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「こんにちは、どなたかいらっしゃいますかぁ」


 そんな押し問答から半年ほど。細かく言えば、明良がアメリカに旅立ってから三日ほど経った、ある日の放課後のこと。桜咲く盛りの時期に、美術部へ一人の女生徒がやってきた。女生徒。この場所に訪れる女の子には、あまりいい思い出がない。そもそも、私と明良以外でこの場所に立ち入る人間はほとんどいないのだ。


 恐る恐る彼女を眺めてみると、制服がやけに新しいことに気付いた。古びたこの校舎に、彼女のそれはなんだかとても不釣り合いだ。


 中高一貫の制度を採っているこの学校は、義務教育の制服に校章に象られた小さなピンバッジを付けることで、高等学校の生徒として認められる、ということに名目上はなっている。あまり守っている人はいないけれど。だから、高等部の殆どの生徒は着なれた制服を身に纏っているのだ。それが、こんなにきれいだということは。


「あたし、萩月七緒(はぎづきななお)と言います。去年まで東京に住んでいて、今年からこの学校に入学しました」


 やはり。私達と同じく、高校からの入学生ということだ。彼女は部室をきょろきょろと見廻した後、ここは美術部で間違いありませんか、と問うた。


「あ、はい。私は美術部三年の沼野ゆかりです」

「一人で?」

「いえ、もう一人いますが、彼は修学旅行でアメリカに行っています……あの、何かご用ですか」


 彼女の短くて細い栗色の髪が、さらりと揺れる。健やかに微笑んで首を傾げたからだった。


「あたし、美術部に入りたいなと思いまして。見学させてもらえませんか」




 私は内心諸手を上げて喜んだ。喜んだけれど、一応この部活がどういう目線を送られているかということも、一人の生徒として伝えておいた。それは私にとって、最低限の配慮だった。名も知らぬ先輩が起こしたちょっとした悪事。ちょっとしているけれど、法に抵触してしまった悪事のことを。


 それに対しての彼女の返答は、予想外にあっさりしたもので。


「ああ、そんなことですか。あたしは高校卒業したら嫁ぐ予定ですし、部活の噂で大学の推薦になんとかっていうのは、あんまり関係ないですね」


 嫁ぐ。驚くが、明良曰くこの学校の女生徒の数割が、卒業後すぐに結婚してしまうらしい。私自身いくつかそういった噂を聞いたことがあった。別世界の出来事のようでいて、すぐそこで起きている事象なのだ。


 しかし、それはそれで問題があるのではないだろうか。


「でも、お家の人は……」

「両親は東京に住んだままなので、この学校の細かいことにまで煩く言ってこないと思います。嫁ぎ先は、まあ、私の自由にさせてくれますし」


 私立と言えど、東京に比べたらうんと田舎のこの学校に、どうしてわざわざやってきたのか。そのなかでも最も影の薄い美術部に入りたい理由はなんなのか。まだ色々と聞きたいことはあったけれど、私が口を開く前に、彼女は有無を言わさぬ完璧な笑みを浮かべて宣言した。


「だから、これからよろしくお願いします。ゆかり先輩」


 こうして、美術部に一人の女生徒が入部した。



       §



「――という訳で、七緒ちゃんが入部してくれたの」


 ゆかり先輩が、一人の男子生徒に向かって話しかけている。よくあんな無邪気に笑えるな、相手の顔、めちゃくちゃ怖いんですけど。


 あたし、萩月七緒は高校から編入してすぐ、美術室の扉を叩いた。この部に入部しようと思ったきっかけは、実はこれといって特にない。理由はあるにしても。強いて言うなら、そこそこ美術館に行くのが好きだったから。実家がパンダのいる動物園の近くだったのだ。


 なんだかよくわからない噂があるのも、ちょっと面白いと思った。どうせ結婚したら家からほとんど出れなくなって、厳重な監視の下、清廉潔白な人間に仕立て上げられるのだ。暗い過去のある部活に入るのもまた一興。本当、その程度の気持ち。でも、ゆかり先輩は優しそうだったし、実際とても優しかったから、それだけで十分満足だった。


 満足だった、のだ。過去形。話だけ聞いていたもう一人の男子部員――明良先輩に会った瞬間、その気持ちは霧散した。


「七緒ちゃんは東京に住んでて、今はおばあちゃんのお家から通ってるんだって」

「そう」

「それがね、私たちの地元の近くなのよ」

「へえ」

「だから帰りも途中まで一緒に帰れるの」

「よかったね」


 ゆかり先輩には、あくまで優しく穏やかに。でも、あたしには敵意を剥きだしてくる。明良先輩には一応笑顔で挨拶をしたけど、完全に嫌われているのがわかった。こうまで人によって空気を変えられるなんて、掛け値なしにすごいと思う。なんか修行でもしたんだろうか。


「で、萩月さん、だっけ」


 明良先輩が、突然あたしに話を振った。それまでゆかり先輩しか見ていなかったくせに。


 彫像のように造形の整った顔が私の方向を向くから、不覚にもたじろいてしまった。負けるな、負けるなあたし。


「はい」


 そんなあたしに対して彼は、アメリカから帰ってきたばかりだというのに、旅人が漂わせる高揚感のようなものはおくびにも出さず。ずっとそこに君臨していたかのような冷静さを醸し出しながら、宣言した。


「初めまして、俺が美術部のもう一人の部員、藤堂明良です」

「よろしくお願いします」


 気力を振り絞ってもう一度笑顔でニコリと微笑むと、思いのほか、彼からも柔和な笑みが返ってきた。なんだ、意外と優しい人なのかもしれない。


「この部活は勧誘とかを全くしていないから、本当に絵が好きなんだね」


 前言撤回。あたしの笑顔は即座に凍った。何故かって? 確かに、この文字列だけでは、何の雰囲気も伝わらないだろう。では、地を這うような低い声で、全く、と本当にを強調して読んでみたらどうか。


「この部活は勧誘とかをまっったくしていないから、ほんっっとーに絵が好きなんだねぇ」。


 ウン。嫌味。まごうことなき嫌味だ。あたしは、そういうところはあんまり鈍感じゃない。この男、やっぱりあたしのこと嫌いなんだな。


 でも、そんなことで傷ついたり、部活を辞めようと思うようなか細い神経は、とっくの昔にごみ箱へ投げ捨てたのだ。


「どうでしょう。でも、東京に住んでいたので、展示は結構ありましたし見に行きましたね。そうだ、ゆかり先輩。今度東京に来ることがあったら、是非案内させてくださいね」


 一年坊主からの予想外の反撃に、今度は彼を纏う空気が凍った。


 それは素敵だね、と一人楽しそうに返答するゆかり先輩に、不思議とちょっと救われた気がする。


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