分かたれた道
「いやいやいや、うそでしょ、これ絶対ドッキリなヤツ‼︎」
一夜明けて、明日香は寝ぼけ眼から覚醒して現状を確認すると、あわわわと慌てふためくしかできなかった。横たえていた身体を動かそうとしても、ビクとも動かない。
ライオンと対峙したのは昨日の夜のことだ。明日香は眠ってしまったライオンの横で立ち尽くし、けれどその場を離れることもできず、結局はライオンの側で夜を明かしてしまったのだった。
正気を取り戻した明日香は、ランタンをどこかに落としてきてしまったのに気づいた。灯なしの状態で森の中へと戻ることもできず、仕方なくその場に座り込んだ。
ぐっすりと眠り込んでいるライオンは、ほわりと光っていて、見るからに暖かそうだ。夜も更けて、肌寒くなった気温にも気がつくと、明日香はライオンへと、恐る恐る手を伸ばした。
ふわっと、優しい手触りの毛並み。
(ヌイグルミみたい。野生のライオンって、もっとゴワゴワなのかと思った)
すすっと撫でると、その体温も感じられる。中から発熱しているのではないかというくらいの高い体温だ。
(そっか、そういえば、ここ現実世界じゃなかったんだった。野生でこんなふわふわな毛並みとか、あり得ないもんね)
ライオンが、食べない、と言っていたことを思い出すと、途端に置いた手がほわっと暖かい。
(はああ、あったか)
明日香は、少しずつライオンに近づいていき、隣で眠ってしまったのだった。
そして。
朝、起きると、ライオンが覆いかぶさっていた。
布団、だと思ってたら→ライオン→ぎゃああ‼︎ と、今に至る。
「まだ、しんじられんのか?」
「…………」
ライオンがその身を持ち上げて、ずらす。明日香は、ライオンの重みから滑り出すと、その横でちょこんと座った。寒さで、ふるっと震える。
「なんだ、おおさわぎしたかとおもえば、こんどはだんまりか?」
「ライオンさん、喋れるんですね」
「さっきから、かいわしてるだろう」
「……はい」
襲われないと分かれば、恐怖も薄まっていく。
「食べませんね。絶対、食べないよね?」
念押しした明日香に、ライオンは大きくあくびをすると、ブルブルと顔を横に振って応えた。
「それより、おそかったじゃないか。どこで、みちくさをくっていたのだ?」
「どこでって……ロウの家にご厄介になってました」
「だれだ、それは? まあ、いい。それより、おまえをよびにいかせたケモノは、いったいなにをやっていたのだ。いま、どこにいるのだ?」
「呼びにきたって……コタローのこと?」
「いや、なまえはしらんがな。けれど、うまれてからずっと、おまえのそばにつけていたケモノだ」
「それ、コタローのことでしょ。私、コタローについて来て、ここに来たの。コタローはどこに行っちゃったの?」
ライオンは再度、大あくびをしてから、その重たそうな身体を起こして、立ち上がった。
「われわれのくににでも、もどったのだろう」
その姿を見て、明日香は慌てて訊いた。
「どこなの、それは?」
「ここから、そっちのほうがくだ」
ライオンが、顔をくいっと向ける。その先は、迷ってしまいそうな深い森のようだった。
「行ってみる」
明日香も立ち上がって、ズボンについた草を両手で払った。
「いったら、しんでしまうぞ」
「うそ、どうして?」
「にんげんがくるところじゃない。でもまあ、おまえならだいじょうぶか」
「でも……」
死ぬ、と言われて、怯む。けれど、考えてみればおかしい話だ。
「でも、私、もう死んでるから」
だから、こんな訳の分からない世界にいるのだ、と思う。
「…………」
ライオンは、しばらく沈黙していたが、喉を鳴らすと、笑いながら言った。
「はは、おまえはなにをいっているのだ。しんでしまったら、このよにいるわけがないだろう」
「え、でも、ここが天国とかじゃないの?」
「……ここはだな、まあ、ばっふぁーぞーん……ってことになるのだろうな」
「ば、ばふ、バッファーゾーン?」
そして、気がつく。
「ねえ、ライオンさんの話し方って、変わってるね」
「?」
「イントネーションの違い、かな……方言っていうか?」
話していることは理解できるのだが、人間の自分たちとは違う話し方だった。
(ロウやユノとの会話も、最初は変な感じだったっけ。あの時はロウやユノの話し方へと自分の意識を変えたら、普通に話せるようになってた)
思い出していると、ライオンが話し出した。
「おれらケモノはこういうしゃべりかただ。おまえがかわらなくてはならない」
明日香は、注意深く耳を傾けた。
「俺ら獣はこういう喋り方だ。お前が変わらなくてはならない……」
ライオンの言葉を真似して呟いてみると、途端にするっと頭に入ってきて理解できた。
「あ、話せる」
そんな明日香を見て、ライオンは鋭い牙を見せて笑った。
「ははは、当たり前だ。お前は、この世界でたった一人の通訳者なんだからな」
意味が分からず、明日香はぽかんと口を開けた。
✳︎✳︎✳︎
「おい、あまり急ぎすぎるな。このペースで行くと、数時間後にデッドラインを超えちまうぞ」
ロウが慌てて、ユノの肩を引っ張った。引っ張られたユノは、半身を仰け反らせると、引っ張られたのが気に入らなかったのか、不服そうな顔を後ろへと寄越す。
(引っ張られたのが気に入らなかったんじゃない、止められたのが気に入らなかったのか)
その顔には、ありありと怒りが表れている。
「ロウ、キミは明日香が心配じゃないの?」
「心配だ。けれどオレらが倒れちゃ、意味ねえだろうがよ」
「でも、こんな深い森の中じゃ、方角だってわかんないでしょ。きっと迷ってる。きっと今頃、」
ユノが振り向いていた顔を前へと戻して言う。
「……泣いているよ」
チクリとロウの胸に痛みがあった。
「……ユノ、おまえ、明日香のことが好きなのか?」
思わず、言葉が声になって出てしまった。
心の中に押し込めておこうと思っていたモヤモヤが、思わぬユノの反抗にあって、口をついて出てしまった格好だ。
ロウは、しまったと心で舌打ちした。こんなことを訊くべきじゃなかった、と後悔したが、後の祭りだった。
「……そういうロウはどうなんだよ」
切り返してくるユノに、苦笑いがもれそうになる。
「別に、オレは……第一、明日香は人間じゃねえか。まず、住む世界が違うだろ」
「違うって言ったって、意思疎通はできるんだし。明日香は良い子だよ。ボクらの学校のクラスの誰とも違うと言えるし、同じだとも言える……ボクは、好きだよ」
一瞬。
ドキリと心臓が跳ね上がる。
そうか、と言うのが精一杯だった。
ユノの頭を見る。耳が、これ以上はない、というほどに立ち上がっている。
分かり切っていた答えのはずなのに、現実味のある言葉では耳にしたくなかったという思いがあった。ユノが明日香をどう思っているのか。
何故、自分がその答えを聞きたくないと思っているのか。
自分の中ではもう、その答えは出ているのだろうか。けれど、それを意識したくなくて、ロウはその思いに蓋をしたのだった。
そうして、小一時間ほど森の中をあてもなく彷徨っていると、どこかから声のような音が聞こえてきた。
「なんだろう、この音」
二人は立ち止まって、辺りを見回しながら、耳をすました。
クククク、ルルルル、ピピピピ、高い音、低い音。立ち止まっている間に、色々な音がそこかしこから聞こえてくるようになった。
「……なん、だろ」
ユノが、耳を横へ前へと小刻みに動かしている。ロウがユノに声を掛けようとした瞬間、ユノが振り返ってロウへと迫った。
「ロウっ、戻るんだっ‼︎ 早くっ‼︎」
その声に反応したロウが、俊敏に踵を返して走り出した。
「ここはもう『獣−獣族』の領地だっ。急いで戻って‼︎」
「言わんこっちゃねえ‼︎」
ロウが走りながら噛みついたが、ユノは構ってはいられないというように必死で走る。二人を追いかけるようにして聞こえてくる音は、獣の鳴き声だ。
ロウもユノも初めて聞く音に、それが獣のものとは、ついぞ思い至らなかったのだ。
(くそ、だからこんなに暑いのか‼︎)
ダラダラと背中を流れていく感触を感じながら、ロウは走りに走った。自分について後ろを走るユノのために、ロウは邪魔な草木を、その尻尾でなぎ倒していく。ユノの、はあはあという息遣いが、次第に荒くなっていく。限界を悟ると、ロウは走りをゆるゆると緩めた。
獣たちの鳴き声も、とうに聞こえなくなっていた。
「この辺なら、はあはあ、もう大丈夫だろ」
そう言って、息を整えながら後ろを振り返ると、そこにユノの姿がない。さっきまで聞いていたはずの息遣いや足音が途中から途切れたことを、ロウは直感的に思い出した。
「ユノ‼︎ どこだ、ユノ‼︎」
ロウはもう一度、戻って来た道へと走り出した。