。
ロウは注目を浴びたことも含め、男女のキスを見たことで、居たたまれなくなり、カバンを担いでその場から早々に離れた。
大学のエントランスへ向かう廊下を足早に進んでいく。ロウの心臓は、バクバクと早鐘のように打っている。
(あ、あんなこと、ひ、人前で、)
恋人同士がキスをすることは知っている。ユノが得意げに、けれど一方的にロウに告げてきたことがあった。
「リンと、キスしちゃった」
リンとは、ユノと同い年のクラスメイトだ。ロウは直接、彼女と話したことはなかったが、クラスで一番可愛いと評判の子だった。
「リンと、その……付き合うのか?」
そういう話にもともと疎いロウは、恐る恐るユノに訊いた。
「ううん、そんなんじゃない。ただ、なんとなくだよ」
なんとなくって何だよ、と言った覚えがある。好きという気持ちがなくても、そんなことができるのだろうか、ロウの頭の中はそんな疑問でいっぱいになった。
図書室にいた恋人の姿が浮かぶ。肩を寄せ合い、顔を近づけ合って、とても仲が良さそうに見えた。幸せそうに見えた。
廊下を抜けて、エントランスに入る。
その時。
前を行く男女の姿が目に飛び込んできた。
それはロウがよく知る人物。明日香と、あの男の背中。
いつも、明日香に話しかけていて、そして時々、明日香の髪や頬に触れる男。
さっき、図書室で見た光景がフラッシュバックする。男が女に顔を寄せる。女が笑いながら、男に顔を寄せていった。その女が明日香の顔と重なって、ロウはひどく動揺した。全身に雷でも落ちたかのように、衝撃と震えが走った。駆け寄って、もう少しで触れそうな二人の身体を引き離したい気持ちに駆られた。
けれどロウの足は、その衝撃が大き過ぎたのか、まるで動かない。
(明日香っ、明日香‼︎)
心では叫んでいたが、実際には喉の奥に何かが詰まって、声が出ない。ロウは、震える唇を噛んだ。じんっと痛みが伝わる。
その場で立ち尽くして呆然とその姿を見ていると、つと明日香の背中が止まった。男が怪訝な顔で、明日香へと話し掛けている。
すると、明日香が振り返り、ロウを見た。
目が合った。視線を交わした。
「あす、」
絞り出すように名前を呼ぼうとしたところで、明日香はくるっと踵を返すと、そのままエントランスを出ていき、去ってしまった。
「明日香、」
明日香が去ると、声は戻り、そしてロウは明日香の名前を呟いた。けれど、それは情けない響きにしかならなかった。
「オレはもう、必要ないのか?」
自分でも知らぬうちに、涙が頬を伝っていった。
✳︎✳︎✳︎
「なんか、あのイケメンさん、よく出会うなあ」
振り返ると、こっちを見ていた気がして、明日香は恐れおののいた。
「ち、違うと思うけど、私を見てなかった?」
鏡台の前に座って、鏡に映る自分を見る。
「ま、まさかね。まさかのまさかね」
両手で頬を包み込んだ後、指で頬を持ち上げたり、ぎゅぎゅっと押したりして、変顔を作る。
「……まさか、だよねえ」
隣にいた鴨池くんに、知り合い? と訊いてみたが、違うと言っていた。周りには誰もいなかったので、自分を見ていたのではないかと思えてくる。
「あわわわ、あり得ないけど、あり得ないけど……もしかしたら、ってこともある……?」
そこまで考えると、途端に羞恥心が湧いてきて、ぶはっとなる。恥ずかしさをなんとかしたくて、化粧水を両手に取ると、化粧水ごとばしゃっと顔を叩いた。
「あー、自意識過剰も甚だしい‼︎」
明日香が髪をとこうと、ブラシに手を伸ばした時。
ガガガッと大きな音がして、身体が揺れた。鏡台に腕をついて、身体を押さえる。
「うそ、地震?」
階段の下の廊下から、「明日香あ、机の下にもぐりなさい‼︎」と、母親の声が響いた。揺れが落ち着いてから、下へ降りていくと、母親が倒れた置物などを直している。
「結構、揺れたよね」
父親がリモコンをテレビへと向けた。
「ああ、今テレビをつけたからな。しかし、最近は天気といい、一体どうなってるんだ」
「本当にね。何か嫌な予感がするわ」
「異常気象が?」
「世界的におかしなことになってるんじゃないかって、思うのよ」
「……地球、が?」
明日香は自分が発したその言葉に、何か引っかかるものを感じた。
父親が、はははと笑って、母さんの予感は当たった試しがない、と茶化す。
けれど、明日香は笑えなかった。
(世界が、おかしい?)
身体中を、何か嫌なものが這っていくような、明日香はそんな感覚を覚えていた。




