8
§
「『好き』ねえ」
美術部の顧問教師は、そう言いながら左頬に手を添えた。すらりとした長い指と形の良い爪。教員が女である証明のようなそれらに見惚れていると、幾ばくかの沈黙の後「まず、大切なこととして」という声とともに、その指がピンと一本だけ天を向いた。
「そもそも恋愛には色々な形があるから、それを定義づけるのはとても難しいの。なんとなく感覚として好きだと思う人もいれば、自分の中である程度の理想があって、それに沿った人を好きになる人もいる。相手によって恋の仕方が違う場合もあるわ。だから、私が言うことは、あくまでも私の一つの意見として聞いてほしいの」
「はい」
「恐らくね、『好き』っていう感情には三つの種類があると思うのよ」
そう言って彼女は天に向ける指を二本増やした。
「一つは友情。傍にいて楽しいから好き、というやつね。逆に言えば、相手がいなくなると、楽しさの欠如になるもの。もう一つが恋情、いわゆる恋心。相手を想うと胸が高鳴る、とか、自分を見てほしいという気持ちを持つことが多いんじゃないかしら」
その論でいうなら、私の明良に対する気持ちは、やはり友情になるのだろう。明良と一緒にいると楽しいし、万一彼がいなくなってしまえば、私はこの学校で学ぶことすら困難になる。明良に自分を見てほしいと思うのは、彼と一緒にいなければ私の生活に影響があるからだ。恋心には――。
「最後は、愛情ね」
「あいじょう?」
「そう。恋心がある域に達すると、愛情になるのよ。自分を見てほしいという欲求が、相手はどうなんだろうっていう疑問に変化する。なにかあればその人の顔が思い浮かぶけれど、それを相手には要求しない。言ってみれば、世界の中心が自分から相手にシフトするのね」
世界の中心が自分から相手にシフトする。そんなこと、本当にあるのだろうか。まるで親が子に接するような、普遍的な愛。
「何も大げさなことじゃないのよ。相手が幸せになってほしい、とか、そういう純粋な望みが愛情。例えば好きな人と一緒に食事をすることになる。恋情の時は自分が嫌われたくないから、向こうの意見に合わせるわけ。でも、愛情に変化すると、相手が楽しくご飯が食べられるように、意見を尊重するようになるの。主観だけれど、そういうのを愛情と言うんだと思うわ」
好きな人が悪いことをしていたら、自分が嫌われてもいいから、正しい道を示す。少女漫画でもそういうシーンをよく見るし、それが愛なのだと言われれば、意外にもすんなりと私の中に納まった。なるほど、世界の中心が自分から相手にシフトする。それが愛情。
「私が思うに、この三つは明確に分かれているわけじゃないの。ベン図みたいに、所々が重なっていて、恋情にほど近い友情もあれば、友情にほど近い愛情もある。それは、自分でも気付きにくいことだってあるの」
では、私たちの間にあるものは。私は明良をどう思っているのだろう。友情なのだろうか、それともこんな風に彼を利用している状態でも、私は。
私は、明良のことを。
その疑問の答えが出る前に、この教員は私の背後に向かって声をかけた。
「○○先生、沼野さんが待っていますよ」
担任教師が私を呼び出したのは、何ということはない。推薦希望者は小論文の指導があるがいつが空いているか、という、至って事務的な伝達だった。担任と二人で時間の調整を付けている合間に、先ほどまで話していた顧問はどこかに言ってしまったらしく、気付けば隣の席は空になっていた。尻切れトンボになってしまい、お礼すら言えなかったが仕方がない。あちらも色々と忙しいのだろう。
私は担任教師と別れて、ようやっと美術室へと向かった。結構な時間が経っていて、明良と七緒ちゃんはうまくやっているか、今更ながら心配になる。二人とも相手のことを敵視している節があるし、特に明良は七緒ちゃんのことを追い出したがっている。仲良くできているかな、なんて、母親のような気持ちで美術室の古びた扉を開いた。
「……あれ?」
散らかった二人分の荷物はあるが、肝心な本人たちがいなかった。二人でどこかに行ったのだろうか。不用心だな、と思いながら、私もバッグをおろして、いつも座っている椅子に腰を掛ける。
二人が来る間に、先ほどの予定を手帳に書いてしまおうか。再びバッグを手にして――私は、今更ながら部室の異様さに気が付いた。
行動一つ一つに品がある明良と、詳しい生い立ちはわからないけれど、どことなく育ちの良さを醸し出す七緒ちゃん。この二人が荷物を散らかしたままどこかに行くなんてことがあるのだろうか。余程急を要する事態に陥ったのではないか。
そこまで想像して、私は嫌な予感に襲われた。
いてもたってもいられず、おもむろに扉の外に出る。すると、幽かだが女性の声がした。この校舎を使っている人はあまりいない。もしかして七緒ちゃんだろうか。先ほど私が登ってきた階段とは真逆の方向のそれへと足を向けて、声を辿っていく。
徐々に大きくなっていくそれは、間違いなくこの一か月の間に聞きなれた後輩のものだ。会話の相手は十中八九明良だろう。何かがあったわけでもないようで、少しだけホッとする。
けれど。
ようやく制服姿の男女を視界の端に捉えて、声をかけようとした、瞬間。
「お前に、俺の何がわかるんだ!!」
明良の、今までに聞いたことのない怒声が響いて。腕を振るう様子がちらりと視界に映る。それだけで、何が起こるか容易に予想がついた。
「七緒ちゃんっ!!」
一瞬遅れて、ドタッという鈍い音が響く。
一番古い校舎の、北側の階段。
私の目の前で、萩月七緒が突き落とされた。――他でもない、藤堂明良の手によって。