嫌な予感
二人がイアンを疑い始めてから、五度目の三国会議が開かれようとしていた。ここ数回の会議の開催会場は固定されており、それは明日香が遠出にも慣れてきた、という経緯があった。会議が終わると、皆はそれぞれ自国へと戻っていく。ミックスの移動による死者の被害が出ないようにと、それを見計らって、明日香も帰途についた。
その頃になると、ロウとユノは明日香につきっきりになり、どちらかがついていけない場合も、どちらかが必ず明日香に同伴した。
明日香をひとりにすれば、何か良からぬことが起きそうな気がして、心配になる。誰かに連れていかれないか、誰かに狙われないか、そんな思いが湧いて出てくる。
二人は話し合って、明日香から目を離さないようにした。そうしているうちにも、明日香は通訳者として、皆から頼られる存在になっていった。
この世界で生きると決めた明日香にとって、それは喜ばしいことであると同時に、ロウやユノから離れていってしまうのでは、という二人の不安の素ともなった。
「大丈夫だってー。トニとマニを預かるだけなんだから」
「けどよ、行き帰りだって、」
「それも、ジュドが乗せてってくれるから、安心して」
いつのまにそんな算段をつけてきたのかと、ロウは苦笑いをするしかなかった。
(だから、その黒豹がイアンの仲間っていうんだから、)
「大丈夫だよ、ただの子守りのバイトなんだから。カスガさんが出張に行っている間、家で面倒を見てるだけだし」
「カスガさんに直接頼まれたのか?」
「うん、カスガさんがジュドにも頼んでくれてね。で、ちゃんとお給料も用意するって」
「給料っていっても、ダイムだろ。あんなのミックスでしか使えねえぞ」
「通訳のお給料もダイムで貰ってるけど、会議に行った時に食料を買ったりしてるし、今のところは普通に使えてるよ」
「まあ、そうだけど……」
実際、明日香が周辺の農家から、ミックスで流通を開始したダイムという貨幣を使って、食料を購入しているのをみると、ロウはそれ以上は言えなかった。
(カスガさんなら、大丈夫だろうけど……まあ、後からついていけば)
そうなるとユノに頼むしかない。ユノの足は、自分よりは速く走れる。ロウは心を決めると、ユノの家へと向かった。
「そんなの、ダメに決まってる‼︎」
予想通りの反応で、ロウは苦く笑うしかなかった。
「どうして、ロウは簡単に許しちゃうんだよ」
「明日香がそうしたいって言うんだから仕方がねえだろ」
「ダメだよ、トニマニならともかく、ジュドだなんて」
「ああ、イアンのこともあるからな」
まだ、イアンに対する疑いは晴れていない。怪しいと思っても、面と向かって問い正すわけにはいかなかった。
「それもあるけど……」
ユノが頬を膨らませて、なかなかその怒りを解こうとしない。
「なんだよ」
「ジュドって、あの黒豹だろ。あいつ、イケメンなんだよ」
「はあ?」
思わぬ答えで、ロウは訊き返した。
「顔もしゅってしてるし、手脚も長いだろ。明日香が言ってたんだ。ジュドはモテるって。イケメンはダメ‼︎ 絶対ダメ‼︎」
「……はあ」
呆れた声を出すと、ユノは重ねて言った。
「ロウはいいの? モテまくりの、イケメンの、背中に乗るんだぞ‼︎」
「…………」
口をつぐんだロウを見て、ユノは声を上げた。
「ほらあ、見ろ‼︎ おまえだって、嫌だろ」
「ああ、嫌だな」
「ボクがダメだって言ってあげるよ‼︎」
力強く上着をバサっと羽織ると、ユノはドアを飛び出していった。
けれど、明日香に甘々なユノのことだから、きっと無理に我を通すようなことは言えないだろう、ロウは大きな溜め息を吐いた。
ロウは、直ぐにもすごすごと耳を垂らして帰ってくるだろうユノを、そこで待つことにした。
✳︎✳︎✳︎
「じゃあ、行ってくるねー」
振り返りながら手を振ると、明日香は姿勢を元に戻した。黒豹の背中にしがみつくようにして、またいでいる。ジュドは二人の方を振り返りもせず、走り出してしまった。すごい速さで駆けていき、あっという間に視界から消えた。
「なんだよ、あいつ。スカした顔しやがって‼︎ 明日香だって、あんなにくっつかなくてもいいのに」
ユノが不満顔を全開にして、言い放つ。
「おまえがついていってくれると思ったのに……」
ロウが家のドアを開けて、ユノを中へと促した。
「さすがのボクでも、黒豹なんかに追いつけるわけないだろ」
「いや、おまえなら石にかじりついてでも、明日香にくっついていくと思ったんだがな」
「はああ、まったくもう……」
怒りを収めると、次には情けない溜め息。ロウは、しょんぼりするユノを見て苦笑すると、朝方作っておいたスープを勧めた。明日香にも持たせたが、途中でこぼれるかもしれない。そうボヤくと、「なるべくガタガタ道を行かないように、ジュドに頼んでみるねっ」と明るく返された。
いつも前向きで明るい明日香に、ロウはいつも助けられている。明日香の笑顔は、自分をも明るい気持ちにしてくれるのだ。それは心地の良い、暖かい空気。
(もし、明日香が元の世界へと戻ってしまったなら……)
きっと、ロウの心から、その暖かい灯火が、消え去ってしまうのだろう。
「明日香も明日香だよっ」
再度、怒りに火がついたのか、ブツブツと文句を言いながら、スープを飲むユノも、きっとそうなるに違いない。
明日香はもう、二人にとって手離せない存在になっている。
心で、はあっと溜め息を吐くと、ロウもスープを飲んだ。
「おまえだってイケメンだ」
「そんなの関係ないだろっ、全然嬉しくないし‼︎」
「おまえを喜ばせるために、言ったんじゃねえ」
呆れてから、スープを飲み終えると怒り心頭のユノを残して、ロウは少なくなった薪を取りに、外に出た。
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「ジュド、ちょっとここで休憩しよ」
小一時間ほど行ったところで、振り落とされないように捕まっている腕に疲れが出てきて、明日香はジュドの背中から声を掛けた。
「ああ、いいぞ」
スピードを緩めながら、ゆっくりと歩く。少しすると、小さい川があり、そこで手を洗った。
「はああ、ジュドも疲れない? ごめんねえ、私、重いでしょう」
「はは、大丈夫さ。オレは頑丈にできてるからな。まあ、イアンには勝てねえけど」
カバンから、おにぎりとロウが作ったスープを入れた水筒を出す。ジュドにそれぞれを渡しながら、明日香は巨木の根元にある太い根っこに座った。
「イアンは大きいもんね。すっごく強そう」
「まあな、アイツは特別だ。『獣−獣族』の族長の息子だしな。威厳も半端ねえ。だから、『獣−獣族』の政府にも引っ張られたんだ」
「そうなんだ、じゃあ、イアンが次の族長になるの?」
「まあ、順当にいきゃあ、そうなるわな」
ハグハグとおにぎりと格闘するジュドを横目に、明日香はロウの作ったスープを飲んだ。お腹に染み入るような温かさ。朝、明日香が目を覚ました時には、部屋中にスープの良い香りが漂っていた。
「ロウ、おはよ。今朝は早いんだね」
「ああ、スープを作っておいたから、飲んでいけ」
「うわ、私のために? ありがとう、ロウ‼︎」
鍋を覗き込んで香りを楽しむために、ロウの隣へと並んだ。すると、ロウがそっと離れて距離を置き、向こうを向いてしまった。
(嫌われてはいないと思うんだけども……)
何かあれば直ぐに側に寄ってきて、ベタベタと触ってくるユノと違い、ロウは明日香が近づかないと自分からは寄ってこない。しかも、明日香が近づき過ぎると、今朝のように離れていってしまうのだ。
明日香は、それを寂しく思っていた。ロウに嫌われるかもと思うと、途端に震えがくるほど、怖くなる。
何処へ行くにしても、遠いところでも一緒に付き添ってくれるロウ。美味しいものを食べさせようと、腕をふるって料理を作ってくれるユノ。大切にされていることは、嫌というほど伝わってくる。
それは、ミックスによって彼らを守る「通訳者」だからなのか。それとも、「小日向 明日香」だからなのか。
「わっかんないんだよねー……」
おにぎりを全て平らげてしまったジュドが、舌で口元を舐めながら、「何がわからないんだ?」と言う。
明日香は声に出ちゃってたかと苦笑すると、スープを飲み干した。
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「さあ、行くぞ」
ジュドの声に、根が生えそうだった腰をよっこらしょと上げると、明日香はそのビロードのような黒の背中に、再度またがった。
「もうすぐ、デッドラインを超える。明日香、念のため息苦しさを感じたりしたら、すぐに言ってくれ」
その言葉を疑問に思い、言葉にする。けれど、その頃にはもう、ジュドは力一杯走り込んでいた。すごいスピードで、背景が後ろへと流れていく。
「ねえ、デッドラインを超えるって、どういうこと?」
「このまま『獣−獣族』の領域に入るっ」
「え、でもカスガさんの家は、『獣−人族』の領地だよっ」
「イアンにおまえを連れて来いと言われている」
「えええっ‼︎ ダメダメダメ‼︎ トニとマニの子守りする約束なんだから、それを放ってはいけないよっ‼︎」
「…………」
「ジュド、止めて‼︎ 降ろして‼︎」
けれど、ジュドは先ほどの休憩のようには、脚を止めなかった。それどころか、スピードを上げ、明日香を余計にしがみつかせた。
「ジュド‼︎」
明日香は振り落とされないようにしがみつくのが精一杯で、声も出せなくなってしまった。
「デッドラインを超えたぞっ‼︎ 大丈夫か、明日香あっ‼︎」
ジュドの声に合わせて、目眩を覚えた。息苦しさと喉の渇きが酷くなる。
「ジュド、ジュド……気持ち悪い、」
小声で言ったが、猛スピードのジュドには届かない。
明日香は、精一杯叫んだ。
「気持ち悪いんだってばあ‼︎ 助けて、助けて、ロウっ‼︎ ユノおぉぉ‼︎」
ジュドが遠吠えを上げた気がしたが、明日香はそのまま気を失って、ジュドの背中から転げ落ちた。