死線
「なんだ、あの落ち着きのない通訳者は‼︎」
「本当に、アスカ コヒナタなんだろうな?」
「あんな小娘に、通訳が務まるはずがないぞっ」
一旦中止とされた会議が、後日に延期されたのを見て、緊急の案件はないのだと判断したイアンが、会議場の隅で苦虫を嚙み潰しながら、集まった輩を追い返している。
「まあまあ、次の会議までにはなんとかしておくから。今日はもう帰ってくれ」
イアンの言葉に、『獣−獣族』の皆が渋々ではあるが引き取っていく。『人−人族』と『獣−人族』はすでに帰ってしまって、いない。皆を帰してから、イアンは議長席に座って書類を読んでいるカスガに近づいていき、声をかけた。
「はああ、エラいことになっちまった」
「何も知らされずにここに来たのだから仕方がないでしょうね。まあ、次の会議までに色々と教えてあげてよ、イアン」
「ああ、わかった」
「次回の会議の場所は?」
「予想では、明日香から南方に10ウエイくらい先だ」
「では、なるべくここら辺に明日香を留まらせてくれない? 会議場を追いかけるのも容易じゃないから。通訳者に合わせてバッファーゾーンを移動させるとか、やめて欲しいわ」
「本当だな、こっちの苦労が増える。じゃあな、おつかれ」
「お疲れさま」
会議場の片隅で待っていた明日香を連れて、イアンは帰途につく。
(こうやって、こいつを連れまわす限り、バッファーゾーンから出ることはないんだから、安心だな)
イアンは、大人しくなった明日香を隣に感じながら、空を見た。
(どれだけの獣たちが、こいつら通訳者の移動によって、ミックスから放り出されて、死んだことか)
その死者の中に、イアンの友人だったものが含まれていることを思い出すと、ぽっかりと浮かんでいる月にですら、意味のない憎しみが湧いてくる。イアンは苦く思って、明日香には気づかれないよう薄く笑った。
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「自分が通訳者だなんて、嘘みたいな話だあ。英語も喋れんのに」
イアンに聞かされた信じられない話を、明日香はベッドの上で考えていた。いや、ベッドとは言い難い、乾燥した藁を敷き詰めて毛布を敷いただけの寝床に、明日香は転がっている。
洞窟の奥は暗過ぎて怖く、自ら洞窟の入り口に陣取って、簡易の寝床を作った。月の灯りが届いているので、ほわりと明るい。イアンが奥にある自分の寝床で眠りにつくまでは、イアン自身が光っていて周辺も明るかったのだが、大きなイビキが聞こえてくる頃にはすっかりその明かりもなくなり、真っ暗の闇となってしまった。
入り口に、こうして寝床を確保しておいて良かった、と思う。月の光を浴びながら、明日香は目を閉じた。軽い眠気はあるが、昼間の興奮が原因ですぐには寝付けない。
(確かに、皆が話している言葉はわかるけども)
あの混乱の後、様子を見ていると、同じ種族同士は話しはできるのだが、種族以外の者とは、一切意思疎通ができていない。ただ、議長のカスガだけが、皆と話が出来るようだった。
「ふふ、勉強したのよ。それも、死ぬほどね。でも、あなたは生まれつきその才能が備わっている。羨ましい限りだわ」
カスガは、その鋭いかぎ爪を器用に使って、後ろで結んでいた髪留めを外した。かぎ爪以外の部分は、ほぼ人間の様相だ。それは、ロウとユノも同じだ。
「通訳者、かあ」
明日香は、ふかふかとは言い難い毛布の上で、寝返りを打った。
「ってか、生まれつきって、どんななのよお。だって、私、普通に……」
普通に高校に通い、帰り道に友達と買い食いし、家へと帰れば両親と夜ご飯を食べ、笑い、コタローと遊んで一緒に寝る。そんな普通の生活を過ごしてきたのに、どうしてこんな世界に。
明日香は溜め息を吐いた。
「私ってば、死んだんじゃなくて、なんか知らんけど通訳できちゃうもんだから、ここに連れてこられたってことだよね。それって、勝手すぎるんじゃないの?」
ガバッと身体を起こす。
「それに、コタローを囮にするなんて、最低だよっ‼︎ 義理人情の欠片もないわっ。一体、どこのどいつよ、そのメインブレインってのは……私は何にも悪いことしてないっての‼︎」
鼻息をふんっと出すと、はらわたが煮えくりかえるような気持ちになる。
「もう、寝よっ‼︎」
バサッと音をさせて横になると、うーん、と伸びをしてから、明日香は眠りについた。
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深い森を掻き分けてようやく広い場所に出たのは、ユノを見失ってから一時間後のことだった。普段から、森の中は歩き回っているので、だいたいの自分の位置の検討はついているのだが、このような広場に出たのは初めてで、ロウは頭の中に置いてある地図を修正した。
珍しく、ひらけた場所。辺りを見回すと、大きな木が何本も立ってはいるが、障害と言えるものはそれくらいしかない。ぐるっと一周、見て回った。
「こんな場所があったんだな」
少し歩くと、足に何かが当たった。ガシャンと、大仰な音が立った。
「これは、」
拾って手に取ると、自分の家にあったランタンだということがわかる。明日香が持って出たものだろう。それが落ちているということは、ここで何かあったに違いない。
「明日香、明日香ああ‼︎」
声を大にして、二度叫ぶ。何も応答はない。
そこで、もう一度、名前を呼んだ。
「あすかああ」
今度は、ありったけの声で。けれど、虚しくこだまが返ってくるのみだった。
獣の鳴き声が聞こえないところを見ると、ここはまだ『獣−人族』の領地のはずだ。そう判断しランタンを腰紐につけると、ロウはさらに歩き出した。
するとすぐに、なぜか息苦しくなってきて、ロウは訝しんだ。心なしか気温も上がっているように感じるが、獣の気配は感じない。気にせず、そのまま進もうとすると、ここで急に足が動かなくなった。
「なんだ、これ。どうしたんだ、一体」
足がガクガクと震え出し、ヒザに力が入らなくなり、そのままその場に崩れ落ちてしまった。
「う、うそだろ。デッドラインは、ま、まだ先のはず……」
倒れたまま、はっはっと浅く呼吸を続ける。けれど、その呼吸もままならなくなった。仰向けになり、空を仰ぐ。ロウは息が完全にできなくなり、喉をかきむしった。
「ぐ、ぐ」
大きく開いた口から、よだれが垂れていく感触が肌に残った。苦しみで、気が触れそうになる。意識が遠のいていく。
そんな中、ロウはユノや明日香を思い出していた。
ユノはともかく、明日香を思い出すなどと……。
ビク、ビクと二度、痙攣すると、ロウはそのまま、息を止めた。