戦いの火蓋
『人−人族』と『獣−獣族』の話し合いは平行線に終わり、話し合いの約束を取り付けた後、『人−人族』は帰っていった。
「明日香、ご苦労だったな」
イアンが労いの言葉を掛ける。それには、うん、と短く返事を返しただけで、明日香は洞窟の奥で、毛布にくるまった。
そんな明日香の様子を遠くから見ていたロウは、毛布に入り込むと、皆んなを起こさないようにと、細くゆっくりと溜め息を吐いた。
(何事もなくて、良かった……)
通訳をしている明日香の姿が、眼に浮かぶ。浮かぶのを振り払いたくて、ロウは目を瞑った。
(良かったんだが……)
目を瞑ったまま、苦く笑った。
(あの、唇)
あの時。
隣にいた明日香の口元で変な動きがしたと感じて横顔を盗み見ると、明日香がぎりっと唇を噛んでいるのが眼に入った。小ぶりな口だが、意外とふっくらと丸みを帯びた明日香の唇。バナナや自分が作った料理を食べる時、笑い声をあげる時、その唇はよく動いて、ロウの視線を誘う。
「ロウ、見てっ‼︎」
森の小道でうずくまっていた明日香が振り返る。近づくと、何やらキノコのようなものが生えている。
「これ、食べられるかなあ」
ロウが明日香の隣に座り込んで、呆れながら言う。
「ほんと、おまえは食うことばっかり考えてんな」
「だって、ロウの料理、美味しいんだもん。これはもう、ロウが悪いとしか言いようがない」
そう言ってから、いたずらっ子のように、隣から笑いかけてくる。自分の名前を呼ぶ、その唇。
「な、何度も言うようだけど、こういう傘の開いた奴は、食えねえからな。腹が減ってても、食うんじゃねえぞ」
吸い込まれてしまうような黒い瞳。その、ふっくらとした唇。
いつもはすぐに、それから視線を外していた。
けれど、そんな唇が。
真っ赤な血に染まっていく。
「唇を噛むな」
『人−人族』と『獣−獣族』が対峙する、こんな重大な局面だというのに、そんなバカなことしか言えないとはと、自分自身に呆れてしまう。
けれど、その唇。油断すると直ぐにも心を持っていかれてしまう、いつものサクラ色が、赤く赤く染まっていく。
それを見た瞬間、どっと心臓が鳴った。
(明日香の唇はどんな味がするんだろう)
思ってから、じりじりと少しずつ我に返る。すると、そんなことを考えていた自分に気づき認めてしまうと、途端にロウは動揺した。心臓が早鐘のように鳴り響く。
考えないようにしていたこと。
目を瞑って、必死で見ないようにしてきたこと。
認めたら終わりだぞと、自分に言い聞かせてきたこと。
(ああ、オレはこんなにも……明日香を、愛している)
ユノの顔が浮かんでくる。そして、なぜか、獣人になったコタローの顔も。
(ダメだ、オレはもう明日香とは一緒にはいられない。このままだと、)
苦しさが増してくる。胸が鷲掴みにされ、そのまま握り潰されてしまいそうになる。
(このままだと、オレは、)
そう思った時。
隣で眠っていたユノが、飛び起きた。
「…………」
明け方の薄暗闇の中、何か音を拾おうとしているのだろうか、無言が続く。
「おい、どうした? 何かあったのか?」
「しっ‼︎」
さっきまで、明日香とユノのことを考えていた。そんな後ろめたさもあって、ロウは素直に黙った。
けれど、直ぐにもユノが声を上げる。
「「人」が来る……それもすごい数の……武器を持ってる。明日香やイェンナを連れていこうとしている‼︎ 腕ずくで、連れていかれるぞ‼︎」
「こっちに向かってるのか?」
ユノが、立ち上がって言った。
「向かってる。それに「獣」たちは気づいてる。戦争になる、戦争になっちゃうよ‼」
「待て、落ち着け、ユノ。いいか、おまえは明日香を連れて、すぐに『神の一歩』に行くんだ。コタローにも頼め。オレはイェンナとゆかりを連れていく」
「わかった‼︎」
ユノが洞窟の奥へと駆け出していった。
ロウはすぐ近くの別の洞窟に寝床を確保しているイェンナとゆかりの元へと走った。
「おい、起きろ。「人」が攻めて来るぞっ‼︎」
うん、なにい、というゆかりの腕を引っ張り上げ、無理矢理立たせると、ロウは二人の腕を引っ張って、森の中へと足を踏み入れた。比較的、鼻が効くロウは、自分の匂いを追って、道を選ぶ。時折、明日香の匂いがして、その度に胸が鳴った。
事の次第を説明しながら、『神の一歩』に到着すると、『双樹』の根元に二人を置いて、まだ明日香やユノが到着していないのを確認すると、ロウは来た道を戻った。
草木を必死に掻き分ける。少し拓けた場所で、明日香の声を聞いた。
「ユノ、コタローがっ‼︎」
「明日香、早く‼︎」
「待って待って、コタローを助けて‼︎」
ロウが見ると、ユノが明日香の腕を引っ張っているその後ろで、コタローが「人」が振り回す剣をかわしている。
「明日香っ、早く逃げろ‼︎」
コタローの怒声が響く。
ロウは、尻尾で近くの枝を折ると、手に持ち替えて走り込んだ。コタローと男との間に割り込むと、剣を持つ手に枝を突き刺した。
「うがああ」
男の悲鳴が上がる。その拍子にコタローが、尻餅をついた。
「早く、逃げろっ‼︎」
男が落とした剣を拾うと、ロウが叫ぶ。
「ユノっ‼︎ 早く、明日香をっ‼︎」
わかった、と返された返事を聞いて、ロウは剣を構えた。手の甲から血を流している男が、よろよろとよろめきながら、ロウへと向かってくる。その手には、いつのまにか短刀が握られていた。
「ロウ、ロウ‼︎」
明日香の涙声が背中に響く。けれど、ロウはそれを振り払うようにして、踊りかかってきた男にタックルする。二人がもつれて倒れると、ロウは尻尾で短刀を持つ手を押さえると同時に、男に馬乗りになった。喉元に剣を近づける。
「降参しろ」
これでもかというくらいに、凄む。
背中に明日香やユノの気配が消えたのを感じて、ユノがうまく引っ張っていったのだろうと、ほっと安心する。
そして、尻尾に力を入れて、男の腕を締め上げた。
「ぐううぅ」
「降参しろ、と言っている」
ロウの、怒りを低く抑えたような声に、男は唸り声を上げる。
男はついに諦めて短刀を手から落とすと、ロウはすぐに後ろへと跳びのき、尻餅をついていたコタローを引き起こして立たせると、二人で明日香とユノの後を追った。




