出逢い
「ミックスは生きておる」
二人は帰途につきながら、ナスダリ博士が最後に言った言葉を頭の中で反芻していた。
「どういう意味か、分かった?」
「ああ、何となくだがな」
そして、もう一つの疑問。
「博士を襲ったのは一体誰なんだろうな」
「そうだった、ロウ‼︎ あんなことして、逆に襲われたらどうするつもりだったんだ。まったく、ロウはいつも考えなしで行動するから、こっちはハラハラしっぱなしだよ‼︎」
「博士を助けないとと思ったんだ」
「寿命が縮んだよ、まったくもう」
ユノが手を胸に当てて、掴むフリをする。そして、そのままユノが口にした言葉は。
「……政府、とかかな」
「ん、あり得る。先生の本を発禁本にするくらいだからな。何か、隠したいことがあるのかもしれん」
「ミックスについて、一般的には知れ渡ってないってことだもんね。ボクたちも今日、初めて知ったんだし。それでロウは、ミックスがどこにあるって踏んでるんだい?」
「ミックスは生きているって、言ってたよな。だから、場所は明確にはできない、とも。それって、エリア自体が移動していて、一箇所に留まらないってことじゃないかと思うんだ。考えてみろ、デッドラインだって結局、すげえ曖昧で大まかだろ」
「うん、地図にだって描かれていないからね」
「あの森……オレらが住んでるあの森だって、デッドラインの近くだって言われているが、」
「方角的に気をつけるよう、忠告は受けているよ」
「ああ、学校からだろ」
「うん、文書でもらってる」
「あれ、サインの部分、消されているの知ってるか?」
「え、」
ユノが絶句した。
「修正の跡があるんだ。気づかなかったか? あれは、学校が発行する書類じゃない」
「……全然、気がつかなかった」
「『獣−人族』が住むエリアの地図が載っていたが、その地図はオレらの森からさらに西の方は地図が切れていたよな。それで、その先にはデッドラインが存在しているから、危険なので近づかないようにって、注意書きがあっただろ」
「うん、あった」
「多分、政府か何かの組織が発行したものを、オレらの国の部分だけを切り取って、学校側がそのまま転載したんだと思う。学校は生徒の命を守らなくちゃいけねえからな」
ユノは、荷物を抱え直すと、口元に握りこぶしを持っていき、考え込むような顔をした。
二人ともが早足で帰途に着いているのは、明日香が帰っているかもしれないという淡い期待があるからだ。
少しの間、無言が続いた。
けれどロウが再度、話し始めて、その重い空気が揺れる。
「なあ、ユノ。これは、オレの勝手な想像だけどな……」
「ん、なに?」
「明日香を見つけた場所、ミックスの中なんじゃないかな」
「…………」
なんだ、驚かないんだな、そうロウが続けると、ユノは真っ直ぐの視線をそのままにして、耳を疑うような言葉を発した。
「ロウ。たぶんだけど、キミの家もそこに入っていたんだよ」
沈黙が二人を襲った。
✳︎✳︎✳︎
コタローの幻影(?)を追って、明日香は必死に森の中を歩いた。
枯葉や枯れ枝を踏む足音の他に聞こえてくるのは、風が森の木々の葉を揺らす音のみ。これだけ歩き回っても、動物の一匹も目にしない、という不思議さがあった。
(これだけ暗いから、気がつかないだけかもしれないけど)
ロウの家から出るとき、外の暗さに慌てて、ランタンだけは持って出た。そのランタンの光がなければ、足元も覚束ない状態だっただろう。
そして不思議と、コタローの光は、途中で消えることなく、明日香を誘うようにして、ふらふらとしながら森を行く。それは、きちんと道を把握していて、どこか目的地を目指しているようでもあったが、明日香はそんなコタローの光を、疑い始めていた。
(こんな森の中、どこへ行くのかな……)
二度、コタローと名前を呼んだ。すると、コタローの光は一瞬、立ち止まるような様子を見せた。けれどすぐに、それは先へと進んでいく。それを、明日香は追いかけていった。
何度も戻った方がいいのかも、とは思ったが、帰る道も分からないのだから、このままコタローについていく他ないと思い直す。
ひとりで家を出てきてしまい、ロウやユノは心配しているだろうか。そう思うと、明日香の気持ちは不安でぐらりと揺れた。
(これだけ暗いし、目印にするヒモも持ってこなかったし。迎えにはきてくれないよね)
この見知らぬ不可解な世界で、パニックにならないですんでいるのは、二人の存在が大きい。
明日香は、暗闇を歩きながら、その事実を実感していた。
そして、ぐるぐると考えを巡らせていると、森が終わり、ぽっかりと空いた空間にたどり着いた。気がつくと、コタローはどこにもいない。
「う、うそ」
途端に、明日香は混乱してしまった。
「やだ、コタロー。どこ? コタロー、コタローおぉ」
叫んでも何の音も返ってこない。返事が、というより音自体が存在しない。
しん、と静まり返っている。足元で折れる枝が、パキパキと小さな音をさせるだけ。
自分が生きていた世界では、森といったら、鳥のさえずりや羽ばたき、動物の鳴き声などが耳に入ってきたのに。こんな夜であれば、フクロウの鳴き声でも聞こえてきそうなものなのに。
明日香は、自分が住んでいた世界との決定的な違いを、肌で感じざるを得なかった。
ぽつんとひとりだけ、ここに存在する自分。
「う、うえ、家に帰りたい。パパ、ママあ」
涙が溢れてきて、嗚咽が止まらない。明日香は、背中を波打たせながら、その場にしゃがみ込んだ。
「パパあ、ママ、コタロー……うわあ、ママああ」
周りを森の木々に囲まれているという閉塞感もあり、明日香はさらに孤独を感じて泣いた。けれど、どれだけ泣いても、聞こえるのは自分のすすり泣きのみ。
明日香は、ひと通り、その場で泣いた。
✳︎✳︎✳︎
ガサリと音がした。
明日香はその音で泣くのをやめ、辺りを見回しながら耳をすます。
すると、さらにガサガサっと、草をかき分ける音がする。
(うそ、なに?)
「ウウウ、」
低い唸り声。近づいてくる。
「……ウオォ……ウオォ」
今度は、何か動物が吠える声。
(犬、狼? なに、なんの動物?)
明日香は、良からぬものが近づいているような気がして、中腰で立った。そっと、踵を返そうとする。その動作に合わせて、それも動く。
ハッ、ハッ、ハッと、息遣いが聞こえてくる。
襲われるかもしれない、そう思うと恐怖がずぶずぶと湧いてくる。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ)
頭の中を占めていく。
明日香は、その存在を背後に感じながら、今すぐにでも走って逃げ出したいという気持ちを抑えて、そろりそろりと足を運んだ。
「おい、まってくれ」
聞き覚えのない声。誰かがいるのだと分かり、明日香は振り返った。
そこには、大きな獣。明日香が四つん這いになるよりも数倍大きい。
それは、明日香の世界でいうところの、ライオンの姿だった。焦げ茶色のたてがみ。暗闇の中、光を放つ眼。口から鋭くはみ出す牙。茶色の流れるような毛並み。
暗闇の中、鮮明に見えるのは、ここまで追いかけてきたコタローのように、身体全体が光に包まれているからだ。
「まて、といっているのだが」
そう言われて、明日香は自分が無意識のうちに、そろそろと退路を身体で探していることに気づく。獰猛な動物から逃れようとするのは、人間の本能だ。
「だ、誰か」
「とまれ、あすか」
名前を呼ばれ、ようやく正気を引っ張ってこられた。
「わ、私の、な、名前」
「しってるぞ、ふたつめのなまえも……たしか、こひなた、だったな。おまえは、あすか こひなた、だろう」
ライオンは、大きく舌を出して、口の周りをべろりと舐めた。
「た、食べられる」
心で思ったはずが、どうやら口に出していたらしい。明日香の言葉を聞いて、ライオンは大きな口を開けて、がはは、と笑った。
「たべるわけがない」
「……本当に?」
「あはは、おまえはみるからにまずそうだ」
明日香は、その言葉に少しだけ安堵すると、先ほどから話をしている相手を探した。
「なにを、きょろきょろしているのだ」
「だ、誰かいるんでしょ」
言葉の主を探す。
「……おれが、しゃべっているのがわからないのか? とんだまぬけだな」
「マヌケって……」
「おい、あすか、いいかげんに、」
「⁉︎」
辺りに言葉の主が誰も見当たらないということに気づき、明日香は大声をあげた。
「え、ちょっと待って」
「まっていても、だれもこんぞ」
「ええええええ、ちょっと待ってー‼︎ ら、ら、ライオンがしゃべってるぅ‼︎」
ライオンは、大きく溜め息を吐くと、その場に座り込んだ。両前脚を前で組むと、そこへ立派とも言えるたてがみが覆う大きな顔を乗せる。
「らいおんじゃない、ちゃんとなまえがある」
気だるそうに言うが、明日香は混乱していて、耳に入ってはいない。
「うそうそうそ、ライオンが喋ってるっ」
「げんじょうが、はあくできたら、おこしてくれ」
呆れたように言うと、その場で大きないびきをかいて、眠ってしまったのだった。