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恋心

明日香がイアンの元で過ごし始めてから、数ヶ月が経っていた。


イアンの住処は崖の上の洞窟にあり、入り口も突き出した岩で複雑になっているため、外敵に襲われにくい構造になっている。中にいれば安全が確保されるようだ。


明日香は入り口付近の岩に腰掛けて、外を見ていた。夕暮れのこの時間は、夕陽が眩しすぎてあまり長居ができないのだが、今日は雲がかかっていて、その光も遠い。オレンジに染まる絵に描いたような夕暮れ空を、明日香は堪能していた。


「はああ、帰りたい」


夕焼けは帰りたいという気持ちにさせるのよねーなどと独り言を言いながら、膝を抱え直した。そこへ、明日香、と声が掛かる。

トトトと足音が聞こえ、コタローが横に座った。


「明日香、どうしたの?」


コタローも同じように夕暮れ空を見つめている。


「帰りたいな、ってね。えへへ」


ぼうっとした瞳で、オレンジ色を見つめる。すると、コタローが訊いた。


「どこに?」


その言葉ではっとし、明日香はコタローの方へと顔をやった。


「どこに、って……」


(もしかしたら、ロウやユノは……私なんか、もう忘れちゃってるかもしれない)


そう考えると、ぶわっと何かが込み上げてきた。弱気な考えを振り払うように、明日香は顔を左右に振って、コタローへと視線を向けた。


コタローは変わらず夕焼けを見つめている。


「明日香、ボクね。明日香に初めて会った時、ああこの子と一緒に暮らしたいって思ったんだ」


その言葉に、私もだよ、と言葉を添える。


「確かに最初は、イアンに言われて明日香の元へといったわけだけど、明日香の側にいて幸せだったし、すごく楽しかったんだ」


「え、なあに、コタロー。いきなり、どうしたの」


明日香が照れたように、顔を伏せる。


「だからさ、ボクと……」


ここで明日香が急に顔と声を上げた。


「おえっ⁉︎」


コタローも身体をビクッとさせて、明日香を見る。


「なになに、どうしたの?」


「ちょちょちょ、ま、待て待て待てえー⁉︎」


「なんだよ、もう」


明日香は驚きの顔を崩さない。


「そういえば、コタローはどうやってここに来たの? ってか、あの公園‼︎ コタローを拾ったあの公園だよ‼︎ どうやってそこに行ったの? ってか、それにね。く、く、車にはねられたわけだよ、キミは」


「ああ、そのことね」


ロウに拾われてからこの方、ずっとなんやかやと色々なことがあって、肝心なことをすっかり忘れていた。世紀の大発見かというような様子で、明日香は慌てふためいた。


「そうだった、コタロー帰り方知ってるんじゃないの? ま、ま、まさか……」


「知ってるよ」


「あわわわ、これ灯台下暗しのパターンだよ‼ なんてこったあああぁ︎」


明日香は、はあはあとしていた息を、ゆっくりと深呼吸をして整えた。何度も唾を呑んで、落ち着きを取り戻すと、コタローの前に座ってコタローの顔を両手で包み込んだ。


「で、どうやって帰るの?」


落ち着いた声で、話す。コタローは、まん丸な目で、明日香を見据えた。


「『双樹』を登るんだよ」


「え、無理でしょ」


「即答だね」


コタローが苦く笑った。


「え、そんな原始的なやり方? ジャックと豆の木じゃあるまいし」


「うん」


明日香は、呆れて言った。


「『双樹』の中に、エレベーターとか、階段とか、」


「ないない」


コタローの早い返しに、明日香は顎を引いた。


「え、でも、コタロー登るのって無理だよね」


明日香がコタローの前脚を、ぎゅっと握って持ち上げる。コタローは、わははっと笑って、立ち上がった。


「ボク、この姿気に入ってるから。でも、本当は何にでもなれるんだよ。『双樹』を登った時は、猿の格好をしたんだ」


「え、え、えええ?」


「だからあ」


そう言うと、コタローは明日香に手を持たれたまま、立ち上がって、背伸びをするような素振りをした。すると、犬であるはずのコタローの背が真っ直ぐに伸びていき、鼻づらが縮んでいったかと思うと、いつのまにかその顔が猿に変化していた。ふさふさだった尻尾も、細長いものに取って代わっていた。


「猿っ⁉︎」


明日香は、腰を抜かしてしまうほど、驚愕した。握っていたコタローの手も、五本指の猿のそれになっていて、手をつなげるほどになっている。


「こ、コタロー?」


「こんな感じに、ね。これなら、木登りもひょひょいっとイケルだろ? それに、車にはねられそうになった時は、はねられたふりをしただけなんだよ」


「え、じゃあ死んでないってこと?」


「そうそう。身体の力を抜いてぐったりしてたら、明日香が勘違いしたんだね」


「勘違いしたんだね……じゃないー‼︎ もうもうもう‼︎ あの時、本当に悲しかったんだからね‼︎ あああ、神さま、コタローはこんな子じゃなかったですよね⁉︎」


「あはは。ごめん、ごめん。明日香に川の中の『双樹』の元まで来てもらわないといけなかったわけだけど、その前に色々と説明しようと思ったら、明日香ってば、蹴つまずいて転んじゃうんだもんな」


「その件に関しましては、ごめんだけども」


「勝手に向こうの世界に落ちてっちゃったから、ホント焦ったよ。ずいぶんと探し回ったしね」


明日香は、ぞっとした。あの高さを落ちてきたのか、死ぬところだったのかもしれないと思う。


「よく、助かったなあ」


「『双樹』が助けたのかもね」


「ああ、そっか。私、その『双樹』に連れてこられたんだったね」


「うん。で、ボクは『双樹』の使いだから。ボクは『双樹』に守られているし、明日香を守るためだったら、どんな姿にでもなれるよ‼︎」


すると、猿がガバッと抱きついてきた。


「明日香、大好きっ‼︎ ボクと結婚してよっ‼︎」


明日香はその仕草と声にコタローを感じると、「今、その格好で言うー?」と言って、コタローを笑わせた。


✳︎✳︎✳︎


「登りきれば、帰れるんだ」


明日香はその日、朝から何度も同じフレーズを繰り返していた。


「そう、登りきれば、帰れるんだよ」


犬に戻ったコタローも同じ内容を繰り返して、言う。


「登りきれば、帰れるんだね」


「…………」


繰り返しに飽きて、コタローが沈黙を返すようになった頃、明日香はとうとうその言葉を言ってしまった。

明日香の中で、この言葉は言いたくないワードだったが、明日香は諦めて、その言葉を口にしたのだ。


「ってか、無理でしょっ‼︎」


キレ気味にツッコむ。


イアンに連れていかれた時に見た、二つの絡まり合う巨木『双樹』。どんな角度で見上げても、その巨木の背の終わりは、ついに見えなかった。どう見ても足場になる分け枝などもない、つるっとした樹だったことに思い至る。


『双樹』を初めて見た時は、うへえ、でっかーとしか思わなかったことが、今になっては悔やまれた。もう少し、ちゃんと観察しておけば、何か登っていくためのヒントになったかもしれない、と思うとなんだか悔しくて仕方がないのだ。


そこへ、イアンの子供たちが乱入してきた。


「アスカあ‼︎」

「何してるの?」


懐に飛び込んできたのは、末っ子のマル。マルをワニのランから助けて以来、マルは明日香をずいぶんと慕うようになった。そして、二人の兄たちも、明日香がお気に入りだ。


「ねえねえ、アスカ、縄とびしようよっ」


縄とびは、草の蔓を編んでロープにしたもので、明日香が身体を動かしたい盛りの子供たちに教えてあげたものだ。


「ボクもやる‼︎」


その様子を見ていたコタローが、「明日香は今、忙しいんだから、邪魔しないで」と言う。


明日香、忙しいの? と覗き込んでくる兄妹たちを苦笑しながら撫でると、明日香は「大丈夫大丈夫、遊ぼ」と立ち上がった。


先へと走り出した兄妹たちを追いかけようと歩き出すと、明日香の背中にコタローが声を掛けた。


「明日香、あんまり可愛がってると後で大変な目にあうよ」


「えええ? 大変な目って……?」


戸惑ってはいるが、にこにことしている明日香に少しだけイラッとなり、コタローは声を上げて言った。


「アクバやシュリからしつこくされるぞってことだよっ‼︎」


「ふふ、そんなの平気だよ」


「明日香はのんき者だからあ……あいつら、そのうち求婚してくるよ」


「ええええ‼︎ まだ子どもだよ‼ ないないない︎」


「何言ってんだよ、明日香。『獣−獣族』は成長が早いから、あっという間に、」


すると、痺れを切らしたアクバが呼びにくる。


「アスカ、何やってるの‼︎ 早くおいでよ‼︎」


苦笑しコタローを時折、振り返りながら、アクバの後をついていく。


コタローは、その後ろ姿を見つめながら、明日香が中学の時の出来事を思い出していた。

その日、明日香は学校から、なんだか変な顔をして帰ってきた。


「ママ、なんかねえ、これ貰ったんだけども」


可愛い包みに、リボン。

ホワイトデーの日。明日香は初めて異性からプレゼントを貰ってきた。

コタローは、そのことがショックで、しかも男の子からということがたいそう気に入らず、ムッとしたまま、その日は夜ご飯を食べなかった。


「どうしたの、コタロー。どこか具合でも悪いの?」


心配げに、コタローを覗き込んでくる。それでも、コタローは顔を背け続けた。


コタローは明日香の元に遣わされた時から、明日香の言葉は理解できていたので、明日香の母親と交わす会話から、どんな男が明日香にクッキーを渡したのかも分かっていた。


「ねえ、ママ。このクッキー、間違えて渡したんじゃないのかな。だって、私、バレンタインにチョコとかあげてないし……」


明日香は、自分が告白されているなどとは、思いもしないのだ。

そうこうしているうちに、明日香はクッキーを返してきてしまった。


「誰かに渡せばいいの?って訊いたら、もういいって言われた。やっぱり、私じゃなかったんだね」


コタローはその時、明日香がその方面にはまるで鈍感で良かったと、ほっとしたのだった。


他にも、コタローは明日香と一緒に散歩に連れだって出かける時などは、いつも周りを警戒していないといけなかった。時々、偶然を装って、クラスの男子に待ち伏せされたりしていたし、そんな時はいつも明日香は無邪気かつ無防備で、コタローはその度に男から告白されるんじゃないかと、ハラハラさせられていた。キャンキャンと吠えて、他校の男子を追っ払った時もあった。


(明日香は、意外とモテるのに、無防備すぎるんだよ。まったく、油断も隙もあったもんじゃない)


コタローは、アクバの後をついていく明日香の後ろ姿を見て、はああと深く溜め息を吐いた。


ロウとユノ。

明日香が一緒にいたいと言った、獣人。


どんな男か気になって仕方がない。明日香のことだ、きっと食べ物とかで懐柔されたに違いないけれど、その獣人だって、きっと明日香を気に入っている。


(だけど、明日香はボクのものだ。ボクだけのものだ)


コタローは、すでに誰もいなくなった空間を、睨み続けた。


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