4日後
十何年か前まで、ジェフリー・デュマガリエフは小説家を目指す大志ある青年だった。
しかし、彼の才能は開花せず、とある証券会社に勤めることとなった。多忙の中、彼の心は荒み、一時期は体重が10kgも減り、骨と皮だけで動く操り人形のようになっていた。
彼はとうとう身体を壊し、職を離れた。退院してすぐ、彼は街から出てよく釣りに行く湖に向かった。湖に着くと、濡れた静けさの中で、その情景の美しさに気づいた。
森が紅色と深緑に染まり、波紋一つない水面が山脈を写し出す。彼は無我夢中に、そして一心不乱にメモ用紙を取り出し、文字を連ねた。
ふたつの目が捉えるその景色を、メモ用紙に何百という言葉で表現していく。彼は言葉に魅了されていた。
「美しい。しかし、私に小説は向いていない。もう何も、筋書きが思いつかない」
インクの切れたペンを落とし、茫然と立ち尽くす。才能の限界、努力の限界。彼はそれを肌と頭で感じていた。
その時、誰かがペンを拾って彼に手渡した。
「あなたは」
「私が君の声となろう」
噛み合っていない会話。それがジェフリーとダーマーの出会いだった。
ダーマーは湖の近くに別荘を有していて、そこで趣味の小説に耽っていた。彼はジェフリーを別荘に招待し、今迄のことを話し込んだ。
「それで、なぜダーマーさんは私のゴーストライターをしようと考えられているのですか」
見ず知らずの男と危ない賭けに出るかもしれないジェフリーは、やはり一抹の不安を隠せないといった表情だ。
「あぁ、ここに来て君の顔は幾らかましになった。コーヒーのおかげかね」
相変わらず会話が噛み合わない。いや、この白髪の老人は超えているのだ。一般的な人間の思考を。彼はまず伝えたいことを口に出し、後にわかること、つまり質問の答えを文末に付け加えた。
「私はここで小説を書くのが生き甲斐じゃ。生い先少ない私が小説を世間に出して、富を貪るのは些か気が引けるのでな」
「しかし、私なんかで」
「このメモを見るだけで、君が私の人生を賭けるに相応しい男だと直ぐにわかる。昔は...刑事なんて夢のあるものを目指していたんだ。だが、やはり【事件を創る】方が私の性分に合っている」
ダーマーはそう言って黒いインクでびっしりと文字が羅列された紙を取り出し、優しい微笑みを見せた。
彼等の仲は、特殊だが、運命的なものであった。しかし、ジェフリーが商業主義に走ってしまった今、ダーマーはジェフリーの中に過去の情熱を感じられなくなっていた。
......
............
ジェフリーは密会の後、家に帰るとシャワーを浴び、すぐに眠りについた。シャワーヘッドから出た水が、ぬるかったのか、熱かったのかも憶えていない。彼は自分の中で、何かが霞んでいくのがわかった。わかっていたが、それに気づかないようベッドの中に潜り、意識を微睡みの中へ落とした。
翌日、携帯の着信音が頭に鳴り響き、重い頭を起こす。身体は鉛のように硬くなっていて、ベッドから出るのも苦痛だった。
顔を歪めながら、携帯を取る。
「もしもし」
受話器の向こうからは、若々しい青年のような声が聞こえた。
「ジェフリー・デュマガリエフさんですね?」
「失礼ですが其方のお名前は」
「ルイス・スモーキンと申します。唐突で申し訳無いのですが、私はあなたがゴーストライターを雇っていることを知っています」
生唾を飲むとはこのことだろうか。ジェフリーの喉元は震え、「ついに来たか」と顔を険しくした。
「誰に聞いた」
誰に聞いた。この言葉は、他でもない、ダーマーへの疑心であった。なぜなら、この事実はジェフリーとダーマー以外知る由もないのだから。方向性の違いで言い合いになった直後だ。この念が出てくるのも仕方がない。
「いえ、401号室に盗聴器とカメラを仕掛けさせていただいたのです。私はこれをマスコミに流すつもりですが、もし自分の顔に泥を塗りたくなければ、買い取ってください。250万ドルでどうでしょう?あなたなら容易く用意できると思いますが」
破格の値段である。しかし、彼に逃げ道はなく、その取引に応じるしかなかった。もし、ゴーストライターの存在が世間に知られれば、過去の業績は水の泡となり、死ぬ迄非難を浴びせられるかもしれない。
現に、大々的にマスコミの前に姿を現すジェフリーを良しとしない輩は少なからずいた。
「わかった。それでは、ピクチャー湖の畔で取引をしよう。あまり街の中で不審な動きをすると見つかりかねない」
其の後、君のような輩がいるからね。と付け加えた。
「随分と遠いですね。まぁ、あの場所なら息抜きだと思われるかもしれないですしね。いいでしょう。一週間後の今日、1時25分にその場所で。1分でも遅れたら覚悟しておいてくださいね。それでは」
ツーツーと、機会音が鳴り、彼の声は途絶えてしまった。ジェフリーは深い溜息をしてソファに倒れこむ。
(なんということだろう。ルイス・スモーキン。聞き覚えのある名前だと思ったら)
その男は、ジェフリーがダーマーと出会う以前に書いていた「You vs the world」という小説の主人公の名前であった。勿論のことながら、彼は偽名を用いていた。
(彼は熱狂的な信者なのか、それとも、唯の皮肉か)
ゴーストライターを雇う以前に自分にファンがいたとすれば、それほど嬉しいことはない。ジェフリーは複雑な気分になりながらも、煙草を口に咥えた。
何かしていないと、気が狂ってしまうほど、頭が混乱していたのだ。
一息した後、ジェフリーは電話を取り出し、ダーマーに電話をかけた。
「もしもしダーマー、君か?」
「あぁ、信念を感じた若者が堕落していく様を見て、悲哀に満ちている私だ」
その言葉は何とも不自然で、ジェフリーに対する怒りを強く感じた。
「少し話したいことがある。と、言っても良い話じゃないんだ」
「私は君と出会った場所にいるさ。君の根性を叩き直すために、渾身の小説を書いている途中でね」
「それなら話が早い、今から行く」
ジェフリーがそう告げると、彼は少しばかり黙った後、意表を突く言葉を口にした。
「ジェフリー。君が焦っているのはよくわかる。大方、どういったことが起こったのかも察しがつく。いいか?死活問題でなければ、4日後、そう。4日後に訪れてくれ」
「なんだと」
「わかったな」
そう言うと、彼は一方的に電話を切ってしまった。死活問題と言われればそうなのかもしれないが、ジェフリーは彼の言葉を信じ、永遠のように永く感じる4日間を過ごした。
その間、ジェフリーはマスコミをシャットアウトし、取材の申し入れも全て断った。体重はかなり減り、頬も少し痩けていた。
そして4日後、ジェフリーは待ちきれんと言わんばかりに早朝からダーマーの別荘へ向かった。




