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別れ

明日香は、その光景をぼんやりと見つめていた。視点は定まらない。脳が定めようとしないのか、それとも嫌なことからは目を背けたいのか。


「……嘘でしょ」


最初の言葉はそれだった。けれど、それ以外の言葉は出てこない。じり、と後ろへと足をやって後退すると、背中にどんっと硬いものが当たった。振り返ると、そこにはそびえ立つ大木。


再度、明日香は前を見た。何もできない無力な自分を噛みしめる時、意外にも涙は出なかった。

あちこちで上がる怒声。そして、甲高い金属音。鈍い唸り声、鋭い悲鳴。

明日香は『双樹』を背にして、それらの光景を見つめていた。


「こんなの、ダメ……」


震える声は自分が思ったより、小さく非力だ。

明日香は、次には精一杯叫んだ。


「こんなのダメだよっ‼︎ 話し合って‼︎ 今度はちゃんと通訳するからああっ‼︎」


腹からの声が上がった。明日香は顔を上げて見る。

けれど、そこはやはり戦場に変わりはなかった。


「獣」たちが狂ったように、「人」へと飛びかかる。喉元に食らいつく、豹。ウオウと吠えて威嚇しながら前脚を振り上げて、その鋭い爪で傷をつけていく。


「人」たちが怒声を上げながら、剣を振り回す。その剣が、虎の肩にのめり込んだ瞬間、そこから血飛沫が上がった。


話し合いがもたれたのは、つい昨日の出来事だったのに。

数日後には、再度話し合いの場を設けたのに。


戦っているのは、そのビロードのような背中に乗せてくれた黒豹のジュド。そして、ロウの危機を教えてくれた狼のダイチ。

狂ったように、前後左右の跳び回って、敵の剣を交わしている。その剣に触れた時、大怪我するのはもちろんのこと、最悪の場合、死も免れない。

現に、累々と死体の山ができていく。


「やめてええ‼︎ ちゃんと、通訳するからあ‼︎ お願い、やめてえ‼︎」


喉の奥から、どんどんと何かが溢れ出してくる。ひりひりと焼けつくような喉の痛みに耐えながら、明日香は自分を忘れて、狂ったように叫んだ。


「明日香ああっ」


その時、明日香の前にユノが躍り出た。男が一人、剣を振りかぶっている。ユノの背中に視界を遮られると同時に、腕でどんっと後ろへと押しやられる。その拍子に、ユノの頭の上で光る、すらりと長い剣が見えた。

振り下ろされると思った瞬間、明日香はユノの背中に力一杯しがみついた。


「うわあっ」


ユノの悲鳴が聞こえて、そのまま二人、バランスを崩してその場に倒れ込んだ。

ガキっと音がして、頭の上で剣が止まる。『双樹』に刺さって、剣はそれ以上振り下ろされなかった。


その時。


「ユノっ、明日香っ‼︎」


自分の名を呼ぶ声が聞こえて、明日香は反射的に叫んだ。


「ロオぉぉ」


「明日香あああ」


「人」や「獣」を押しのけて、叫びながら走ってくる。ロウはそのままユノへと剣を振りかぶっていた男に、背後から突っ込んできた。


「うおっ」


男はそのまま、『双樹』へと飛び込んでいき、そこで頭を打って倒れた。

その隙に、ロウが立ち上がって、明日香とユノを引っ張り上げる。


「ユノ、登れっ‼︎」


「ええ、ええ?」


「『双樹』を登っていけ‼︎」


ロウの言葉に、おろおろとしていると、ロウがさらに声を上げた。


「早くしろっ‼︎ おい、コタロー、おまえは明日香をおぶって登れ‼︎」


その言葉に、ロウの傍らにいたコタローは、みるみる躰を変化させ、猿の姿となった。明日香の腕を取り、背中へと担ぐと、『双樹』に手を掛けた。


明日香が、そんなこと無理‼︎ と言う前に、コタローはすいすいっと登っていく。


ユノも、その運動神経の良さで、『双樹』の数少ない出っ張りをうまく掴んで、登った。

隣を見ると、ゆかりも猿へと姿を変えて、登っていく。


明日香は、背後を振り返って、ロウの名前を呼んだ。ユノが登れるなら、ロウも登れるはず。


けれど、ロウは動かなかった。


「早く登っていけ‼︎」


「ロウ、ロウ‼ 早く来て‼︎ 登ってきてえ‼︎」


涙で、その姿がかすむ。掴まっている腕を離そうとすると、コタローが声を上げる。


「明日香っ、ちゃんとしがみついていて‼︎」


その怒声に、明日香は腕に力を入れた。すると今度は逆に、声に力が入らなくなった。


「……ロウ、お願い。登ってきて」


ロウの頭の横には、イェンナの金色の髪。ロウがイェンナのために、この場に残るのだと悟った。どうしようもなく、涙が溢れた。


涙が溢れて止まらないのは、ロウを愛しているからだと、明日香は痛いほど分かっていた。


✳︎✳︎✳︎


「ロウっ」


「ユノ、どうしておまえ……」


「ボクが残る」


「何を言ってる、早く登れっ‼︎」


「ロウが明日香といってくれ」


「そんなことを言ってる場合じゃ、」


「ロウが登っていけ‼︎」


ロウの言葉は待たないというように、ユノが言葉を被せてくる。その言葉の応戦に、イェンナが参戦する。


「お二人とも、私のことはいいので、行ってください」


けれど、睨み合う二人のどちらにも取りつく島はなく、イェンナは二人の間でただおろおろするばかりだった。


「ユノ、おまえを助けるんじゃない。明日香を助けたいんだ」


「だったら、ロウ、おまえが行って、明日香を助けろよ」


「おまえに頼むと言っているんだっ‼︎ 早く、登れええ‼︎」


半ギレ状態で、ロウが叫ぶ。ユノがそれに応戦するように、身構えて言った。


「ボクじゃダメなんだよ。ロウ、おまえじゃなきゃダメなんだ」


「なに言って……」


「明日香は、おまえが好きなんだよ。だから、早く行ってくれ‼︎」


「ち、違、」


違うと言いかけたロウに、畳み掛けるように言う。


「そうだよね、イェンナ」


ロウが恐る恐るイェンナへと顔をやる。イェンナが頷くのを、スローモーションのように見た。


「でも、ユノ、」


情けない声が出た。けれど、それとは反対に力強い声。


「ロウ、イェンナはボクに任せてくれ。きっと、守ってみせる。だから、ロウ、キミには明日香を頼みたい」


親が子どもに言い聞かせるような声。その強く凛とした声に、ロウはぐらりと揺れた。


「早く行ってくれ。明日香を守ってくれ」


ユノの強い言葉に、揺れていたロウの身体が自然と動いた。


「……ユノ、頼むから生きていてくれ」


ユノが笑って、当たり前だろ、と言う。


ロウは、振り切るように『双樹』に手を掛けた。足にぐんっと力を入れて、よじ登っていく。

下から、飛び交う怒声に混じって、ユノの声が聞こえてきた。


「ロウ、明日香のことは頼んだぞ‼︎」


長い間、一緒だったユノとの別れが、こんな風にして性急にやってくるとは、思いも寄らなかった。けれど、ロウは考えることを止め、手足だけを動かして、ひたすら登っていく。


ユノの声はもう届かないが、代わりに明日香の声が聞こえた。


「ロウ……ロウ、」


その声に混じった泣き声が、胸に響く。


「明日香、今いく。直ぐに、行くからな」


(おまえの側にいる、おまえを守るから。オレが明日香を……)


頭では何も考えないように蓋をして、心では何度もそう繰り返しながら、ロウは明日香の元へと進んでいった。


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