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七緒ちゃんはここから二十分弱、私は一時間ほど鉄の箱に揺られて帰宅する。いつもは二人が並んで座れるほど車内は閑散としているが、今日に限って何故か混み合っていた。仕方なく二人で吊革につかまる。揺れる電車、無言で並ぶ私たち。車内は夕日が差し込んでいて、彼女の横顔をオレンジ色に染めていた。恐らく、私も同じようになっているのだろう。
「……そういえば」
突然、七緒ちゃんが口を開く。
「あたし、前にゆかり先輩に明良先輩と付き合っていないのか、って聞いたことがありましたけど」
きたか。それについての質問は、正直勘弁願いたい。私自身、明良に対してどんな感情を抱いているのか、よくわかっていないのだから。
そんなことは露知らず、といった体で彼女はなおも話を続ける。
「付き合ってないにしても、あんなに綺麗な人と毎日会っていたら、コロリと好きになっちゃいそうじゃないですか。そういうのも、ないんですか」
「確かに綺麗だけど。でも、少し怖くない? 近寄りがたいというか、不可侵の領域って感じがする。ここはお世辞にも都会とは言えない場所でしょう、だから明良の病院は結構名前が知れていてね、そういうのも余計に『雲の上の人』って感じになっているのかもしれないけれど。美しくて、お金持ちで、将来は医者かもしれないなんて、あまりにも現実離れしすぎていて怖いと感じるのかもね。それに」
「……いや、でも」
「明良はすべてが計算されているというか、すべてが彼の考えた設計図の上を走っているというか」
「ゆかり先輩」
かつてないほど喋り倒し始めた私に、七緒ちゃんは静かに水を差した。
「ちょっと誤魔化してますね」
茶色い髪を揺らめかせ、ふふ、と小さく唇の端を上げる。ああ、やっぱり私は愚かだ。彼女にはすべて見透かされている。
「あたしが聞きたいのは明良先輩の怖いところじゃないですよ。美術部に入ってまだ少ししかたっていませんが、彼の怖さはそこそこ体感しています。
じゃなくて、あたしは。あたしは、ゆかり先輩が明良先輩をどう思っているか、ってことを知りたいんです」
§
あたしたちは吊革につかまりながら、思い思いに外の風景を眺めていた。流れていくのは山や民家やコンビニ、まれに商店街。駅ビルはもう少し先に行かないと見えない。東京はもっと雑然としていて、圧迫感があって、狭いようでいて広かった。ここは真逆。土地自体は広いはずなのに、建物が少ないからかあっという間に目的地に着くし、その狭い世界の風景には所々隙間がある。ここで先輩たちが生まれ育ったのかと思うと、勿体ないような、でも少しほっとしたような、妙な気分にさせられた。ここには面倒な山道はあるけれど、あたしに狂気と呼べるほどの執着を抱いた許婚もいなければ、中学生にして一人前に高飛車で傲慢なお嬢様たちもいなかった。便利な商業施設はないけど、穏やかな世界があって、なによりゆかり先輩がいる。
あたしはあの世界から嫌われていた。受け入れられていなかった。学校で誰かと話した記憶はほとんどないのに、家では将来の契りを交わした美しい天使が、狂ったように話しかけてきた。
あたしは知っている。萩月七緒が嫌われた原因は、少なからず婚約者にあるということに。その事実に気付いたとき、人生最高の右ストレートをお見舞いして、あたしは逃げた。
だから、先輩という立場でありはするけど、あたしを友人のように扱い受け入れてくれたゆかり先輩が好きだ。彼女が明良先輩を好きだというのなら応援したいし、もし嫌いだっていうのなら……明良先輩のあの執着を、どうにかしてやめさせたい。
「あたしが聞きたいのは明良先輩の怖いところじゃないですよ。美術部に入ってまだ少ししかたっていませんが、彼の怖さはそこそこ体感しています。
じゃなくて、あたしは。あたしは、ゆかり先輩が明良先輩をどう思っているか、ってことを知りたいんです」
その言葉に、ゆかり先輩は考え込むようなしぐさをした。心が痛む。あたしだって、決して彼女を困らせたいわけではないのに。
丸々一駅分思案して、ようやっと先輩は口を開いた。
「……わからないの」
「わからない?」
「私ね、去年の梅雨ぐらいからかな、クラスの人から嫌われ始めて。秋ごろには完全に孤立していたの」
それに関しては、薄々察しがついていた。出会った時からしてすでに、ゆかり先輩は修学旅行という学生生活の一大イベントを辞退していたわけだし。でも、本人の口からはっきり言われると、やっぱりショックだ。こんなに優しい先輩が、どうして嫌われるなんてことになったんだろう。それを聞くのは憚られたけど。
「明良だけが私の近くにいてくれるのよ。この学校のシステムは知っての通り二、三年生は持ち上がりクラスだから、あれから状況は変わっていない。もしもね、七緒ちゃん。明良に嫌われたら、私はもう教室には入れないの」
だから。だから、先輩は振る舞いに気をつけなければいけなかったのか。嫌われないように、言い方はひどいけど、おべっかを使わなくてはならなかったんだ。
でも。
「それって……おかしくないですか?」
自分が嫌われているから、明良先輩を放したくない。それは、わかる。でも、そのために明良先輩の言うことを否定できないなら、もう友達とは呼べないんじゃないの。
ゆかり先輩はなおも続ける。
「おかしいかどうか、私にはわからない。私は愚かで無知だから。けれど、私には明良しかいなくて、彼のことがすごく大切なの。それだけは事実だよ」
あたしが再び口を開こうとすると、ゆかり先輩の顔に影が差して、一瞬表情がわからなくなった。大して高い建物があるわけでもないのにどうして、と窓の外を見ると、いつのまにか見慣れた風景が眼前に現れている。私の最寄駅に着いたのだ。
タイムアップ、と言う声が、どこからか聞こえた。
「そう、ですか。聞きづらいことを聞いてごめんなさい。流石にクチバシ突っ込みすぎました」
ゆかり先輩は笑って首を振る。もう顔に影はかかっていなかった。
「いいの。それより私、明日の部活は遅刻するね」
「どうしてですか?」
「先生に呼ばれていて。途中から行けると思うから」
彼女がそう言っているのに被せて、ルルルルル、というけたたましい発車音が響く。あたしはあわててドアへと向かう。
「わかりました。じゃあ、さようなら」
「うん、また明日」