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赤、ひとしずく、青。

作者: 谷崎 亜矢子

化学については素人ですので、細部が本当に正しいかは不明です……

明らかな誤りがありましたらご一報ください。

 久しぶりに来た学校は、何だか知らない場所みたいだった。冷気の染みた上履きに足を滑り込ませ、見慣れていたはずの廊下を歩く。左側に並ぶ高一の教室はどこも授業中だ。今の時間は午前十時、つまり二限の真っ最中。流れ出す先生の声と生徒たちの気配が、とろっとひとつにまとまって、ゆるいゼリーみたいに通路に充満している。

「ジャンピングハグって良いよね!」

「え、なにそれ」

「漫画とかでよくあるじゃん、女の子が飛び上がって、男の人に後ろから抱きつくやつ!」

「女の子の片脚がぴょこんってなるような?」

「そうそう、身長差があればあるほど可愛いんだー!」

 ここでそんな会話をして騒いだのも、遠い昔のことのよう。

「ね、もし、かのりんがやるとしたら、誰がいい?」

 そう聞かれたとき、わたしの答えは一択だった。でもあんまり早く言うのもおかしいから、ちょっと考えるふりなんかしたんだっけ。

「えー、やっぱ背が高くなきゃだめだから、うーん……結城先生?」

「えっ嘘まじで! それはやめとき、折れちゃう折れちゃう!」

 あの子は両手をぶんぶん振って、全然本気にしなかった。けど、いいんだ。本当にわたしが結城先生を好きだなんて、本人にさえ知られたくないから。高校最後のバレンタインの今日にだってきっと、真面目なトーンではチョコ渡せないから。だって、だって……大好きな結城先生のこと、困らせてしまうでしょう?




 高一のフロアを抜けて理科棟に入ると、辺りの気温は急に低くなった気がした。それもそのはず、今までは右側が日の差し込む大きな窓だったのに、ここまで来るとただの壁。しかも、近くにある教室は高三のばかりで、すでに受験シーズンに突入して自由登校になってるこの時期ではどこのクラスもほぼ空っぽ。着られるのもあとわずかだからと思いっきり短くした制服のスカートから、誰にも温められないままの粗削りな風が入ってきて太ももをいじめる。さむ、とつぶやいたけど、わたしの歩調は変わらない。落ち着いて、落ち着いて。そう自分に言い聞かせるように、人気のない廊下を進んでいく。

 突き当たりの生物室のところで右に曲がり、狭い階段で二階に上がる。「めくるめく炭素骨格の世界」「あなたを取り巻くポリマーアロイ」……壁を埋める、いつまでも張り替えられないポスターたちを見て、少し気持ちが安らいだ。まったく、何を緊張しているんだろう。最後の授業のときし損ねた実験をやりに来たっていう、ただそれだけのことなのに。




 第一化学室、と書かれたプレートの前で立ち止まり、ドアの窓から中を覗く。その途端、ぴくんと胸がジャンプした。白衣に包まれた細い人影が、黒板に一番近い実験机のところに、少し傾いで、立っている。わたしはわくわくする心をぐっと抑えて、極めて静かに、ドアを開けた。

「結城先生。お久しぶりです」

 ささやくように言ったけど、それでもがらんとした化学室にはよく響いた。先生はゆっくりと振り向き、はにかむように微笑んだ。

「ああ、久しぶり。元気でしたか」

「はい。お忙しいところ、お時間取らせてしまってすみません」

「いや、今年は高三しか持ってないから、この時期は余裕があるんだよ。加納さんこそいいんですか、大事な入試の直前に」

「ええ、いいんです」

 滑り止めにも受かってますしと続けると、先生はさすが、と言って笑った。

 中に入り、実験机の脇にかばんを置いてコートを脱いだ。机の上には、透明の液が入った三角フラスコや白い粉の入ったシャーレや試薬の小瓶やその他もろもろ、それにボルビックのペットボトルやなんかがこちゃこちゃと並んでいる。わたしは授業プリントと一緒に白衣をかばんから取り出し、身にまとった。袖口から白い平紐がぴらぴらした、高二で化学を選択すると全員が買わされる代物だ。週に何時間かずつだけ二年間着たところで慣れられるはずもなく、まだ科学者なりきりセットのような感じが拭えない。ボタンを留め終えて結城先生を見上げると、先生は訳のわからない色のいっぱい染みついた白衣をしっくりと細い体に添わせ、ベンゼン二置換体の配向性にでも思いを馳せるような顔つきでふんわりと宙を見つめていた。

「先生」

「ああ……準備、できましたか」

 先生は我に返ったみたいにまばたきをして、水の硬度を測る実験でよかったですよね、と言った。はいと答えると、

「ではあそこの、ビュレットがセットされたスタンド、持ってきてくれますか」

 先生はそう言って、自分では純水のボトルが置かれてある方へ歩いていった。

 ドアに近い壁側に行き、ずらっと並んだスタンドの中から一番手前にあったのを選んで抱え上げながら、わたしは内心首をひねる。なんだか先生、上の空? ふと肩越しに振り返ってみると、先生はすでに純水を取ってき終え、机の上のホールピペットをつまみ上げて見つめていた。美しく透き通ったガラス器具とそれを優しく挟む華奢な指、そしてそれらに視線を投げる、結城先生の白い横顔……ぱちん、とその瞬間、スイッチの紐が引かれたように、わたしの胸に灯りがともった。それ自体は暖かい橙色だけど、どこかがおかしい。そう、例えば、誰にも手の届かないような遠くで、ぞっとするほど冷たい光をはね返す何かが、じっと架けられたままこちらを見すえている、ような……

「加納さん? どうかしましたか?」

「い、いえ。すみません、今行きます」

 まあ、気のせいよね。わたしはスタンドを持ち直し、ぱたぱたと先生のもとへ急いだ。ゆるく微笑んでホールピペットを置いた先生は、普段と何も変わらないように見える。




「ええと、検水でホールピペットを共洗いしてから10mL取り、コニカルビーカーに移し、緩衝溶液を0.5mL加え、さらにEBT指示薬を1滴……先生、このEBTって何ですか?」

 授業プリントを眺めて、わたしは言った。

「ああ、それは」

 先生はボルビックをビーカーに注ぎながら言った。

「エリオクロムブラックT。アゾ化合物の一種です」

「はあ……」

「やりながら説明しますから。まずは、これで共洗いを」

 先生はくすっと笑って、ボルビック入りのビーカーを差し出した。

 ホールピペットの先をボルビックに浸し、ストローみたいに吸い上げる。半分くらいまできたところで、口を離し指で端を閉じて傾ける。調べる水で中をすすぐのだ。終わったらその水を捨てて、先に残った水滴は器具を手で温めて追い出して……あれ? だめ、落ちてくれない。ちょっと揺らせばいけるかな、ほら、行け、ほら!

「ああ、そんなに振ったら、どこかにぶつけて割れますって。貸してくれますか」

 先生はわたしの手から器具を取り、片端をふさいで、真ん中の膨らみを優しく握った。その途端、あんなに頑固だった水滴は、素直にぽたりと、器具を離れた。

「どうして……」

 わたしも同じようにやったのに。先生はふふっと笑い、黙って器具を返そうとした。わたしは受け取ろうと手を伸ばし、その拍子に指が触れ合った。

「えっ、熱い」

 反射的な驚きが思わず口を突く。

「手は温かい方なんだよ。心が冷たいから」

 先生はいたずらっぽく言い、手を握り込んで引っ込めた。

「そう、ですか……」

 さっき感じた冷たい光、捉えどころのない不安が、未だ手に残るじわりとした熱にまとわりつく。でもそれを言葉にする勇気は、ない。

 続いてわたしが10mLのボルビックをはかり取っている間に、先生はシャーレの白い粉を試験管に入れ、そこに小瓶からアンモニア水を注いだ。

「先生、それは」

「緩衝溶液。この粉は塩化アンモニウムだから……ぅ、くっ……ごめん、匂いが……」

 先生は綺麗な眉を寄せ、顔の前で手を振った。確かに、臭い。

「ああ、検水、はかれましたか……今度はホールピペット、大丈夫だったんだね。ではこの緩衝液を少し入れて、それからEBTを……」

 先生はそれだけ言って、はぁ、と息をついた。ちらりと顔を見上げると、元々色の白い肌がぼうっと蒼みさえ帯びて見える。いよいよわたしは落ち着かなくなった。

「あの、先生?」

「うん? EBTの説明をしろって?」

「いえ……そうではなくて……」

 どこか、おつらいのですか。わたしはほとんど、そう言いかけた。が、どうしても、言えなかった。「結城先生は心臓が悪いらしい」、以前まことしやかに流れていたそんな噂が今さらのように脳内を巡り、口へと繋がる神経を麻痺させていた。怖い、のかもしれなかった。

 でも、何が……?




 ビュレットのコックを操作して少しずつEDTAを滴下しつつ、わたしはコニカルビーカーをリズミカルに振り混ぜる先生の右手を見ていた。

「EBTは検水中の金属イオンと錯イオンを作って赤色を示す。しかしここにEDTAを加えると、EDTAの配位能が高いためにEBTが遊離してくる。EBTの本来の色は青色、だからこの滴定の終点は、溶液が赤色から青色に変わったところなんだよ」

 ついさっき先生がしてくれたお話を、頭の中で繰り返す。化学から離れたときの結城先生はどこか大人になりきらないような柔らかさをまとっているのに、ああして説明を始めると途端に雄弁になり、瞳の奥に自信が覗く。先生は教師なんだ、という当たり前の事実に気づかされるのは、そんなとき。考えてみればこの学校には院卒でないと勤められないはずで、つまり結城先生もかなり深いところまで化学を修めている。それに年齢だって、若く見えるけれど十は違うはず。

「EDTAは最大六ヶ所で配位結合のできる多座配位子でね、二から四価の金属イオンと、そのイオンの価数に関わらず一対一で結合する。だからこうして、水に含まれる金属イオンの質量、イコール硬度の測定に使うことができるんだ」

 ……思えば思うほど、先生とわたしは隔たっているように感じられる。でも、結城先生の、綺麗に晴れた空を映して微笑んだのと同じ瞳が、赤褐色の液体を宿した試験管に一抹の厳しさを孕んで注がれるのを見た二年前のあの日、わたしは先生に惹かれ始めずにはいられなかった。そして先生の体についての噂が出回ったときには、ありえないと耳を塞がずにはいられなかった。誰だって、大切に思う存在がそんな脆さを秘めているだなんて、信じたくないに決まっている。でももし、わたしが慕う先生のこの人柄が、その身体的危うさゆえのものだったとしたら……? 内から響くその問いに、わたしは今でも、答えを見つけ出せずにいた。

「ああ、そろそろ、慎重に」

「はいっ」

 終点はもうすぐ。わたしはコックをつまむ指に神経を集中させる。先生は床に膝をつき、まだ辛うじて赤色を保つ液体にじっと視線を注いでいる。

 一滴落とす。液面にぶわりと青が広がる、しかし先生がコニカルビーカーを揺り回し続けるうちに消える。また一滴落とす。青色が広がり、しばらく青が液を支配し、終点かと思われたとき突如として赤くなる。わたしたちは黙りこくったまま、そんな緊張に満ちた所作を何度も何度も繰り返した。そして、ついに、

「あっ、むらさき……?」

「もう一滴だけ、落とせますか」

「はい」

 最後のひとしずくをビュレットが放った瞬間、液はぱっと青色に染まり、二度と赤くは戻らなかった。終わったんだ!

「終点です」

 駅員さんのような調子で、先生は告げた。

「いくつですか?」

 先生の言葉で、わたしはビュレットの目盛りに目を凝らす。

「16.18です」

「滴下前は?」

「ええと……」

 プリントに走り書きしたメモに目をやって答える。

「9.60」

「では、滴下量は」

「6.58です」

「それでは、硬度は」

 EDTAの濃度を確かめ、必死に頭を働かせる。

「65.8ppm?」

「正解ですね」

 ボトルには60と書いてあったからまずまずの結果じゃないかな、と先生はまだ床に座ったまま言った。

「やった! ありがとうございました」

 わたしは言った。そしてとびきりの笑顔を浮かべた。ふわりと笑い返してくれる先生を見ながら、きっと先生はわたしの笑みの意味を半分しかわかってないだろうなと思った。

 実験が上手くいって嬉しい、それがその半分。でもわたしの中ではもうひとつ、とっても大事なことが終点を迎えていた。それこそ滴定みたいに唐突に、今さっき。

「このEDTAって、流してしまっていいんですか?」

 そんなことを言いながら、先生の様子を伺った。立ち上がろうとして机に手をつき、その指先に血の気を失うほどの力が込められているのを見て、わたしは探し当てたばかりの終点に内心マルをつけた。




 片づけを終えて白衣を脱いで、エセ科学者から普通の高校三年生に戻る。ではお疲れさまでした、と奥に消えようとした先生を、わたしは呼び止めた。

「結城先生」

「はい?」

「お渡ししたいものがあるんです」

 かばんから包装紙にくるまれた小さな箱を取り出し、手渡す。

「今日の、お礼です」

「ありがとうございます、ええと、これは……」

 バレンタインのチョコだと、先生にもすぐわかっただろう。でも、一番大切なことは、今は言わない。

「三月になったら、また伺ってもいいですか。卒業生として」

「それはお返しの催促?」

「まさか!」

 その頃にはどこかの大学の化学科に行くことが決まっているはずで、またひとつ先生に近づける。それに第一、教師と生徒の関係から自由になれる。ジャンピングハグがしたいなんてことは望まないけれど、もし万が一先生が白衣の奥に隠しているものに手を伸ばすことが許されるとしたら、その後だと思った。

 だからそれまでは、どうかここで待っていてください。そんな願いを瞳にこめて先生を見つめると、結城先生は冗談みたいな表情を引っ込めて穏やかに言った。

「来たいときには、いつでもどうぞ」

「……あの、お元気でいてくださいね?」

「ええ、もちろん」

 最後に先生が見せたのは、季節外れの風鈴が揺れるような、わたしの大好きな笑顔だった。

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