-Bitter sweet salty sweet-
高校生の幼馴染みの、わりとピュアで微笑ましい感じの作品を目指しました。お気軽にどうぞ。
「ねえ、紘輝」
いかにも手持ち無沙汰といった風に、目の前の少女がカウンターに頬杖を突き、スツールから零れた長い脚をぶらぶらさせながら言った。彼女の着ている衣装は、一般的な個人経営の喫茶店店員といった風情ではなく、こう……身体のラインを誇示した、なぜか黒光りするエナメル系の材質で構成されている。傍目にはきちっとお堅めと感じるかも知れないが、よく見るとタイトなスカート丈は、生地をケチったわけでもあるまいにフトモモの中央より上までしかなかったり、いわゆる黒いニーソックスでフトモモとの境目が強調されていたり、やってきた客が思わず特別料金が必要な店に迷い込んでしまったのかと勘ぐるような、とにかく刺激的な服装だった。
「こうお客さんが来ないと流石に暇だから、いつものように武藤のオジサマを呼んできて、うちで食っちゃ飲んじゃしてお金を落としてくれるように頼んでくれない?」
「央……幾ら毎度暇だからって、オヤジを店の売り上げに強制的に貢献させるの止めてやってくれっていつも言ってるだろ?……あのオヤジだってお人好しなんだからさ、頼まれればイヤとは言わないんだよ……そもそも客と駄弁ってる暇なんてあるのか?暇なら暇なりに、仕事なんて見繕おうとすればいくらでもあるんじゃないのか」
「紘輝が客……珍説ねえ」
「きっちりいつもコーヒー頼んでるでしょうが!きみが言う喫茶店の客の定義って、きちんとお金を払って飲み食いする人間以外にあと何が必要なの!?」
「紘輝の客単価なんてオジサマに比べたら微々たるもんじゃない……そんなことで威張るんなら、いつもコーヒー一杯で粘らずに、自分の客単価を上げてよ」
普通の高校生の懐具合を知らないような酷い言い様をするこの子、山城央は俺の幼馴染みで、この喫茶店・『エスポワール』を経営している山城さん夫婦の長女兼看板娘兼、親父さんからコーヒーの淹れ方を学んだ腕利きのバリスタなのだ。うちのオヤジは自営業なのをいいことに、しょっちゅう店番をサボっては商店街の中をあちこち彷徨い、同じ商店街の店主達と世間話をして歩く。そしてさっき央が言ったように、請われればふらふらとこの喫茶店に入り浸り、央の親父さんや央自身と会話に花を咲かせたりしているのだ。看板娘の巧みな話術により、勧められるだけオーダーしちまうから、一ヶ月の遊蕩費がえらい額になって、余所に愛人でもこさえたのかとおふくろから勘ぐられたこともあったっけ。
「しかし仕事がいくらでもあるって言ってもねえ……例えば?」
「例えば……って、そうだなあ、普段は目に付きにくいところの掃除を徹底するとか、新たな看板メニューの開発に勤しむだとかだなぁ……つーか、そういうのは家の娘で尚且つ従業員である央が考えるべきなんだけどな……」
更に言うなら、本来なら央の親父さんが積極的に仕切って然るべきなのだが。
さてそうは言ったものの、央の幼馴染みである俺も、こうしてたいした注文をせずに閑古鳥の鳴きそうな喫茶店でわざわざ暇を持て余しているところからも分るように、央とはお互いに憎からず思っている仲ではある。と思う。そうあって欲しい。多分そうなんじゃないか。きっと。おそらく。少なくとも俺の方は憎からず、なんてものではない。だから両想いになれたらどんなに素晴らしいことか……それを確かめる度胸がないからこうしてつかず離れずの関係を甘受していて前に進めようとせず、央が誰かにコクられたとか一緒に歩いていたとか会話をしていたとかいう、実につまらない話にモヤモヤしてなきゃならないんだ。それを壊すのが怖い……幼馴染みと『そういう仲』になりたい人間は、だいたい俺と同じような感覚を味わっているはずだ。
「新メニューかあ、確かに最近刺激が少ないしマンネリ気味だから、飽きられちゃうしリピーターも多くないのかもね」
「そ、そういう倦怠期の夫婦みたいな結論になるってのも早計なんじゃないかとは思うんだけど」
思案顔も魅力的な央。長く艶やかな、まさしく理想的な黒髪の状態を表すという『烏の濡れ羽色』とはこのことを指すんじゃないかと思わせるそれがほっそりした顔の横を流れ、肩の辺りになだらかに広がりつつ引っかかり留まっているのは、例えようがないほど美しかった。清流が、水面の岩を避けて滞りなく流れ波紋を産んでいるように。
実は彼女は、一桁の歳の頃からファッション雑誌でモデルを務めている、もちろん今でも現役のモデルさんなのだ。大人に混じって活動して、給料をもらって生活しているその迫力というか社会経験は、バイトの一つもしたことが無いこちらにとっては、異次元の存在感と……同時に疎外感を味わわせてくれる。
央が初仕事を請け負ったときのことだ。子供服ファッション雑誌を自慢げな彼女から託され、指示されるがままに開いたページに収まる央は、それまで見たことのなかった大人っぽい服を纏っているのと、明らかなメイクの乗った顔と他人行儀なポーズとも相まって、どこか別次元の人間に見えたものだ。それ以来、央に対する漠然とした憧れと疎外感とを同時に抱きつつ今に至る。
現在高校一年生の央は、ティーン向け雑誌のモデルは単発で請け負っているけれど、学業優先という理由から仕事の数はセーブしている模様だ。央も俺の反応に飽きたところがあったのか、最初の頃のように自分の載ったファッション雑誌を自慢げに見せつけてくることはなくなった。なくなったらなくなったで、俺は密かにコンビニで、他人の目を気にしながらそれ系の雑誌を漁り、彼女の仕事をチェックしているワケだが……冷静に考えるとみっともないし情けないかも知れない。
「そういえばさあ、ウインナーコーヒーってあるじゃない。小さい頃、あれってまあ在り来たりなことに、コーヒーの中にウインナーが入っているんじゃないかと思ったのよ」
「まあ確かにありがちだよな……某サングラスがトレードマークの大物芸人が国元で喫茶店の雇われマスターをしてたとき、本当に客に出したなんて伝説もあるようだけど」
「でも実際に出してみたら悶絶するような味だったらしくて、すぐに間違いだって分ったわ」
「実際に試してみたのかよ!試す前に気がついて欲しかった……客も災難だったろうに……。というかよく飲んだなぁ」
「あの時のお父さんの顔、傑作だったなあ。紘輝にも見せてあげたかったくらいよ」
「親父さんに出したのかよっ!親父さんが可愛そうだろっ!喫茶店の看板娘がその程度の知識を保ってなくて、さぞかし嘆かれたことだろうに。よくそんな悪戯を許してくれたもんだ……今でも気にしてるんじゃないか?」
想像してみよう……
幼い央がコーヒーの入ったカップを持ってくる。しかしそのカップからは、明らかな異物である赤いウインナーが顔を出しているわけだ。そんななにかの冗談としか思えないようなシロモノでも、その小さな掌と拙い動作、無邪気な笑顔、きっと父親のためによかれと思った心で勧められては、親父さんも苦笑いを浮かべ、将来店を手伝ってくれるかも知れない天使のような存在を夢想して、黙って飲み込んだに違いない……。
「気にしてはいないと思うわ。さっきも、昨日のことは忘れてニコニコしてたもの」
「親父さん甘い!娘に超甘い!しかも小さい頃の話かと思ったら昨日の話ときたもんだ!」
央の親父さんはもう還暦を過ぎている。やや歳が行ってから念願叶って出来た娘だからか、彼女に極めて甘い。しかし、娘を可愛がるのと甘やかすのとの区別はしっかりした方が良いんじゃないかと思うなぁ、余計なお世話かも知れないし既に手遅れかもだけど……
「あ、分った!」
これでもかとわかりやすい、『閃いた!』とばかりに掌を打つ。たいていの央の思いつきは悪い方向にしか転んだ記憶しかないのだが。
「安っぽい赤いウインナーを使ったからよ、きっとそうに決まってるわ!もっとこう……本場ドイツの製法で……とやらなにやらっていう、少しは値の張るものを使えばきっと……」
ならねえよ!絶対違うから!こいつ、ひょっとしてヒジキが畑に生えてるものと思っている人種なんじゃあるまいな!?
「とまあ冗談はそれくらいにして」
冗談かよっ!
真面目に心配してソンしたよこっちは!しかもその冗談に付き合わされたっぽい親父さんの話は実話なのかどうなのか!?それ如何によっては非常に気の毒だ!
「紘輝の言うとおり、メニューなりなんなりで他の店との差別化を図るのは良い案かも知れないわね」
「知れない、んじゃなくて必須だと思うぞ……最近店舗を増やしている名古屋系喫茶店だって、飲み物の他にも代表的メニューが色々とあるらしいじゃないか。この店、常連客に頼り切って居るみたいだし、しかも価格が良心的すぎて商売っ気に掛けるというか……他人の家の事ながら少々懐具合が心配になるくらいだよ」
懐具合については……なんだか央の仕事の稼ぎをつぎ込んでるんじゃないかというくらいに、この喫茶店はお世辞にも流行っているとは言い難い。俺の通っている時間帯がちょうど暇なそれという可能性もなくはないが……昼下がりに客足が絶えている時点で何をか言わんや。
常連相手の商売とはいえ、価格は控えめ……例えば喫茶店の看板商品であるコーヒー、『エスポワール特性ブレンドコーヒー』でさえ一杯三百円という値段だ。しかもそれらは、適当な豆をブレンドし、予め淹れておいたものをデカンタで保存し、客に供する前に暖め『へいお待ち!』的ないい加減なシロモノではない。曲がりなりにもきっちりとした店で修行をした、央の親父さんであるところのマスターが、厳選に厳選を重ねて、気温や湿度などの季節の諸条件によってもブレンドの具合を変更し、コーヒーサイフォンで一杯ずつ淹れる本格派だ。それがなんと今ならたったの三百円!三百円でのご奉仕です!……ほんとのご奉仕、出血価格だ。この商売っ気のなさは何なんだろうなあ……親父さんは人情家としては大したもんだが、経営者としてはどうなんだろう。
「まあおいおい新メニューの方は私が開発するから問題ないとして」
問題なしと言い切る央の考えの方に問題がありそうだが。
「飲食メニューはこちらがどんなに美味しいものを自信を持ってお出しとたしても、お客さんの好みがあるから不安定よね。だから最初はビジュアルから強化していって、リピーターさんを増やすところから始めてみるというのはどうかしら」
「それも一理あるか……常連さんだけじゃなく、一見さんを多く取り込んで新規客層を開拓するのも王道だよな。で、アイディアはあるのか?」
そう訊くと、央はエナメル系の生地を内側から突き上げる、その形の良いバスト……もとい胸を張って、
「こ・こ・に!最高の素材があるじゃあないですか!」
うん、確かに最高だ。最高すぎて惚れてしまう。女の子を好きになるのに理由なんていらないけど、おっぱいの形が素晴らしいとか脚が美しいとか顔が良いとか全体のスタイルが良いとか……十分に動機やきっかけとなり得るよな。ちなみにその全てを兼ね備えているのが何を隠そうこの央さんだったりするのだが。つまり俺が彼女に惚れるのはこの世の必然だったんだよ、あはは!
「手前味噌になるけど、この私が一肌脱げば、かなりの効果が認められると思うのよね」
「……その……否定はしないが……具体的にどのような方策を採られるおつもりでしょうか、お嬢様?」
『否定はしない』という部分を聞いた央の口元がニンマリとほころぶ。……こいつ、俺の反応を楽しんでいやがるな。
「そうねえ……たとえば、制服をもっと『せくすぃ~』にするとかぁ?」
央は椅子の上でその美脚を組み肢体をくねらせ、扇情的な目つきと湿り気のある演技で言う。ただでさえタイトなエナメルのミニスカートがフトモモに張り付き、えもいわれぬ神々の造形美を象った。また、スカートのサイドにもうけてあるスリットが意外なほど深く、注視せずとも生足であることを脳裏に刻みつける。黒いニーソックスに包まれた足を伝い、先端を締めくくるのはやはりエナメルのパンプスだ。ハイヒールほどの高さはないが、男性から見ると、アキレス腱の辺りのほっそりとしたラインが象られる極めて美しい履き物である。
央にしてみれば半分冗談めかした仕草でも、惚れた弱みという奴か……我慢するのが難しい。果たして央の心の中は誰が住んでいるのか。幸いにして今まで特定の男と付き合っているという話は洩れ伝わってこないし、そのような疑いを抱く場面も目撃したことはないが……もしモデルの仕事場とかであれこれやっているのだとしたら、俺としてはお手上げだ。
「そ、それ以上『せくすぃ~』にやると飲食代の他にも料金を請求される店みたいになっちまうんじゃないか?」
「……紘輝はそういうお店に行ったことはないの?」
央は大きな瞳をイタズラっぽく細め、ニヤニヤしながら訪ねてくる。そんなもの訊かなくたって分りそうなもんだが……いややっぱりわざと訊いてるんだな。
「あるわけないだろ、学生の身空でどっからそんな金が沸いて出てくるんだ。それに……例え持ってても行かないよ」
そもそもわざわざ金を払ってまで女性と話すという行為がよく分からない。大人連中の話を聞くに、『そういう店』は『その手のプロ』が居るのだから、プロがごく気分良く盛り上げてくれるらしいが……
「ふーん……そーなんだ」
さも興味がなさそうに視線を外す央。本当に興味がないのなら最初っから話を聞くこともないだろうが、央は何しろ接している大人の数が俺とは大違いだ。きっと、仕事場であれこれ大人同士が話しているのを小耳に挟んだりして興味があったのだろう。
「それより、他に案はないのかよ」
「じゃあメイド服……だと他のカテゴリのお店になっちゃうし、いっそのことバニーガールにしちゃうとか?」
「それも二重の意味で別の店になっちまうから却下却下!」
頭の上で両手をウサミミのように掲げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる仕草をする央。非常にあざといが、俺の心臓も飛び跳ねるくらい可愛いから止めて欲しい。
そもそも、ただでさえ人に見られる仕事をしているというのに、央目当てで妙な客層が増えるのは俺の精神が耐えられない。きっと央自身はそれも織り込み済み、覚悟の上でそういう提案をしているのだろうけど。
「それじゃあ紘輝はなにが良いと思う?可愛い幼馴染みが頼んでるんだから、もっとアイディア出してよお~」
「そんな事を言われてもなぁ……さっき言ったマトモなことくらいしか思い浮かばないというか……」
「もちろんそういうのは考えに入ってる……むしろメインで進めなければいけない改革だわ。でもそれ以外……それ以外になにかインパクトのある事柄をねじ込んでみたいのよね」
「そもそもねじ込むっていう表現がもうムリヤリにしか……お前がそういう案を出すと、もう取り返しが付かないような大失態になる未来しか見えないんだよなぁ……」
「なにそれ、ひっどーーい!私だってやるときはやるんだから!人間その気になればどんな困難でも押し通せる!その精神でここまで勉強とお仕事を両立してきたんだし!」
いや、意気込みは立派だけど、結果が……例えば、去年の中学最後の文化祭なんて、飲食物を出す模擬店の権利を獲得したはいいが、何をメインに提供するかや営業形態に関してクラス会議が大紛糾。そもそも中学生にそんな凝った出し物とアイディアが出るはずもなく、また出たところでそれを実現するのも難しく……今まさに話しているように意表を突くメニューにしてみたら……とても客に満足してもらえそうなものが出来上がらなかった記憶がある。しかし、それもこれもみんな楽しんでやってたんだもんなあ……
「そういえばそのときのメニューって……」
「そう!お馴染みのメニューを逆さまにしてみたら面白いんじゃないか、っていう実験喫茶だったよね!あれは私の中でもヒット作だったなあ」
実験喫茶……なんだか化学系の部活が客を相手に軽い実験を披露するようなものを連想させるが、俺たちが開いたものは……それこそ外見的にはメイド喫茶に近いものだった。店の前のメイド姿の女子にたぶらかされ、いざ店内に足を踏み入れた客は、十中八九そのような出し物を期待したのではと思われる。しかし肝心要の飲食メニューが……一例を挙げてみると。
ケーキチーズ。チーズをケーキ風にデコレーションしたもの。見かけの割には意外と悪くなかったが、あくまでそれは実験喫茶内での相対的に、といったところで、内容的にはあくまで三切れ百円で売っている、アルミの包み紙の四角いチーズが原型という域を出ない。
ケーキホット。……そう、ケーキがホットなのだ。本場ではパンケーキと呼ばれているアレじゃない、本当にケーキを温めてしまうのだった。流石にこれは発案者の央も数が出るとは思っていなかったらしく、百円の安ケーキがその犠牲に選ばれ見事に散っていった。これでそのまま食べずに廃棄、なんてことになればまさしく食べ物で遊んでいる不埒者だが、これを面白半分に注文した客は、注文を取りに来た央に感想を促されるがまま、美味い美味いという反応しか返ってこなかった。やはり喫茶店は看板娘次第でいくらでも評価が変わってしまうものなのだろうか??半分想像できたこととは言え、半分は合点がいかない。
或いはライスカレー。これなんて何も変わらなくて、ひょっとしたらなにかあるんじゃないかと思って身構えながら注文した客が拍子抜けしてたぞ。いや、この店である意味『当り』を引いたらそれどころじゃ済まなかったんだけどな……ちなみにこれらを頼んだ客も、央を含む女子連中にチヤホヤされ非常に良い気分になって帰って行ったようだ。……これ、今から考えたら大人が大好きそうな『そっち系』の店とそうシステム的にはそう変わらないんじゃないだろうか?『そっち系』の店と違い、実験喫茶が良心的な店だった証拠としては、学祭で提供するようなごく常識的な値付けだったというところだろうか。
そうそう、ライスオムってのもあったな。わざわざ米をつぶして薄く引き延ばし、ふわふわの卵焼き(よりりにもよってこのふわふわ加減が絶妙で、有名老舗洋食店かと見まごうほどのものだった……焼いたのは誰だ?)を包むというものだ。ま、これは食材の味がそうそう喧嘩しない類いの組み合わせだから、これもやはり客は拍子抜けしてたっけ。外見から味が想像しにくいから、おそるおそるライスオムを口に含んだ客の、実に意外そうな表情が印象的だった。もちろん客の表情が印象的なほど面白かったという意味ではない。
変わり種となると、やはり『蕎麦ざる』だろう。蕎麦をざる状に整形して、一応そのままでは形にならないから油で揚げてみたのだが、これもやはりスナック菓子感覚で悪くなかったようだ。付け汁として市販のめんつゆにわさびを添えて……うん、普通に美味そうだ。味の方のインパクトは全く期待できない。
或いはライスラーメン。
ベトナムとかで好まれているフォーじゃねーかっ!味のインパクト、以下略。中に入っているパクチーが個人的に地雷だと受け取る客も居たことは居たようだが。
とまあ、当初の目的とは違ってあんまり過激なものは出てこない……当たり前だけど、それなりに不評でそれなりに好評なものもあって……と、結局のところ、飲食店としての美味さよりも、メニュー名のインパクトの方が重要という結果にしかならなかった。ま、客に出すと言うことを考えれば、至極真っ当な結果だったんだけどね……本当に食えないものを出したりしたら、後で責任者が各方面からこってり絞られかねないからなあ。メニュー開発の時点でそれなりに試食は重ねていたらしいし、そこらへんは真面目と言えば真面目だ。
「ってなことがあっただろう、だから奇をてらわずに、きちんと親父さんと相談して研究をしてだなあ……」
「それも原価の管理とかどこから安定して仕入れるとかで、言うほど簡単じゃないんだけど……ま、飲食店を経営してるんだから、そこらへんの悩みは当たり前よね。あーあ、結局素人である私たちが考えるだけ損なんじゃないの?」
「そうとも限らないと思うが……得てして素人の思いつきが新商品開発のヒントなるなんてこともよくある話だし……具体例はよく知らんが」
央のように、インパクトというかウケ狙いで考えている内はそうそう当りは引けそうにないのだけは間違いない。
「紘輝、あなたはそもそも私を料理の素人と断じているけど、私の腕前をどれだけ知ってるっての?」
央はさも不服とばかりに、腰に手を当てて仁王立ちになった。またそんな格好をすると、エナメルのシャツの上からでも立派な何かがつまびらかになるんですけど……もちろん何が、とは直接的には言いませんけどね。
「知ってるもなにも……中学二年生の時だったかな、体育祭の時に俺とお前んち、二家族分弁当を作ってきてくれたことがあるじゃないか」
「じゃあそれ、不味かった?美味しかった?」
「そりゃあ……美味かったよ」
基本的に大人数向けの簡便な、お握りを握って冷凍食品を暖め詰めるだけの弁当だから失敗する要素は皆無とはいえ、それを素直に美味いと口に出してしまうのも癪だが、否定しても嘘をつく事になる。例えばこれが……央が俺のために……中身は同じようなありふれたものでも……作ってくれたのだったら最高だったんだけど。
「そーでしょーそーでしょー。私、やれば出来るんだよねー。そう、何でもやれば出来る精神でここまで来ちゃったんだから、ひょっとして天才?」
……そして少し褒められただけでこの有様である。ポジティブシンキングも結構だが、もう少し自重する塩梅を身につけても悪くはないと思うが……央なら何でも出来る、そう思わせる何かが、彼女の全身から溢れているのもまた確かだった。本当に羨ましいと思う。
ここら辺りが、央に対して抱く複雑な心境の一端だ。央は現役モデルの才女、それに引き替えこちらは何の取り柄もない平凡極まりない高校生。唯一平凡でないところがあるとすれば……こんな可愛い幼馴染みが居たことくらい、か。
ともすれば卑屈になってしまうような状況でも俺がやってこられたのは、ひとえに彼女の性格の賜だった。央の性格がそう言っているのだ、私が好きだったら理屈は要らない、力ずくでも振り向かせてみなさい、と。でも、今の自分では、央に相応しいように男を磨くと言っても限界がある。いったい、誰がどうやって頭脳明晰容姿端麗性格闊達、ほとんど漢字で言い表せる彼女に比肩出来うる功績を挙げれば良いだろうか。近い将来的には、せめて国立大への進学?それともスポーツで新聞の一面を飾れるくらいの活躍?どっちにしたって今からじゃ遅い。勉強だけは必死に頑張って央と同じ、県内でも有数のレベルの学校に滑り込んだが、運もそこまで。央は学年でも相変わらずのトップクラス、俺と来ては下から数えた方が早いという体たらく。ひょっとするとその遅いという諦めが一番の敵という気もするが。……いずれにせよ、この様にうだうだ悩んでいる人間になど、央は振り向いてくれそうにない。
「央って、昔からそうだったよな」
「えっ?」
本当に、何の気なしに口を突いて出てしまった。昔から太陽のように眩しかった幼馴染み。彼女があまりにも眩しすぎて、直視できるものではないと自分が認識し始めたと同時くらいに、央への憧れも始まったようなものだ。
小中高と奇跡的に同じところに通えた事実に満足しているだけで、大した努力をしたこともない自分が彼女を羨むのもお門違いだし、央も仕事で忙しかったはずなのに常にトップクラスの成績を維持、それは仕事の合間を縫って猛勉強していたからだということも知ってるし、また食えない大人連中を相手にここまでモデルの仕事をバリバリこなしていた、その精神的逞しさも知ってる。でも……ほんのちょっとでも彼女を羨んではいけないなんてこと、ないだろう?少しはそれくらいのことがあっても……許されるはず……やっぱ、許されないか。口を出てきそうになる、長い間に積もった鬱屈した気持ちを、ムリヤリに飲み込む。せめてこんなところでも彼女に相応しい人間になりたい、彼女にやりどころのない不満をぶつけ、ささやかな慰みを得るような人間になりたくない。ほら、女の子の前でカッコ付けたいなんて、悠久の昔から男の本能的な願望みたいなもんだからな。一時の感情に任せて、他人に誇れる僅かな箇所を、危うく自ら投げ捨てるところだった。
「そうだったって……何よ」
「いやさ、ほら、昔っから無鉄砲で、俺たちの周りをひっかきまわして」
「え?えへへ、そうだった……かな?小さい頃のことはあんまり覚えてないんだよね~」
いつからだろう、たまにお互いの昔のことに言及すると、なんとなくはぐらかされてしまうようになったのは。俺だって幼馴染みと昔話をしたいときくらい、ある。でも、不思議と央はそれを拒否したがるのだ。
「覚えてないって……少しくらいは覚えてるだろ?ほら、みんなでキャンプしに行ったことはいくらなんでも、さあ」
「んふふ~」
央は苦笑いともつかない貌で首を傾げるばかりだ。央ほどの頭脳の持ち主が、こんな昔のイベントを覚えていないはずはない。まず、俺たち両方の家族全員が一様に顔を合わせるなんて機会は、いかに長い間家族ぐるみの付き合いをしていたといえどもそうそうあるわけではない。それに加えて、ただ世間話をしにキャンプ場に行ったってわけでもなく、テントを買って、央の親父さんにそれらしい車をレンタルしてもらい、飯盒炊爨のための準備もし、二泊三日の『いかにも』なアウトドアを企図した催し物だったからだ。あのとき、なにか特別なことが起こったわけでもないけど、忘れようとして忘れられるほど陳腐なものでもなかったはずだ。となれば……央はそれをあまり思い出したくない、ということである。いったい何が原因なのか。
本来なら、央自身が煙に巻こうとするならそれでいいとも思ったけど、俺と央の数少ない、他の人間の知らない央を……言わば独り占めできる極めて限定的な思い出なのだ。忘れる……忘れるフリをされる方が面白くない。あの時はごく普通にキャンプをしただけだと思ったが、なにかあったっけ?央がその話題に触れたくないことが……
「央、正直に言うと……あのキャンプのことを忘れたと言われるのは納得がいかない。お前にそう惚けるだけの何かがあったってことだけは確かだけど、この目の前に居る幼馴染みにはそれが分らないんだ……ひょっとしたら俺が何か粗相をしたのかも知れない。もしそうだったら……今からじゃあ遅いかも知れないけど……謝るから、きちんと言ってくれないか」
顔を背けようとする央に正面から向き合い、真摯に訴えた。ここで俺の方が照れたり遠回しにしてはいけない。きちんと俺が本気であると彼女に知らしめなければ駄目なんだ。央は割とそういうところの理解が苦手なフシがある。だからこそここまで自分の意見と直感を信じて積極的になれるのかも知れないが。
「……」
俺の本気度合いが伝わったのか、央はさっきまでのような、おどけた態度を改め、急に視線をあちこち彷徨わせた。
「紘輝」
「何だ?」
「手、痛い」
気がつけば、俺の両手が央の両肩を強く掴んでいた。まるで央をどこにも逃がさないぞ、と言わんばかりの力で。
「あ、ご、ごめん」
慌てて手を引っ込めると、央は両肩をさする。心なしか、顔が赤い。少し驚かせてしまったようだ。
「悪い……ちょっと力が入っちまった。別に乱暴するつもりじゃなかったんだ」
「……分ってる。紘輝はそういうことしない子」
……子って言い方がちょっと引っかかったが、特に怒ってはいないらしい……良かった。俺という人間も、少しくらい自分に都合の悪い解釈をされたくらいでアツくなりかけるなんて……ちょっと反省すべき点だな。
それから……しばらくの間、やや気まずい空気が二人の間を支配した。俺がこの店に現れると、買い物をしてくると言ったまま、入れ替わるように……それこそ俺を避けるように店を外した央の親父さんも、未だ姿を見せない。俺のオヤジじゃあるまいし、いったいどこでなにをしているのやら。親父さんが帰ってくることでこの沈黙を破ってくれるのならそれでいいが、このまま、それほど広いとは言えないこの店内で二人きりというのもそう悪くない……そうだ、今俺たちって確かに二人きりなんだよな。そんな当たり前のことに考えが至った瞬間、俺の胸の鼓動の間隔がとたんに早くなり始めた。普段、結果的に二人きりになることはあっても、こうして改めて意識しないとそう思わないということは、いかに俺が央の存在を当たり前のように受け取ってしまっていると言うことなのか。これは喜ぶべきなのか、それとも本当は心の内で央を『そう思ってない』という証左でもあるのか。
「……認める、あのときのキャンプはもちろん覚えてる」
非常に申し訳なさそうに、まるで一生ものの秘密を打ち明けるように、……幼子がひた隠しにしていたものを両親に打ち明けるように……しかしそれはむろん、両親からみたらバレバレの嘘の類いではあるのだけど。
「じゃあどうして嘘なんてついたんだ」
なるべく問い詰める形にならないように、出来るだけ優しく言ったつもりだったのだが……やはり央はそれ以上のことを言いにくそうにしていた。
「……そういう紘輝こそ、あのとき何があったのか覚えてないの?」
「こっちが訊いてるんだけどなあ……そう言われてみると……ごく普通のキャンプだった、としか」
央がなかなか打ち明けないのに業を煮やしかけるが、まだ急かすつもりはなかった。
自信に満ちあふれていた央の性格というものは、あの時っから既に形成されていたようなものだった。親父さんがわざわざレンタルしてくれたRV車で、二家族六人をキャンプ場に運ぶ道すがら、車内であれこれ喋りまくる姿もさることながら、キャンプ場に到着してからあれこれ俺を引っ張り回すのも、今までの姿とそう変わらない。
「そういえば、あの飯盒炊爨の時でもとんでもないマネをしかけたよな!どっから得た情報だか知恵袋だか知らないけど、『ご飯はお焦げが美味しいの!』とかいって、わざわざ綺麗に炊きあがったご飯にたき火の燃えかすを近づけて焦がそうとしたり」
「とんでもないこと……じゃなくて、幼いなりにより良い食事にするために無い知恵を振り絞ったんじゃない」
「だいたい、火を扱ったりするああいうのは、年長者の言うとおりにしてればいいのにさ。余計なことをするとかえって悪くなるという良い見本が当時っから……あれ?」
そこで、俺の胸底に違和感が潜んでいるのに気がついた。今の今までキャンプは、さっき行ったとおりの央のアクシデント以外なにも起こらなかった、とばかり思っていた俺には、そのとき抱いた違和感の正体に気がつかなかった。
「なんだろう……なにか大事な事を忘れている……様な気がする」
とてもとても大事な、しかし今の今まで忘れていてしまっていた事。大事だけど忘れてしまったその矛盾こそが秘密なのではないか。
「あの時から私は……紘輝に頭が上がらなくなったんだよ」
央をしてそう言わせる事柄……央が俺に頭が上がらないというのなら、その事件がなかったら今頃二人の関係はどうなっていたんだろうか……少々恐ろしくもある。
「頭が上がらない……って大げさだなぁ、俺が央に対して貢献できたことなんて、今まで一度も……」
「やっぱり紘輝の方が忘れちゃってたんだね」
さっきまでの苦笑いを含んだ表情とは違う、真摯な面持ち。今度は俺が緊張する番だ。いったい央に俺が何をしたというのか。身に覚えがないだけに、不用意なことを言ってはいけないと思うが……正直なところどう対処したらよいものか。
「あのときのキャンプ、たったの二泊三日だったけど、どんな日程だったか覚えてる?」
央は、さっきまで組んでいた綺麗な脚を組み替えた。相変わらず見えそうで見えない。いや、べつに観たいわけだが。見せてくれるのなら観ても構わないだろう……一体何を言っているんだ俺は。
「あれは……そう、そもそもは央が小学校の林間学校に触発されて、俺の家と山城家を巻き込んで、キャンプ行きたい病に罹患したのが事の発端だったんだ。本当にひどい病気だったな……それまではどっちかっつーとインドアな気がした央が、あれだけキャンプに行きたいと連呼してたのは、言っちゃ悪いがオツムがどうにかなっちまったのかと思ったぞ……」
「ちょっとお……失礼な言い方しないでよね。あの時は他の大人と仕事をすることは多くあれ、同年代の人たちと、お世辞にも文明的とは言えない生活のフリをして、自然のありがたみを噛みしめる……フリをして、人間の自然に生きる部分と文明に対する慣れをわきまえて生きているフリ……をするなんて初めてで舞い上がっちゃってたんだから」
「それもアウトドア愛好家には随分失礼な言いようだと思うけど……微妙な問題になりそうだからスルーしておくとして、舞い上がってたのか……道理でいつもよりさらに危なっかしいテンションだったはずだ……」
「それこそ失礼だと思うなぁ!?普段の私、どれだけあやふやな印象なの!」
頬を膨らませて肩を怒らせる。……が、全く怖くはない。もともと怒りの感情とは縁遠い性格だからか、どこが触れてはいけない逆鱗なのかが少しだけ判りにくいのが央の特長でもあった。あまりに調子に乗って踏み込みすぎるとうっかり虎の尾を踏んでいた……ということがしょっちゅうで、幼い頃はちょくちょくひっぱたかれていたっけ。その感覚を掴み始めたのが……多分このキャンプにいったあたりから……だった気がする。
あの時の日程を考えると、普通に皆がにこやかにキャンプしていたのが確実なのは……多分一日目だ。キャンプ当日の早朝、午前四時に目覚ましを掛けていたにも関わらず、それが鳴るよりも早く俺の部屋に踏み入って来た央は、俺の意識が覚醒するのももどかしいとばかりに、タオルケットは引きはがされパジャマを強引に剥ぎ取られ……ぼちぼち性差に因る羞恥心の意識が出始めていた俺は、自分で起きるからと慌てて央を部屋から追い出したんだ。
「それにしても肝をつぶしたぞ……人がすやすや寝入ってるってのに、いきなりドアを蹴破らん勢いではいってくるんだから」
ちょうど央も同じ場面を思い出したらしく、すこし頬を染めてうつむきがちに
「あ、あの時は本当に一分一秒が待ち遠しかったんだから仕方が無かったでしょ?別に一分一秒遅れたってキャンプ場は逃げないけど、小さいときはそれすら我慢出来なかったんだから……子供ってそういうとこあるじゃない」
自分にも心当たりがないことはないので、お互いの意思を尊重して回想に意識を集中すると……
まあ自動車に乗っている最中が極めてやかましかったのはさっき思い出したとおりで、それにしてもうちの両親や央の親父さん達はよくも我慢してたなあ。ま、子供が大人しいのなんて病気の時だけと相場は決まっている。あれもまた子供ならではの元気さ可愛さと解釈されていると見て良いだろう。それにしても子供って存在は気楽というかなんというか。それを許容できなければ人の親になる資格などないのだろうか。たとえ他の人の子供が鬱陶しく思えても、自分に子供が出来ればその見方は百八十度変わるのかと思いきや、聞いた話では、可愛いのは自分の子供だけで他人の子供はやっぱり傍迷惑に変わりは無いのだそうだが……きっと迷惑な存在というところから許容できるという程度に変わるだけなんだろう。とりあえず俺たちは、子供への虐待がまるで季節の風物詩か何かのように報道されるこのご時世、実の親に可愛がられ、まっとうに育てられただけでも俺感謝しなければいけないのは間違いあるまい。
「で、それからキャンプ場に着いたのが午後二時頃。そっからしばらく一息ついた後、さっそく飯盒炊爨が始まって……危うく黒焦げススまみれの飯を食わされそうになったわけだ」
「……マジごめんなさい」
別に今更責めてるワケじゃない……とうそぶきながら、ふと気がつくとその後……二日目から……いや、正確に言うと一日目の夕飯後から、自分の記憶がすっぽりと抜け落ちているのに気がついた。
「あれ……?それから無難にカレーライスの夕食が終わって……それから……それから……」
それはあまりにも不自然な欠落で、まるでその箇所だけがフィルムのように切り取られ、前後でつなぎ治されたかのように、夕飯の後から十月過ぎあたりの方までいっぺんに季節が進んでいた。
「おかしいぞ、なんでそのあと記憶がなくなってるんだ?キャンプはまだ二日もあるハズなのに、その後のことをこれっぽっちも覚えてないなんておかしすぎる……」
自分の記憶が信じられず、思わず口に出す事によってでも確認する。この違和感の正体について何か知らないかと央に目をやると……
「気がついた、みたいね」
複雑な……少なくとも央と俺だけが知っている共有の秘密に思い至ってくれた、という風ではない……貌でこちらを見やった。
「気がついた……って、央は最初から知ってたのか?」
「最初から知ってたというか、みんなが知ってることを紘輝が忘れちゃったというか、そっちの方が正しいかな」
なんだよそれ……疎外感を味わうどころの話じゃなくて、ちょっと薄気味悪くなってきたぞ。宇宙人にアブダクションされて記憶を弄り回されたとか、まさかそんな荒唐無稽な話じゃないよな?むしろそっちの方が気が楽だ。
「教えてくれ、央。そのとき一体何があって、何が理由で俺が記憶を失ってしまったのか。それを知らずに今の央と話を合わせることはできない」
俺の知らない俺の記憶を握っている央。それがどれだけお互いの負い目になっているというのか。しかも今の今まで、誰も積極的には教えてくれようとしなかった事件があったのだ。それはつまりどういうものか。
「それは、実際には俺にとって……央だけじゃなくて、武藤家と山城家全員の負い目でしかない?」
自分の記憶に無いものが自分の重荷になる。これほど恐ろしく、且つ対処不能なものはない。一見仲の良さそうに見える幼馴染み、また彼女の両親とウチの両親共にもなにか引け目を感じなければならなかった何かが。
「……負い目、っていうもんでもないんだ。どっちかというとむしろ覚えていて欲しかった……そういう類い」
「なんだか判然としないというか……もう少し考えてみるか」
央の方の記憶違いという可能性はないのだろうか。それにしても央の方から積極的に教えてくれないということはどういった意味を持つのか。俺が自主的に思い出す事が重要って事なのか?
「正直に言って、これ以上俺の記憶に頼っても無駄ってもんだろうなあ……本当に、何があったのか、それとも特筆すべきことが無かったから覚えてなかったのか、全く確証が持てないんだから。そもそも俺は記憶力に自信がある方じゃないしなあ、あは、は……」
おどけてそう言うと、央はたいそう不機嫌な形相におなりあそばした。……普段は美しいとしか言いようのない、少しツリがちの眦がさらにつり上がって……言いようのない凄味を感じる。
「なにか間違ったことを……いや、何でも無い。真面目な話をしてるのに悪かった」
ついつい重い空気に耐えきれなくなっておどけてしまうが……もうそれが許される雰囲気じゃないな。自重しよう。
「じゃあ大きなヒントね。紘輝の身体に、何か大きな痕が残ってない?」
「痕!?」
それなら確かに存在する。風呂に入るたびに目にすることになるから、気にせずとも嫌でも認識はしている。自分の身体にある痕。背中側、肩胛骨の下辺りから脇腹の前辺りまでに、裂け目が塞がったような大きなものが一つ。
「しかしこれ、かなり古いもんだって話なんだよな……それこそ、キャンプに行ったころよりもっと昔の。コレについてオヤジに訊いてみたら、俺が物心つく前の話だから覚えてなくて当然だって」
キャンプはおおよそ八年前、ちょうど小学校二年生の夏休みの話だから……それより前にこれだけ大きな痕が付くような怪我というと、その年齢の体力から鑑みて、一歩間違えば……いや、一歩間違えずとも確実に命の危険性を脅かされるようなものなのでは!?そう考えると、一体俺の身に何が起こったのか、背筋が寒くなってきた。
「それが間違いなく事件の痕跡よ。文字通りの、ね」
どういうことだ……と訪ねようと口を動かそうとした瞬間、央はおもむろにスツールから立ち上がり、タイトなミニスカートに浮き出る絶妙なヒップラインを見せつけながらカウンターの中に入っていった。それが話を一端遮る意思表示だと気がついたから、俺もそれ以上急くことはしない。さて央が何をするのかと見てみれば、慣れた手つきでコーヒーサイフォンを準備し、てきぱきとコーヒーを淹れるのだった。
親父さんに代わってバリスタを務めることもあるだけに、その手際の良さは本職を上回るまでは行かなくとも、決して見劣りはしない。なぜそんなことが言い切れるのかと言えば……俺も親父さんの手並みを見慣れるくらい『エスポワール』に入り浸っているからだ。……もちろん看板娘目当てに。それまで大人連中に混じって仕事をして、手の届かなくなってしまいそうだった央が、実家でアルバイトをしてくれるっていうのは、俺にとってどれだけ安堵の材料となったか。
看板娘として不特定多数の眼差しに晒されるのではないか、という不安要素はあったものの、大人連中が何をしているのか判らない仕事をされるよりは余程マシだからな……我ながら勝手極まる理屈だが、それくらいの焦燥感が以前には有ったと云うことだ。
山城のおじさんにとっても、この『エスポワール』は特別な意味を持つ。それまで結構な大企業のエリートサラリーマンとして仕事一筋に生きてきたが、結婚したのち割と時間が経ってから待望の娘が産まれ、娘可愛さのあまり自分に残された時間と娘と一緒に居られる時間を天秤に掛けた挙げ句、思い切りよく脱サラして、知識と興味のあったコーヒーメインの喫茶店を構えることにした……という次第なんだそうだ。仕事一筋の人生の最中、娘に恵まれ、自分の新たな希望となったことから、屋号はフランス語で『希望』を意味する『エスポワール』と名付けたとか。それにしても、よくその脱サラにおばさんが賛同したものだと思ったが、央に因ればもともと仕事中毒の夫の先行きを案じていたようで、むしろ賛同していたと聞いた。つまりこの『エスポワール』は、山城家全員の希望を体現した店であるとも言える。
程なくして、広いとはお世辞にも云えない店内に、芳醇としか例えようのない、心の奥底まで届きそうな良い香りが満ち、俺の前に一杯のコーヒーが差し出された。この香りももはや俺の日常の一部となり、俺という人間の中に溶け込んでいると言って過言ではない。
「エスポワール特性ブレンドか……いつも良い香りだ」
「お客さぁ~ん、これはマンデリンなんですけど。風邪でも引いて鼻が悪いんじゃなければ、余計なことは言わない方が身のためッスよ」
ぐっ……そんな目で見ないでくれ。たまには常連さん気分を味わいたかっただけなんだ。親父さんの話に依れば、央は匂いだけでコーヒーの種類が判るという……エスポワールで取り扱ってある、さらに単一銘柄の豆で淹れたコーヒー限定らしいけどそれでもすごいや……ってメニューに目をやると、八種類のおすすめオリジナルブレンドを選択肢から除外したら、マンデリンかトラジャしか残らないじゃねーか!ここは喫茶店だしコーヒーにもこだわりが強いが、偉ぶったコーヒー専門店ってわけでもないから、メニューとしては妥当な範囲なのだろうか……
「紘輝、貴方のその背中の痕は……私が付けたも同じようなものだわ」
央は、一息ついたあと、さっきイヤミを言ってくれたのとは全く違った……真面目極まりない口調で語り出した。
「やっぱりか……そうじゃないかと思ってたんだ、消去法の問題で」
多分、俺の方にも真相を知ることに少しだけ気恥ずかしさと動揺があるようだ。自分の知らない記憶なのだから仕方ないと言い訳させてもらおう。そのためにコーヒーを淹れてくれたのだろうから。気を落ち着かせるために優雅に味わいたいところだが……一端話の方が気になり出すと、今度は味の方に集中できない。美味いに決まってはいるのだが、やや後ろめたそうな央の貌が気になる。ま、端的に言ってしまえば、央ぐらいの可愛い子ならどんな貌をしていても似合うのだが。たとえ梅干しの酸っぱさにひょっとこのお面もかくやというほど悶絶していても……流石にそれは微妙か。
「あのキャンプの夕食後、まあお約束なことに肝試しをしようって話になったのよ」
確かに想定の範囲内のイベントではある。特に子供ならば大好きそうだ。それに、肝試しのスリルそのものよりも、肝試しを体験するという方が本当の意味合いかも知れないし。
「でもキャンプ場は承知の通り薄暗くて、丁度近くにおあつらえ向きの神社があったからそれはいいとして、準備もしていなかったから照明も最小限。でもまさか、大人が付き添っているのに何かが起きるなんて、誰かが想像すると思う?」
……央、これってその……背筋が寒くなりそうな、いわゆるユーレイ的な方向に話が進んでいってやしませんかね……?霊魂の存在を頭ごなしに否定するつもりはないけど、自分の身に降りかかったなんてのは後で聞いた話だって御免被りますぜ。
俺の顔色が青ざめているのに気がついたのか、央はくつくつとわき上がる笑いをこらえていた。しばらくそのままで、ようやく吹き出さないようにして呼吸を整えると、そのツリがちの眦に溜まった涙を、これまた優雅なラインを描く指先でぬぐい去った。
「大丈夫大丈夫、そういう怪談話的なものじゃないから。それとも……紘輝はこの話を思い出した上で、私に気を遣ってくれてるからそういうおどけた感じに振る舞っていてくれてるの?」
「ハハッ、俺がそんな気遣いの出来る男に見えるか?」
「ぜーんぜん」
即答された!
「でも嬉しいよ。少し気が楽になっちゃった。……問題はここからね。ま、私は紘輝が知ってるようにこんな性格だから……予定されたコースをずんずん外れて、あらぬ方向へと行っちゃったわけ。本当ならお父さんとか紘輝のおじさまとかもコース周辺に潜んで、密かに見張ってくれているはずだったんだけど、私はそのコースを外れて、紘輝の手を引っ張ったまま本当に危険な方へ行っちゃったみたいなの」
整った口元に浮かぶ後悔。ともすれば見逃しそうになるそれは、非常に小さい変化だが、共に過ごした時間が長かった俺には手に取るように、自信を持って判別できる。さっきのコーヒーの香りのような俄仕込みの知識とは大違いだ。ひょっとすると、俺と央の共通の財産って、直接的にどの期間の間一緒にいたという記憶じゃなくて、こういった事細かなやりとりにこそその真価があるのかも知れない。
「キャンプ場は本来開けたところにあるハズなんだけど、そこから離れちゃって、ちょっとした崖みたいなところにまで脚を踏み込んじゃってたみたいでね……」
そこで央はふと目を閉じた。最初から全てを打ち明けてくれている腹づもりの筈なのに、そこから先を口に出すことは極めて難しいもののようだった。しかし……
「そこで二人して脚を踏み外して岩場へ落ちたらしく……紘輝が下敷きになって衝撃を吸収してくれたのか、私はかすり傷と青あざを作る程度で済んだんだけど……」
……おおっと、ここまで聞いても全く記憶が無いからなのか、ほとんど人ごとのように聞こえるぞ。キャンプに行った記憶はあるのにその結末は記憶にない。半分以上他人の記憶任せじゃあ、確かに人ごとにしか聞こえないだろうが。
「俺は大怪我だった、と」
「うん……」
すっかり神妙な面持ちの央は、これ以上は俺の顔を見て話すには辛すぎると思ったのだろう、誰も居ないカウンターの奥、厨房を見据えた。央の話が本当だとしたら、確かに自分のせいだと言っているのだから辛いだろう。でもそれを咎めるつもりは無かった。
「そのとき、私は取り乱しちゃって……紘輝が死んじゃうってずーっと叫んでたらしいわ。こればっかりは自分でも覚えてないんだけど……それでも、肝試しのコースから離れたとはいっても所詮は子供の脚だから、お父さん達の居た場所からはそう離れてなかったみたい。だから手遅れにならないうちに救急車で運ばれて……」
私は自分の身勝手さに呆れ、後悔したんだ、ほんとだよ。
そう言って振り向いた央は……
大きな瞳にも、長い上下の睫にも、透明な雫が溢れかえりどんどん零れ落ちてゆく。
そういえば、央が本気で泣いているのを見るのは初めてだったか。長い付き合いだと思ったけど、まだまだ観たことのないものは沢山あるんだな。でも、綺麗だからちょっとトクをした気分であるのもまた確か、か。
その当りからだろうか、俺の記憶がかすかに蘇りつつあったのは。央の真摯な涙を目の当たりにしたからなのだろうか。そうだとしたら随分と恩着せがましい記憶である。
「子供だったからっていう言い訳はしたくない。だって……最初っからみんなの言うことに素直に従っていれば、あんなことには絶対にならなかったんだから」
思い出してきたぞ。
月の出て明るいはずの夜空も木陰に遮られて薄暗い、鬱蒼とした細道。その中を木々をかき分け小走りに突き抜ける二人の小さな影。一人は懐中電灯の明かりを頼りにもう一人の手を引き駆ける。先を行くのはもちろん央で、手を引かれているのは俺だ。あの時は央の方が少しだけ背が高かった。幼馴染みと言っても半年ほど俺の方が誕生日が遅かったこともあって、積極的にお姉さんぶってたんだよな。お互い一人っ子だから、お互いに姉弟のように思っていて少しだけ嬉しかった覚えもある。だからこのときも、お姉ちゃんに素直に従う、弟を演じて心地よさを味わっていた様な気もする。
その内に央が木の根っこに躓いて転び、懐中電灯を手から落として壊してしまう。人間の灯りに対する信頼というものは、それを用いることにより動物と人間との差を明確にしたという自負もあるからか、非常に大きいものがある。しかし、いざそれを失ってみると……自然界の中では子供二人なんて、本当に取るに足らないちっぽけな存在に舞い戻ってしまうのもまた確かで、二人してそこら辺の草場にへたり込んでしまった。……と言ったものの、ここは弱肉強食という自然の掟が支配するジャングルでもサバンナでもない、単なる人の手の入ったキャンプ場の周辺なのだが……
やがて散々歩き回った挙げ句、近くで親たちの俺等を呼ぶ声が聞こえた。これで助かった……と思ったのも束の間、声の聞こえた方へ掛けていこうと思った瞬間……両足から重力が消えた。あっと思ったときには二転三転、気がついたときには体中が痛くて……例の痕は、どこがどうなったものか、傷を負った直接の原因は判らない。でも痕はその直後は痛くも痒くもなく……感覚という感覚が一切消失していた。それが確認するのも恐ろしいほどの状態の証拠だと悟るのは大人も子供も一緒なのか、俺は絶対に痕を見ることもしなかった……それに、怪我がどんなに酷いかは、傍らに居る央の取り乱し様から判ってしまったから。
やがて意識を失って……そこからは本当に何も覚えていない。人間が生命維持機能をフルに働かせるとき、脳が必要のないファクターを一切遮断してそのリソースを生命維持に回すと聞いたことがあるが、多分俺の意識と記憶もその類いだったのだろう。ま、折角治療してもらっているときに泣き叫ばれても身体の方が面倒だと思ったに違いない。それも麻酔が効くまでの一瞬だろうが……
「それから……面会謝絶になって、私は後悔に後悔を重ねた……けど、紘輝をこんな目に遭わせたのが自分だと言い出すのが怖くて仕方が無かった……折角両親同士仲が良かったのに、その仲がこじれて疎遠になってしまうかも知れない……自分が怒られるのももちろん怖かった……でも紘輝に責任が行くのだけは止めようと思ったのに……卑怯だよね、私。結局自分が可愛いばっかりに」
「央……」
押し出されるように紡がれる央の言葉を信じるなら、おそらく央が一番言いたかった、打ち明けたい想いだったのだろう。
「でも、意識を失ったり取り戻したりする紘輝は、うわごとのように『僕が悪かったから、央おねえちゃんを責めないで、おねえちゃんはわるくないよ』って繰り返し言って……」
その話を聞いている俺はというと……正直なところ、幼い自分がそんな殊勝なことを言うものかどうか確信が持てなかったが、こうして全てを吐露している風に見える央が嘘をつくとは思えない。当時の俺はどれだけ央という存在を得難く思っていたのだろうかという、思いの丈であるとも言える。
「結局、私も本当は自分が悪かったってその後に言い出したけど、なんやかんやでうやむやになって、結局二人の責任ってことになっちゃったみたい……子供の言うことがどれだけ信憑性に足るなんて判らないからね。それにお互いの両親もどっちが悪いと言い出すこともなく……お互いに安全確認不足だったと手打ちにして……問題は紘輝が怪我から回復したときにどうするか、だったけど、紘輝はそのことをさっぱり忘れていた。自分がどうして入院してたのかも忘れちゃってたみたいだし、それを聞こうともしなかった。だから私も……それに従った。いつか紘輝がその話に触れるときが来るんじゃないのか、そのときに私は、命の恩人ってだけじゃなくて責任まで被ってくれた人に対してどうすればいいのか、密かに悩みながら……」
……そうだ、キャンプ一日目から十月辺りまで記憶がすっぱり抜け落ちている理由がこれでわかったかも知れない。つまり俺も、幼い頭ならではの柔軟性で、それについては触れない方がいいと本能的に悟って、記憶から一時的に除外しようと思ったのだろう。人の記憶というものは、今俺が央の涙によって記憶を取り戻したようにある意味では強固、しかし且つ都合が良いように改竄もされ易い。結果的に家族ぐるみの付き合いが未だに続いているし、俺もこうして後遺症らしい後遺症が出ることもなく生きている。痕は残っちゃあいるが、なあにこの程度、大好きだった人の身代わりになったと思えば……全てが結果オーライ的な発想に因るものではあるが。
「おねえちゃんの身代わり、か」
ふとそう口に漏らしてしまってから気がついた。央にとって、俺を弟扱いしていた過去は、どちらかというと忘れたい方だったってことを。若気の……ならぬ幼気の至りだったとしても、特に根拠も無くお姉さんぶっていたのは恥ずかしいことだったらしい。
「その……ほら、昔そう呼んでたのを思い出しちゃって……ははは」
だからてっきり殴られるかと思ったら、央はそれはもう恥ずかしそうにアルミ製のトレーで口元を隠していた。その整った顔じゅうを桃色に染め、潤んだ瞳でちらちらとこちらの顔色を窺う姿は……央に惚れている自分でも、久々に惚れ直してしまうほどの可憐さだった。
「なんか……その呼び方、ちょーなつかしーんですけど」
「俺もちょっと照れくせえ」
俺まで意識しだしてしまったらキリが無い。二人してしばらく無言で目配せしあったあと、その沈黙に耐えきれなかったのは俺の方だった。
「なんか、こんなの俺たちのガラじゃねえよな。恩人だどうとか、ってさ」
「紘輝は本当に……何とも思ってない?」
「もう済んだことさぁ。家族間も……まあ親同士の含みは多少あるかも知れないけど、それによって今すぐ俺と央の仲がどうなるって程度でもないし、そういうものを殊更言いふらさずに胸にしまっておいた方が、男としてカッコイイだろ?」
「あはは、そう思ってても黙ってないで口に出しちゃうのが紘輝だよね」
さっきの恥じらい顔はどこへやら、いつもと同じように楽しそうに破顔する。この笑顔を護ることが出来た。俺にとってそれ以上の大事などあり得ない。そう思った瞬間、昔からの募り募った想いが、胸の奥から突き出されるように上に登ってきた。
「なにより……」
ごくり。
自分としては、きっちり気持ちを整理するつもりで唾を嚥下したつもりなのだが、思いがけなく言葉が止まってしまった。一言で完結に言い表わすつもりだったし、その心意気もあったが……でも言わなきゃ。きっと、態度をハッキリしないと……いずれ央は俺の元から消えてしまう。きちんと形に、言葉にしなければダメなのだ。女とはそういうものだそうだし、特に央は本来なら俺の考え得るスケールに収まるような人間じゃない。幼い頃から憧れ続け、一端は距離が遠くなった気がして……そして今は俺の目の前に居る央。今が最後のチャンスだ。そう思うと、再び一気に心が楽になった。
「大切な……央が無事ならそれでいいから」
今度ははっきり言えた。一度すっきりしてしまうと、そのあとの言葉もすんなり喉の奥から運ばれてきた。
「俺の大好きな央が無事なら」
……一体自分はどんな表情で想いを伝えているのだろうか。自分としては精一杯真面目な……それこそ、生まれて初めての伝える感情に相応しい、真摯な顔つきであって欲しいのだが……自信はない。ひょっとすると頬が引きつっているかも。ないない尽くし、自信も金もコネもおつむの出来も運動神経も性格も将来性もないない尽くしの俺だが、唯一あるものと言えば……。今この瞬間のような、募り尽くした央への想いだけ。それだけは……誰にも確認出来ない、姿形の無いものだが、それだけは誰にも負けるつもりはなかった。
「……紘輝」
ふと気がつくと、なんで俺は告白までしちまっているのだろうか。いくら何でも勢いに任せすぎというか、もし断られたらこの先どうやって央と顔をつきあわせればいいのか判らないっていうのに……しかし、自分の記憶を取り戻した安堵から、そのときの央の姿から、ついつい愛しさが募ってきたというか……でもだからといって……ああああ!こういうのは冷静になったら負けだと判っていても、ふと冷水を浴びたかのように、頭の芯の方まで冷気が貫通していく。胸の動悸と共に、悪い方向への予感が膨れあがっていくのも止められなかった。
恐る恐る央の顔を見上げると……
「紘輝……私……嬉しっ」
口元を抑えて、なにかをこみ上げながら、歓喜なのか何なのか判らないが身体を小刻みに震わせている。でも……そのセリフから、俺の一世一代の大バクチは成功したと知れた。……ははは、なんとかなるもんだな。個人的には難事業に挑戦し、成し遂げたつもりだが、二人には元々他の人間を選ぶなどという選択肢は存在しなかったのかもしれない……などと自惚れるのは止めておこう。
「それ、幼馴染みから先に進んで良い、付き合って良いって意味で捉えてオーケーなのか?」
「うん……」
そこまで聞いて、ようやく俺の緊張が解れた。これで俺の勘違いだとかそういう類いのものではないと自覚できたからだ。思わずぶはーっと息を吐いた。胸の動悸はむしろ心地よい方へと運びつつある。
「だってずーっと待ってたんだよ、その言葉」
「ずーっとって……?」
央は視線を少しだけ外して考えるような素振りをみせ……
「十六年くらい」
「産まれたときからっ!?俺のことどんだけ好きだったの!?」
なんというか……オドロキの連続だし、モデルをやっていて大人っぽかった央が常に俺の先を進んでいて、もっともっと大人たちとの付き合いがあって、そういう奴に惹かれててもおかしくないと思っていた。それを打ち明けると、
「確かに年上の業界のお兄さんに会って、ちょっと今までとは違う大人の人だな……って感じたことはあるけど、それは単に年上への憧れの域を出ないって判ってたから、勘違いしないようにって自分に言い聞かせてたの」
央がしっかりとした自覚を持っている子で助かった……これがもう少しノリの軽い子だったらどうなっていたか分ったもんじゃない。
「どうして私が勘違いしなかったかわかる?」
涙は流れ終り、しかし未だ赤い瞳で洟をすすりながら、央は悪戯っぽく片眼を閉じながら聞いた。
「なんだろうな……モデルの仕事をしてたから、自然に男を見る目が養われたとか?」
「ちがいまーす」
「じゃあ……家庭環境からとか?親父さんが実は女殺しの名人で、しょっちゅうおばさんが泣かされていたから、その反面教師として見つめるうちに」
「ちょっとぉ、『あの』私のお父さんがそんな人だったように見えるぅ!?」
もちろん見えない。親父さんは、年を取ったらこうありたしというくらいのナイスミドルで、好々爺……と表現したら失礼かも知れないが、笑ったときの顔のシワなど、親父さんが歩んできた人生の深さがそのまま刻み込まれているようで、何より味わい深かった。
「降参だ。正解は?」
諦めて、文字通りのお手上げ。それを見て、央は再び恥じらうような姿を見せたあげく……
「大好きすぎる人が居たからに決まってるじゃん」
と上目遣いで、早口に。
うわぁ、またとてつもなく可愛い姿を見せてくれるなぁ……現在央が着ている制服の大人っぽさと、可憐な……その……俺の彼女とのギャップがありすぎて、頭がクラクラしてどうにかなりそうだった。
……それにしても、どうして央はここまで俺を好いていてくれるのだろうか。幼馴染みが自分を好いてくれているというのは、ある種の王道ではあるが、いざ自分の身になってみると、その心当たりがなさ過ぎて情けなくなってくるのもまた確かで……
「その……さ、ちょっと情けないことを聞くようだけど、俺のどこが好きなわけ?やっぱり……怪我のことを」
「ストップ。それを言いふらされなかったのが原因なのか、なんて言ったら怒るからね!」
俺の口を手で塞いで止められてしまった。ならば何が原因だというのだね。確かに俺には央を好きになった切っ掛けらしい切っ掛けはない、強いて言うなら、それまで積み重ねてきた気の置けない彼女の性格と、日に日に美しくなってゆく央の姿の虜となったと言えなくもないが、女の方もそうであるとは限るまいし、人を好きになる切っ掛けが全てドラマチックである必要もないだろう。むしろそちらの方がレアケースではないのか。
「気がついてたら好きになってた……かな。最初は幼馴染みで、居るのが当たり前みたいになってたけど……なんか何でも話せる間柄っていうか、大人の人とお仕事をしてると、色々気が詰まるようなこともあるけど、紘輝と話してたらなんだか落ち着いて……昔っからムチャしがちな私をそれとなく抑えてくれてもいたのを思い出したりして……それを認識した瞬間、これがその……恋ってもんなんじゃあないのかと、えへへ」
また可愛く笑って誤魔化そうとしやがって。可愛すぎるから誤魔化されざるを得ないけどね。俺としてはその理由で十分だ。こんなないない尽くしの俺でも彼女の役に立っているというささやかな自信が、また才色兼備の、ほぼ隙のない人間だと思っていた央が、他ならぬ俺を好きだと言ってくれたその身体中に満ちあふれる自信が、なんだかとても心強かった。
「央……」
「えへ、なんか改まって向き合うと、すごく恥ずかしくなってくるよね」
少し身体をくねらせ、はにかむ央の魅力に、小さい頃から募らせてきた感情が抑えきれなくなってきた。只でさえ今の央は……相当刺激的な服装をしているところだったのだ。その気が無くてもその気になってしまう……これは罪作りな感情だろうか、それともそれくらいは仕方が無いといってくれるだろうか……即物的だと罵られればその通りでしかないのだが……ともかく、俺は柄にもなく照れまくる央に一歩、近づく。
「紘輝?」
「……ごめん、なんか今俺、すごく舞い上がっちゃって……だって、こうして央と両思いになったってのも信じられないのに」
手を伸ばす。央はなにやら不穏な空気を感じ取ったのか、きゅ、と瞳を閉じた……が、もちろん俺がやりたかったことは彼女が僅かに想像したようなものじゃない。
「あ……」
俺の手が頬に触れるのを感じ取ったからか、央は少し予想が裏切られたと見え、薄く瞳を開け……そして再び、今度はそっと目を閉じる。俺の手に自分の手を添えて、むしろ軽く押しつけるように。俺の感触を確かめるように。
「紘輝の手、大きくてあったかいんだぁ」
「手の温かい人間は心が冷たいって言うぞ」
「ああ、道理で」
「納得しちゃうのかよ」
「嘘に決まってるでしょ」
こういうふざけたやりとりも、改めて……その……恋人同士……言葉にするとめっちゃ照れるな……になってからすると、心地が良いモンだな。端から見ると完全にバカップル間違いなしなのがちょいと玉に瑕だが……それも恋する男女にとっては勲章みたいなものか。
そして見つめ合う。俺の瞳に映る央と、央の瞳に映る俺は、果たして自らが自らを省みるのとどの程度同じでどの程度違うものなのかは判らない。でも、これから徐々にわかり合ってゆくんだ。すれ違いもあるだろうし意気投合することもあるだろう。でもそれによってお互いがお互いを学び、成長して……それが……人と付き合うってことなんだろうから。
不意に、央が瞳を閉じたまま頤を上げた。この意味がわからんほどウブじゃないし、誤魔化すこともしない。恋人同士になったその直後ではあるが、ずーっとそういう関係になることを夢見て居たのだから。それに今機会を逃しては、いつ誰に奪われてしまうとも知れない。そうなる前に……央の存在を俺で塗り潰してやる。独占欲の強い男と思われても、そんなもんどうでもいい。ただ俺は央のために。
央の肩に手を掛ける。幼い頃は少しだけ央の方が高かったという印象の背丈は、いつの間にか俺が追い越していた。モデルさんをやっているだけあって央も結構背がある方だけど、幸いなことに俺の方がもう少しだけ高い。そんなことでも、幼馴染みだった二人が恋仲になるほど成長したことを実感した。
いつの間にか夕暮れ時というのに、客一人来店しない、流行らない喫茶店内で、二つの長い影が一つに重なった。
いけねぇ、この『エスポワール』を流行らせる算段、ちーっとも捗ってなかったわ。ま、これから央と二人で考えていけばいいや……
重なって一つになった影が再び二つに分かれ、俺と央の唇が乾きかけた頃、店内に闖入者が……って、それが顔中を涙で濡らした央の親父さんだと知れた時は驚いたなぁ。激しい嗚咽でなにを言っているのか判然としなかったけど、断片的なのをつなぎ合わせると……紘輝くん、ふつつか者ですがよしなに……とか、もう後継者には困らない、とか、幸せに、とか……要するに、ここまでの一部始終を聞かれていたって事だ……気を利かせて俺と央の二人きりにしてくれたはいいが、仲が進展しすぎて帰ってくるタイミングが掴めなかったらしい。ま、それはそれでいいんじゃないかな、もう。
央は、とみると、まるで人ごとのように笑っていた。
誤魔化しも含めて照れてるんだろうなあ。
で。
俺と央が両思いになってからしばらく……今までの、非恋人状態での付き合いが長すぎたせいか、今更恋人同士らしい何かをするまでもなく一週間が過ぎてしまっていた。こういうのはあんまり褒められたもんじゃないと思うんだけど、央と想いが通じ合えたら良いなと普段から願っていたにも関わらず、いざ本当に願いが叶ったら叶ったで、特別それらしいことをしてみたいということも考えつかなかった。
そこで何とか、ムリヤリ、とでも言おうか、『それっぽい』事として、とりあえず男子の一種の憧れであろう、お弁当を作ってもらうことになった。本人は割と本気で面倒くさがっていたが(これが恋人に成り立ての彼女の振る舞いだろうか)、とにかく一回だけということでワガママを聞いてもらえることになった。
お弁当……母親がこさえたお弁当、自分で侘びしくも慎ましくこさえたお弁当、美味いことは美味いがどこか心境的に複雑なコンビニ弁当……世の中に弁当と名の付くものは数あれど、『恋人が作ってくれたお弁当』に優る品などこの世には存在しないわけで……異論は認める。央の料理の腕は、発想こそアレだが腕そのものはごく普通だ。卵焼きを作っても黒焦げとか、塩と砂糖を間違って入れてしまうというお約束を心配する必要もない。別に何から何まで健康に配慮し、天然食材を全手作りでやって欲しいなんて事も言わない。ただ冷凍品を解凍するか昼飯の時間に丁度自然解凍するころを見計らって、弁当箱に詰めるだけで良い。それだけで、個人専用の手作り弁当というとてつもない付加価値の逸品がこの世に生み出されるのだ。まさしく料理は愛情!……料理と呼べるほどの料理じゃないというのは置いといて。
さて、今日はその出来映えを堪能する日である。
他人に冷やかされぬように、また他人の余計な視線で弁当の愛情成分が薄まらぬよう、予め校庭のすみっこの方に良かろう場所を見繕っておいて、当日は何かしら理由を付けて教室を抜け出そうと画策していたのだが、今日は生憎の天気で、帰宅部である俺には部室で食うアテもなければ、便所飯なんてものをする気も無い。結局いつも顔を突っつき合わせてる男友達連中と弁当を広げることにした。
まさかその央が桜でんぶでハートマークなどと言うわかりやすい愛妻……ならぬ愛情弁当を投入してくるわけもないだろうから、こちらが何も言わなければ至極普通の、おふくろが作ってくれたいつもの弁当を広げているとしか思われず特別関心を引かないという公算が高い。ちなみに央とは別のクラスである。
登校する前、央がわざわざ家にまで来て、無言で弁当の入っている巾着を突きだしてきたときの、ちょっとぶっきらぼうな仕草を考えると……また頬が緩んできてしまいそうになるがぐっとこらえる。
鞄から弁当の入った巾着を取り出す。弁当を取り出してみれば包みは普通の……緑地に白の唐草模様という、普通を通り越して今やギャグの域に達している風呂敷の包み。これが目に飛び込んできたときは時は少しだけ嫌な気分がしたが、中身はそう悪くもあるまい……と達観……楽観……して、いそいそと包みを解く。
中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!
中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!
中から姿を顕わしたのは……普通の、アルミに似た質感の、確かアルマイト製って言うんだったかな、弁当箱。安堵してその蓋を開けると、じゃじゃーん!
嫌がらせかっ!弁当箱の中に弁当箱が入ってる!
外の弁当箱に収まるように、微妙に内側の箱が小さくなっていってる。ロシアの民芸品・マトリョーシカもビックリだ。これが可能なサイズの弁当箱を選別するだけで一苦労するんじゃないか? この嫌がらせを成立させるための弁当箱選別には労力を厭わない。……どこか労力のかけ方が間違っとりゃせんか。
とはいったものの、四枚目で飽きたのか労力が尽きたのか、箱の上に
『いい加減飽きたし面倒くさくなったので、もうやめにします』
という書き置きが……両方だったか。さてその言葉を信じて、いよいよご開帳。嗚呼此の感動たるや、筆舌に尽くしがたい。さて!どんな弁当だ!?
「うわあ」
自分でも全く情けない声しか出せない。だいたい他にどのような感嘆を示せというのか。 ……弁当日の丸だった。
日の丸弁当ではない。
弁当日の丸だった。
赤い梅干しが弁当箱一面に敷き詰められた上に、申し訳程度の白い米粒が何粒か乗っている。日の丸弁当の逆だから弁当日の丸、もうあの文化祭の喫茶店のメニューのノリである。しかもただ米粒が乗っかっているのではない。ご丁寧に、米の一粒一粒でそれらしくハートマークが象ってあった。
俺のうめき声とも付かぬ声を不審がった男友達は、弁当の中身を見て絶句するやら腹を抱えて笑い出すやら、でもハートマークのデコレーションだけに、誰が見ても近しい関係の女子が差し入れてくれた弁当以外の何物でも無いのだ。それからしばらく、教室内は、罪人をさらし者にする京の三条河原にも等しい場と化した。彼女の怒りに触れ、尻に敷かれた駄目男としてさらし首に会っているのはもちろん俺である。
もう二度と央に弁当作りを無理強いしないと心に決めた、幼馴染みと恋人になったばかりの昼下がりは過ぎてゆく。これからの俺は……前途多難なのか順風満帆なのか、それは神のみぞ知る、のか?
ふと教室の入口を見れば、央がニヤニヤした、腹立たしいくらい『してやったり』という顔でこちらを覗いていて……俺と目が合うと、満足そうにその場を離れる。
俺はとりあえずその後を追う気にもならず、後で央にどう抗議をしたら良いものかを検討しつつ、膨大な梅干しをどう処理するかを最優先に考えながら、乾くであろう喉を潤すための飲み物を購入しに、喧噪に包まれたままの教室を逃げ出すのだった。
ほんと、俺はしょっぱい野郎である。
-了-
おそらくほとんどの方は初めまして、サトシアキラと申します。
少し前まで『サトシアキラの俺小説!ページ』という身も蓋も無いタイトルの小説サイトを運営していましたが、近頃はモチベーションも尽きて全く創作が捗らない状況でした。
しかしそんな折り、C89に於いて、懇意にさせて戴いている方が主催されているサークルの『ブロガーズユニオン17』という冊子に寄稿させて戴く機会があったので、久しぶりに産みの苦しみやら創作の楽しみやら、色々味わった結果、この作品を送り出すことが出来ました。
自サイトでの掲載も考えているのですが、この『なろう』も作品を公開して多人数の目に触れるという部分は同じだと思ったので、バックアップの意味も込めてまずこちらに投稿することにします。リハビリ作品と言ってはなんですが、この二人のちょいと初心で不器用で、しかしつながりの深さを味わい、心が暖かくなっていただけたら幸いです。