記憶の底
「ただいまあ」
玄関を開けて声を掛けると、奥のリビングかキッチンから、心配そうな細い声が聞こえてきた。
「おかえり、どうだった?」
エプロンで手を拭きながら、母親がバタバタとスリッパ音を盛大に鳴らしながら出てくる。
「ワン、ワン」
その後を追うように、コタローがついてきて、明日香はしゃがみ込んで、コタローの頭を撫でた。
「ねえねえ、どうだったのか教えてよ」
明日香はそのソワソワした母親の様子を見て、心配しすぎ、と笑った。履きなれない黒のパンプスを脱ぐ。玄関に上がると、母親に借りた礼装のバッグを、ソファの上に放り投げた。
「あ、ちょっとお。これ高いやつなんだからっ」
慌ててバッグを拾い上げると、傷がないか確認する素振りをする。
「あはは、ごめんごめん。それより入学式、やっぱり親はついて来ない人の方が多かったよ」
「うう、やっぱりそうなの。でも、行きたかったなあ。明日香の大学」
「それって、娘の凛々しき姿を拝みたいとかじゃなくて、自分がキャンパスライフを体験してみたい、の方が占めてるんじゃないの?」
「うん、だって、私も若返りたいもん。オシャレなカフェでお茶したいもん」
「いやだあ、オバさんはこれだから」
明日香は、スーツを脱いで普段着に着替えると、ソファにどかっと座り込んだ。
「ちょっとお、オバさんだけど、オバさんはヤメテ」
母親が、ブツブツと文句を言いながらキッチンへと入って行ったのを確認すると、明日香は立ち上がって、二階の自室へと向かった。
「はああ、疲れた疲れた」
大学の入学式とはいえ、その後の諸々の事務手続きも終え、電車に乗って家へと帰る頃には、疲れがピークになっていた。
ベッドに横になると、軽い眠気に襲われる。明日香はまぶたに任せて、目を閉じた。下の階でコタローが、ワン、と吠えている。バタンバタンと、冷蔵庫か何かの扉を閉める音。
(ママがまた何か作ってるな)
それがパンなのか、パウンドケーキなのかは、もうすぐリビングに充満するだろう香りで分かる。
そんなことを考えていると、眠気がやってきた。夕飯までにはまだまだ時間があるから少し眠ろう、そう思うか思わないかの狭間で、明日香は眠りに落ちた。
窓の外が薄暗くなり、空がオレンジ色から群青へと変わっていく時間に、明日香は目を覚ました。のっそりと起き上がる。身体を半身、腕で支えて起こすと、どっと疲れが出たからか、身体が鉛のように重い。
「はああ、明日が休みで良かったあ」
これだけ昼寝をしてしまうと、きっと夜は眠れないだろう。夜更かしをしても許されることを思い出すと、ベッドにバタンと倒れて横になる。
「明日香あ、夜ごはんできたってー」
階段の下から父親の声がして、仕事から帰ってきたことを知る。
「わかったあ」
返事をしたものの、おもりのような身体は、直ぐには動かない。
「今、行くからあ」
自分を鼓舞するように返事をし、よいしょっと起き上がって、階段を降りていった。
✳︎✳︎✳︎
大学進学祝いに両親から貰ったカバンに、教科書を詰めると、明日香は階段を降りていった。
「おはよう」
「おはよう、ちゃんと起きれたわね。さすが、大学生」
母親が機嫌よく、けれど嫌味もそっと混ぜて、明日香へと言葉を掛ける。高校の時は朝なかなか起きられずに迷惑を掛けたことを苦々しく思いながら、朝食が用意されたテーブルについた。
「今日は、何時間なの?」
「んー、多分、一日中じゃないかな」
「初日から、大変ねえ」
軽い会話を交わしながら、食パンをほうばっていく。カフェオレに手を伸ばすと、テーブルの真ん中に置いてある果物入れに目がいった。何気に手を伸ばす。
「あら、珍しいわね。食べたかったら、食べていいわよ。バナナ」
「…………」
明日香は、その母親の言葉で、何かを思い出しそうになり、伸ばした手を止めた。
「ん、いい」
果物の中でも、バナナはそのねっとりとした食感が、朝食には向いていないような気がして、断る。食パンをカフェオレで流し込むと、明日香はカバンを肩にかけ、いってきますと言って玄関を出た。
「ちょっと待って‼︎ 傘を持っていきなさい。午後から大雨の予報よ」
玄関のドアを開けて空を見上げると、黒い雲がすごい勢いで流れていくのが見えた。
「うわあ、初日から雨かあ」
渡された傘を右手に持つと、明日香は駅へと急いだ。
電車に乗って、三駅やり過ごす。スマホを片手に器用に操作しながら、窓際に立って窓から外を見る。空は相変わらずの曇天で、今にも雨が降り出しそうだった。
(学校に着くまで、保つといいけど)
窓から目を離し、スマホへと視線を移そうとしたその時。
視界の中へと飛び込んできたのは、長い座席を挟んだ向こう側のドアに立つ男の姿。
(あれ、あの人……イケメンの人だ)
ドアに背をもたせかけて、いかにも気だるそうにポケットに手を突っ込んでいる。明日香の位置からはその横顔しか見えないが、まるで彫刻のように彫りが深いのが分かる。その背の高さから、ハーフだろうと予測はできたが、実のところは芸能人なのではないかというような圧倒的な存在感が、その男にはあった。
(前にも一度、どこかで見かけたよね)
周りに座る、老若男女の視線をちらちらと集めている。
明日香の視線ももちろん、釘づけになった。
「すみません。あ、あの、良かったら連絡先とか、交換してもらえませんか?」
すると、可愛らしい声が耳に届いた。いつのまにか、男の前に俯き加減の女子高生が一人立っている。頬がほんのりピンク色に染まっている。
背の高さは、男の肩に届くか届かないかくらい。長座席を一つ挟んだ距離を置いている明日香の位置から見ても、その長い睫毛の動きが分かるのは、きっとつけまつげをしているからだろう。色付きのリップをした唇も可愛らしい。
(……お似合いだあ)
ただ、そう思っただけなのに、明日香の胸のどこかで、きりっと痛みがあった。
(なんだ、これ)
胸に手を当てる。そして、視線を落として、何かを考えた。
(なんだ、これは……)
ふと、視線を上げる。男がこちらを見ている。慌てて外した視線が、一瞬でも合ったような気もするし、合わなかったような気もして、明日香は混乱した。
けれど、男の顔は直ぐに、自分の目の前でもじもじと立ち竦む女子高生へと戻された。そんな様子を視界のふちで見て、明日香はぼんやりと思った。
(……ああ、上手くいくかも、な)
ドキドキと、胸が次第に高鳴っていく。
(なんだ、これは)
戸惑った明日香は、窓の外へと身体ごと顔を向けた。その時、電車はホームへと滑り込む所だった。
「あ、あの、すみません。連絡先を……」
おどおどとした声が。そして、電車は止まり、チャイムが鳴って向こう側のドアが開いた。
明日香はそのまま視線を戻さなかった。外を睨むようにして見つめ続ける。
(上手くいっちゃうのかも)
「……あ、ちょっと」
予想の外れた、女子高生の落胆した声に、ちらっと視線をずらすと、男の姿はどこにもなかった。
遠巻きに見ていた女子高生の友達が、車内に響くような大きな声を上げた。
「なにぃ、あれ‼︎ 無視とかって、ヒドくない?」
「ちょっと、カッコイイからって、調子に乗るなっつーの‼︎」
明日香は、ほっと胸を撫で下ろすと、いつのまにか肩からずり落ちていたカバンを、抱え直した。駅のホームの看板を見る。その駅名は、明日香が乗った自宅の最寄駅から、五駅目。
(……大学生かな、この駅で降りるんだ)
明日香は、再度スマホを見た。天気予報のアプリを開くと、傘マークに大降りの雨が当たっている。
女子高生の一団が、まだやんややんやと盛り上がっているのを感じながら、明日香は苦笑した。
(無視は可哀想、だよね)
けれどここで、一つの考えが頭をよぎった。
(……もしかしたら、日本語が分からないんじゃないのかな。ハーフかなと思ったけど、外国人なのかも知れないし)
「いいって、いいって‼︎ 逆に返事もらえなくて良かったかも。だって、性格悪そうだもん」
告白した女子高生の声が聞こえてきて、明日香は途端に嫌な気分になった。




