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次の日、部室に行くと明良先輩が窓際で本を読んでいた。
「こんにちは、明良先輩」
あたしが挨拶をすると、明良先輩はどんなに著名な美術家も描けないくらいの美しい笑顔で「こんにちは、萩月さん」と言った。本当、パッと見だけは真っ当な性格に見えるのに。
ここまでは普段通りの行動マニュアルだ。あたしたちは挨拶だけして、その後は無関心を貫いている。明良先輩はゆかり先輩を独占するあたしが気に入らないみたいだし、あたしだって自分を嫌ってくる人間に媚なんて売れない。いつもならそんなあたしたちの目には見えない軋轢を、ゆかり先輩が気遣ってくれるんだけど――今日は違う。
彼はあたしをちらりと見て、眉根に皺を寄せる。不快、よりも不可解といった表情。あたしはむしろそんな明良先輩の様子が不可解だったけど、少しして納得する。
「ゆかり先輩なら、先生に呼ばれているとかで遅刻だそうです」
多分、本人の口からは何も言われていなかったのだろう。間々あることだ。明良先輩も納得したように、小さくそうかと呟いて、なんてことないように再び手元の本に目を落とした。
でも、あたしにはわかる。この目の前の美しい先輩は、今、すごくイライラしている。地雷ふんじゃったかなあ。
§
腹が立つ。
俺は舌打ちしたい気持ちをどうにかこらえて、手元の本を見つめた。当然目線は上滑りし、内容なんて頭に入ってこない。それがさらに苛立ちを生み出す。
俺は、今日ゆかりが部活に遅れてくることなんて知らなかった。いつも一緒にいるのだから、いくらだって言う機会があっただろう。むしろ、教室ではゆかりが他の人間と話さないように陰から振る舞いを制限し、稀に話すことがあればしっかりと内容を把握できるように努めているのだ。俺の些細な誘導にまんまと載せられるような汚れた精神の奴らと、誰にでも平等で優しい彼女を関わらせたくなかった。だから、ゆかりについて俺が知らないことなど、何もないはずなのに……まあ、それはいい。たまには、そんなことだってあるだろう。百歩譲って今回はゆかりが言い忘れただけだとしよう。
けれど、仮に忘れていたとして、どうしてこの女は遅刻のことを知っているんだろうか。俺はゆかりにとって唯一の存在だ。ゆかりには俺しかいない。誰もゆかりの味方にはならないし、ゆかりも俺以外の人間を必要としない。そのはずだ。何か月もの期間をかけて、俺はその環境を作り出した。俺は誰よりもゆかりのことを知っているべきなのに、どうしてこの女の方が詳しいのか。
おかしい。これはおかしい。何かが俺の理想から外れている。
もしかして俺の知らないところで二人は共にいるのか。そうして互いに親睦を深めているのか。そんなこと許さない。そもそもこの女が俺たちの楽園を壊したことすら許せないというのに、どうして仲良くなることをみすみす黙認してしまったのか。この女は本来ここにいるべきではない。ここは、俺たちだけの世界だ。たった二人だけで、穏やかで平和で誰からも傷つけられないようにできている。それを崩すなんて、絶対に許されないことだ。
ゆかりに、この女は必要ない。
§
私は担任教師から言われていた通り、放課後、人が行き来を繰り返す職員室へと足を運んだ。部室のある校舎とは違ってきれいに整えられた室内は、これぞ正しく有名私立の校舎内である、といったところだろうか。使用者たちに不便がないように、細心の注意が払われているようだ。
そんなことを徒然と考えながら、私は人波を掻き分け目当ての人物への机へと向かう、が。
「○○先生? 今は席を外していらっしゃるみたいねえ」
残念ながら待ち合わせ人はおらず、たまたま居合わせた教師に問うと、いつ戻るかわからないという返事をもらう。仕方がなしに私は相手の到着を待つことになった。手持ち無沙汰で周囲をぐるりと見渡せば、不意に隣のクラスの担任と目が合う。あまり接点がないように感じているが、実は美術部の顧問でもある女性だった。
「沼野さん、もし暇なようだったら、お手伝いをお願いしてもいいかしら」
若い女の教員は、にこりと微笑みながらプリントの束を指差した。
「あら、沼野さんは進学希望なの」
パチン、とホチキスを留めながら、年若い女教師は私に言った。彼女が頼んできたのは数枚のプリントを順番に束ねるという、私でもできるような簡単な作業。自然、二人の間にはぽつぽつと雑談が交わされ、あたりさわりのない天気の如何から体調、部活の様子、授業内容へと身近な話へ移っていき、最終的には進学が話題となった。
「はい。とはいっても、付属大学か指定校推薦で決められたら、って感じなんですけれど」
「沼野さんの成績なら大丈夫だとは思うわよ。でも、意外だわ」
しみじみと、と言った様子で言われた感想を、私は疑問を露わに反復する。
「意外ですか?」
「ええ。沼野さんはてっきり、結婚するのだと思っていたから」
この学校の不可思議な制度を、まるで社会全般に流布している常識だといわんばかりの教師の様子に、私の眉根には意図せず力が入り。
「私の家は極々普通の一般家庭です。そういう、お金持ちの常識はあんまり当てはまらないと思いますよ」
……つい、嫌味っぽく言い返してしまった。
そんな私の態度に、隣のクラスの教員はカラカラと明るく笑う。厳格だとは思わなかったが、真面目そうで品のある出で立ちをした彼女のその仕草に、少しだけ度肝を抜かれた。
「そうよね。私も一般家庭に生まれて、普通の高校・大学と進学していたから、ここに初めて赴任した時はびっくりしたもの。高校卒業で結婚なんて、って」
「やっぱり、早いんですか」
「世間では晩婚化なんてメディアで騒がれているでしょう、その上教師は元々結婚が遅い人も多いから。余計にギャップを感じちゃうわね」
「じゃあ、どうして私が結婚するなんて思ったんですか」
この学校の独特な雰囲気に飲まれているっていうのもあるのかしら。そう女教師は一人ごちた後、首を振って「藤堂くんと一緒にいるから」と言う。
「彼があまりにも沼野さんと一緒にいるから。だから、なんとなく勝手に思っていたのよ。『この二人は卒業したら一緒になるんだろうな』って」
「よく見ていますね」
そう言った私に、彼女は「勿論。これでも教師よ」と自慢げに口の端を上げる。教師なら生徒の恋愛事情に興味を示さない方がいいのではないか、という常識的な判断が脳裏をよぎったけれど、それは空気を読んで飲み込んでおいた。
「でも、私たちは付き合ってすらいませんよ」
ついでにそう付け加えると、急に女性教員が瞠目した。
「あら、私たちはてっきり。
だから、美術部に新入生の萩月さんが入ってきたとき、少しだけ安心したのよ。付き合っている男女が部室で二人きり、というのは、学校側としてはあんまり歓迎すべきことじゃないから。いえ、普通の学校ならそれも許容されるのだろうけれど――この学校は、ね」
続けて、不愉快な思いをさせたらごめんなさいね、と謝罪する。
不快な思いは全くしない。ただ、彼女のこの言葉に、私は居心地の悪い感情に包まれた。一緒にいれば恋人になるのなら、この学校の人からすれば、世の中の男女ペアは全て恋人になってしまうではないか。この人は大人なのだから、友人という選択肢の存在も知っているだろう。なぜ、私たちを恋人とみなすのか。
そんな思いが思考を占領して、気付けば本来なら絶対に言わないであろうことを、私はこの大して接点もない女教師につぶやいていた。
「付き合うとかそうじゃないとか、それ以前に。私は、どういう気持ちが『好き』ってことになるのか、わかりません」
漏れた声は、自分でも驚くほどに弱弱しいものだった。