虎は千里のロードを走る
一方、少し前にゼラに逃げられた月夜である。
「はぁ、はぁ……ったく、あのネコ」
見失った、というか、最初からほとんどマトモに追跡できていなかったのだが、月夜は川にたどり着いて、諦めて足を止める。
一応、意地として追いかけてはみたものの、捕まえられる余地なんか最初からなかった。
川の水を手にすくって口をつける。澄みきって冷たい、いい水だ。
少し上流を見ると、人がよく通る道に、コンクリートの橋がかけられている。
そしてその橋へと、濃いグレーの人影が走ってきた。
「お、月夜。ええとこにおった、自分が証人や」
「しょ、証人ですか? 突然どうしましたの?」
指差された月夜は、面食らう。
「俺がこれから、阪神優勝のためにこの川に飛び込むねん。間違いなく飛び込んだ、っちゅう証人になってくれ」
「えっ、もう秋ですよ。こんな季節に飛び込まれては」
「ええねん、野球の優勝が決まるんはいつも秋や。これくらいの涼しさに負けへんわ」
「えっ、えっ、エスさん、なにを?」
話の流れが見えない月夜は戸惑うばかり。
月夜にとって、エスは毒キノコとして尊敬の対象だ。
食用キノコたちがマツタケの赤松かほりに羨望と嫉妬を向けるように、毒キノコたちは際立って強力な毒を持つキノコに敬意を払う。
月夜も、美味な食用キノコと紛らわしい姿をとって誤食させるのが日本一巧み、というツキヨタケの娘ではあるのだが、毒の強力さは一枚落ちる。
月夜は悪意を持って人に食べられようとするが、ニセクロハツのエスのような、本当に致死性の高い激烈な毒キノコは、むしろ人に食べさせないように注意を払っている。
そこがまたクールで、月夜が憧れるポイントでもある。のだが。
「神様仏様バー○様! ネバー・ネバー・ネバー・サレンダー! っしゃあああ!」
いつものクールさはどこにいったのか。脳みそが虎縞になったのか。
エスは欄干を蹴り、宙に舞う。両腕をまっすぐ伸ばし、十字架のような飛形で。
そして落下し、川面を叩き、水しぶきを盛大に跳ねる。
「……あれ、エスさん、浮いてこない。ていうか、ここ浅いんじゃ?」
あまり水量ゆたかとは思えない川を見て、月夜はエスが落ちたあたりに駆け寄る。
案の定、土砂を巻き上げた濁りの中、川底に半分埋まったエスの姿があった。
「また阪神優勝とかなんとかおっしゃってましたわね。どうしてあのクールなエスさんが、阪神タイガースが絡むとこんなことに」
目を回しているエスを救助しながら、月夜はため息をつく。
猛毒キノコの娘といえば、死の天使と呼ばれるドクツルタケのアマニタ・ヴィロサ、死の帽子の異名をとるタマゴテングタケのアマニタ・ファロイデスらが名高い。
もちろん彼女らも畏怖されてはいるが、彼女らは皆、アマニタトキシンという完成度の高い毒成分を共有し、一大派閥を作っている。
そんな数の力にまるで背を向け、この上なく小さくシンプルで強力な猛毒を、誰の真似でもなく、ひとりで作り上げたニセクロハツのエス。まさに孤高の毒キノコ。
なのに、阪神優勝を妄想して、川に飛び込んでこの有り様。なんなんだろう。
「駆逐したる……この世から巨人の白星を……一勝残らず……」
月夜に引き上げられたエスは、まだうわ言で巨人と戦っている。
月夜はため息をついてエスの様子を見るが、すぐ引き上げたおかげで、水を飲んではいないようだ。ある程度水がクッションになったか、また川底が土砂っぽくて岩がちでなかったせいか、体に怪我もない。
「はっ。俺は何やってたんや。確か阪神優勝のために道頓堀に飛び込んで……」
目を覚ましたエスは、やっと巨人ファシズムの毒気が抜けて、正気に帰った。
「エスさん。一体何がありましたの?」
「ああ……。それがやなぁ、江戸っ子の香のヤツと、巨人と阪神の喧嘩になってもて……」
エスは、時に涙ぐみながらことのあらましを語り、香と巨人の横暴を訴える。
月夜はニセクロハツへの敬意と、持ち前の律儀さでもって、エスの話にときどきうなずきながら、耳を傾けている。が。
(やばい、何言ってるかわからない……)
東京人でも関西人でもなく、ツキヨタケ中毒者の一番多い新潟が地元だと思っている月夜には、巨人・阪神戦争にも、それどころかプロ野球自体に興味がない。
「あ、あの、じゃあ、飛び込んだおかげで、最近は阪神の成績がいいんですか?」
わからないなりに、精一杯話を合わせたつもり。
「あー、うん、最近は阪神結構強なったわ。八五年に優勝してから十五年以上、どろどろに負けっぱなしやった時のこと思ぉたらな」
阪神は強くなった、といいつつ、なぜか遠い目をするエス。嬉しそうには見えない。
「せやけど、死のロードで沈没する阪神を必死で応援してた時が、一番おもろかったな……」
(うわぁ阪神ファンめんどくさい)
そう思う月夜であったが、口には出さない。彼女は律儀なのだ。




