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忘却


大学の講義が全て終わる頃には、土砂降りとなっていて、学生の阿鼻叫喚があちこちから聞こえてくる。天気予報が当たったことになるので、皆がそれぞれに傘を持っていたにはいたが、傘などさしても意味がないというような激しい降りに、明日香は帰宅の二の足を踏んでいた。


「やみそうにないなあ」


「明日香ちゃん」


校舎のエントランスから外を見ていると、後ろから声を掛けられ、振り返る。


「すごい降りだねえ、明日香ちゃん、どうするの?」


男が立っていた。初回の授業で隣に座った男だった。


鴨池かもいけくん、」


教科書を忘れたと言って困っているところを、明日香から声を掛けて、見せてあげたのを思い出す。


「今日はありがとね。助かったよ」


明日香は、顔を横に振った。


「ううん、大丈夫だよ。中学とか高校とかと違って、忘れ物で怒られるなんてこと、無いみたいだし」


「ははは、ほんと。この学校、そういうとこ適当っぽい」


「うん、色々とユルそうだね。私も忘れ物多いから、助かる」


「明日香ちゃん、ぼけっとしてそうだもんね。でもまあ、今度明日香ちゃんが忘れたら、俺が見せるからね」


「あはは、気をつけるよ」


鴨池が笑いながら、話を続ける。


「この雨、スゴイね。ほんと、最近はどうなっちゃってるんだろね?」


「うん、異常気象が半端ないね」


「温暖化が原因なのかなあ」


明日香は持っていた傘を見た。


「これはもう、役立ちそうもないね。鴨池くんは、小降りになるの待つの?」


後ろから数人がドアから出る時、明日香は少しだけ立ち位置をずらした。すると、鴨池が明日香の背中に手を回して自分の方へと寄せた。


「あ、ごめんね」


「俺ら、邪魔してるな。ねえ、良かったら、これからカフェで時間潰さない?」


「……ううん、私、用があるから帰らないと」


そして、また数人がドアを通る。明日香が見ると、傘をさしていく人と、ずぶ濡れ覚悟でそのまま歩いていってしまう人とに、分かれている。


「うわ、凄えな、あいつら」


「じゃあ、帰るね」


「うそ、こんな中帰るの? わかった、じゃあまた明日ね。気をつけて」


鴨池が手を振ってくる。明日香も手を振り返すと、傘を広げて一歩外へと出た。途端に、バチバチと傘を打つ雨音が、耳を襲う。


一つの傘に無理矢理入った女子二人が、明日香の横を小走りで通り過ぎていく。その時、話している声が耳に入ってきた。二人は雨の音に負けじと大きな声で話している。


「ねえ、めっちゃカッコよかった‼︎」


「うそみたい。立ってるだけなのに、あのオーラ、ハンパねえ」


「ここの学生かなあ、あんなん見れるなら、私ゼッタイ講義休まない‼︎」


「私も‼︎」


ドキッと胸が鳴った。


笑いを含む会話を聞いて、もしかしてと思い、明日香は慌てて後ろを振り返った。

目を凝らし、その視線で誰かを探した。一瞬、雨音が耳に入ってこなくなった。


エントランスを見る。


すると、鴨池が手を振っている。鴨池以外、周りには誰の姿もなかった。

明日香は応えて手を上げると、小さく振って顔を前へと戻した。すると、傘を叩く雨音が、途端に大きくなった。


✳︎✳︎✳︎


土砂降りの雨の中、歩いて帰る。ポケットに手を突っ込んでいても、身体が芯から冷えていくのがわかる。


電車にも乗った。学校にも行った。カフェと呼ばれる場所で騒がしい喧騒の中、何時間も待って待って、ようやく明日香が部屋から出てきたと思ったら、男と一緒だった。

知らない男だった。

明日香の隣を歩き、話しかける時は必ず、明日香に顔を近づける。


ユノにも似ていないし、自分にも。けれど、ユノのように獣の耳も無ければ、自分のような尻尾も無い。


以前、「人」に対して持っていた劣等感。

明日香と同じ「人」に、これほどまでに痛みのある違いを感じるとはと、ロウは苦く笑った。

額に張り付く濡れた前髪を掻き上げる。


(まさか、オレのことを……覚えていないなんてな)


必死になって登っていった『双樹』。途中から、急激な身体への負担を感じて、ロウの登っていくペースが落ちた。考えたこともなかったが、明日香の元いた世界で、『獣−人族』は生きられるのだろうか。そんな不安が、ロウの負担となった。


「ロウ‼︎ 早く来て‼︎ コタロー、ちょっと待ってあげて‼︎」


コタローの背中にしがみついている明日香が、下を見ながら、声を上げる。


「お願い、待って‼︎ ロウが、まだっ……」


「大丈夫だっ、先に行け‼︎」


「イヤだあ、ロウ、お願い‼︎ 早く、登ってきてぇ」


涙声が耳に届く。


「明日香あ、直ぐに迎えにいくっ‼︎ 待ってろ、直ぐにおまえのところに行くからっ‼︎」


ありったけの声を出して、手と足に力を入れて踏ん張る。所々にある裂け目に尻尾を突っ込み、少しでも早く登ろうと、歯を食いしばった。


明日香とコタローの姿が見えなくなると、不安に襲われた。いつ、ゴールに辿り着くのかと思ったところで、変化があった。重くて仕方がなかった身体が、急に軽くなったのだ。


「うわっ、何だこれ‼︎」


掴まっていた手に力を入れると、足が離れて身体が仰け反った。くるりと身体を反転させると、今度は足が吸いつくようにして、『双樹』に届いた。

次には、『双樹』を下りていく。今までは登っていたので、これでいいのかと錯覚しそうになるが、迷いで足を止めた時、下の方から声がして我に返った。


「ロウ、こっちよ。大丈夫、そのまま下りてきて」


ゆかりの声に反応して、そのまま下りていく。下りるのは、登るより大変だった。とにかく足をかける場所がない。握力も随分と、使い果たしている。


(このままだと、落ちる)


危機感を感じ、見つけた隙間に尻尾を突っ込み裂け目に巻きつけて、両腕を離した。腕を休める。

一息ついたところで、再度、下り始めた。

そして、ようやく地面が見えてきて、もう直ぐ足がつくと思った瞬間、どこからか、どっと流れてきた大量の水に押し流された。


(くそっ、何だこの水は)


息苦しさと、水の冷たさでもがき苦しみながら、ロウは必死で腕と足をバタバタさせた。明るい方へと、腕をかく。

すると、水面に顔が出て、ロウはごほごほっと咳き込みながら、大きく息を吸った。


「う、ごほっ、ごほっ……どうなってんだよ、これ……は」


立ち上がると、ヒザまでしかない水量の川だった。さっきまでは圧倒的な水量の、深い深い水の中だったのが、今はもう歩いて渡れるような浅い川でしかない。


しかも、周りを見渡してもどこにも『双樹』の姿が無い。


ロウは、不思議に思い混乱しながらも、川の中で明日香の名前を叫んだ。


「明日香あ、明日香‼︎」


すると、背後からゆかりの声が聞こえた。


「明日香じゃなくて、悪いけど……」


同じように、ずぶ濡れになって、濡れた髪を頬や額に貼りつけている。その顔を歪めて、ゆかりは言った。


「ようこそ、もう一つのアシンメトリーワールドへ。ロウ、あなたがこちらの世界で初めての、「獣人」よ」


ゆかりの声が、奇妙に響いたことを覚えている。


ロウは、長い回想を終えると、土砂降りの中をさらに歩いた。

覚えのある川べりの横を通る。ここで、自分とゆかりはこの世界に降り立った。明日香とコタローもここへ着いたはずだと、ゆかりにも教えてもらっている。


ゆかりが探し出してきた家を拠点にし、この数ヶ月は明日香を探して回った。狂ってしまいそうな気持ちを抱えながら、ようやく見つけ出した明日香は。


「オレを覚えていない、なんて……な」


高校の卒業式の日、ゆかりにも手伝ってもらい、ようやく通っている学校を突き止めた。『獣−人族』の領地で拾った時の、明日香が着ていた服をまとった女の子がたくさん門から出てきた。その中から一人、明日香を見つけ出す。


逢いたくてたまらなかった。


ユノと別れ、見ず知らずの世界で独り、その寂しさを募らせていたのもある。けれど、逢えないと思うと余計に愛しさが湧き上がり、ロウを追い詰めた。


門の前に立つ樹木の陰から明日香を探す。


「卒業、おめでとう‼︎」


ごった返す人の波。


(明日香、明日香、明日香……)


愛しい顔を見つけると、ロウはふらふらと近づいていった。明日香が、ロウの姿を認める。ロウも、視線を合わせる。


「なにあれ、カッコいい‼︎ 誰の彼氏⁇」


他の音など、耳に入ってはこない。

ロウが明日香へと、手を伸ばそうとした時。


「誰の彼氏だろうね」


明日香の声が遠くに聞こえた。言葉の意味は分からなかったが、自分の名前は呼ばれなかった。ロウはそれでも明日香の方へと手を伸ばした。けれど、手を伸ばしたロウの横を、明日香はすいっと通っていった。


「う、うそだ。覚えていない、なんて」


頭を、何かで殴られたような衝撃。

ユノなら、覚えているのだろうか。ユノなら、思い出したのだろうか。

忘れるだなんて、自分はそれだけの存在だったのだろうか。


ぐるぐると頭の中を巡るのは、この現実から逃れたいと思うものばかりだった。

それを考える時には、ロウは絶望的な気持ちに襲われた。けれど、その度に何度も自分に言い聞かせる。

明日香が、自分たちの世界にやってきた時も、頭を打って記憶を失っていた。


(けれど、明日香は思い出したんだ。だから、いつか……)


それが、唯一の希望。


ロウはこの雨の中、大学のエントランスで手を振っていた明日香を思い出していた。他の男に向けられる笑顔。

心臓を、鋭いナイフでえぐられるような痛みがあった。


(きっと、思い出してくれる)


明日香の横に今は見知らぬ男がいたとしても、いつかは自分を思い出してくれる。そんな期待を胸の中にそっと仕舞うと、ロウは土砂降りの雨の中、ゆかりの待つ家へと帰っていった。

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