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       §



 私たちの通う高校の学校行事は、他所と比べると少しだけ特殊な編成をしているらしい。修学旅行などはその最たる例で、一般には高校二年生の秋ごろに行われるものが、我が校は三年生になった直後に催される。その理由としては、一応東京に付属の大学があるから、ほとんどの生徒が大学受験をしないなどということが挙げられるのだろうけれど、詳しいことはわからない。まあ、どんな内情があるにしても、私には関係ないことだった。修学旅行に行くつもりは全くなかったから。


 私が周囲と溶け込めていない、というのもその理由の一端を担っている。この学校は、二年生から三年生に上がるときはクラス替えが行われない。それは私にとって、多少の諦観をもたらす事項だった。沼野ゆかりを取り巻く環境は、昨年度からなんら好転はしなかったのだ。私の傍には明良だけ。


 けれど、それよりもっと単純で明快でどうしようもない事実が、私の渡米を阻んだ。


 そう、渡米。この由緒正しい私立の学校は、設立にアメリカ人が関係していることもあって、修学旅行は自由の国へ飛び立つことになっていた。生徒たちは過去現在将来、どれをとっても自由な身分に置かれることはないのに、どんな皮肉なのか。それはさておき、一連の費用が新卒の初任給の約三倍以上すると聞いて、私は速やかに留守番を選択した。確か二年生の秋口、美術室の獣が私に――あるいは周囲に、牙を剥いた後の出来事だったと思う。


 端的にいえば、お金がなかったのだ。


 これについては、周囲とさほど揉めることはなかった。両親は少し残念そうだったけれど、家計を考えれば諦めるしかなく、担当教師もその辺の分別がつく人間だった。毎年、そのような理由で居残る人間が一定数いたらしい。


 けれど、明良は違ったようだ。


「ゆかり、修学旅行は何を持っていく?」


 すでに振込手続き等々が終了した後に、彼はそう問いかけてきた。絶妙なタイミングと言うべきか、単なる妙なタイミングか。仕方なく修学旅行に参加しない旨を伝えると、予想外の返答だったようで、困惑した表情で明良は自分も残ると言い出した。


「ゆかりが行かないなら、俺も行かないよ」


 私は行かないのではなく行けないのであって、彼のように選択権などない。


「もう手続きは完了したでしょう。今更行かないなんて」

「当日休むよ」

「サボったらご両親が悲しむんじゃないかな」


 明良が形の良い下唇を噛んだ。彼は基本的に親に反抗しない。中学の頃から年齢に似合わない大人びた身の弁え方をした子供だったから、きっと彼なりの事情があるのだろう。私は卑怯にもその弱点を突いたのだ。


「折角お金を払ったのに、って」


 追い打ち。けれどその攻撃は、彼に不可思議な閃きを与えることになった。


「だったら、俺がゆかりの分を払えばいいんだ」


 何を言っているのだ、この男は。そもそもすでに修学旅行費の納入期間は過ぎているし、例えそうでなかったとしても、お金を出すのは明良の両親だ。見ず知らずの馬の骨のために大金を出すなんて、絶対にありえない。が、なんだかとても嫌な予感がする。


「明良」

「そうすれば、俺とゆかりは一緒に過ごせる。行きたくないわけじゃないんだろう? 学校が休みになるわけでもなし」


 そう。修学旅行に参加しないからといって、家でまったり過ごすことはできない。毎日登校して、教師の指定したプリントで自習しなくてはならないのだ。決して楽しいものではない。


「そうだけど、でも」


 私が口を挟もうとすると、彼はクスクスと嗤った。ああ、だめだ。多分、今の明良はあまり機嫌がよくない。この古びた美術室は小さな窓があって、そこから差し込む陽の光が彼の美しい顔に暗い影を作っていた。


「ゆかり、俺はゆかりと一緒にいたいよ。アメリカなら何度か行ったことがあるから、自由時間は好きなところを回ろうよ。ゆかりが好きそうな美術館だって知っているし、興味があるところはどこへでも連れて行ってあげる」


 なんて魅力的な提案。


 けれど、このまま頷く訳には到底いかない。


「明良、私、今はやっぱりいけないよ」


 思い切って断ると、彼からは底冷えするような薄嗤いが返ってきた。苛立ちが伝わってくる。


「どうして。お金なら、気にする必要は」


 あるのだ。気にする必要は勿論、ある。私と明良は、同じ財布のお金を自由に使いあうような関係ではないのだから。それでも不服そうな彼を見て、仕方なしに私は折衷案を繰り出した。


「明良。私、いつか旅行でアメリカに行ってみたいな。学校行事だと、自由時間が限られているでしょう。大人になって、好きなように旅したい。その時は明良が案内してくれる?」


と。


 その言葉に、明良は機嫌を取り戻したようだ。一瞬目を見開いた後、優しい笑顔でこう言ったから。


「美術館でも、どこでも、好きなところに行こう。大人になったら、必ず。必ず」


 明良とだけ過ごした数か月で、私はほんの少しだけ、この融通の利かない獣の扱い方を学んだようだ。あんなことを言ったけれど、本当に一緒に行けるとは、実は露ほども思っていない。私と明良では家格が違いすぎるのだ。アメリカに行くような大金を、大人になったからといってすぐに捻出できるとは思えない。


 そんなことはともかくとして、こうして、二人しかいない美術部では、藤堂明良だけが修学旅行に参加することになった。彼が渡米している間、私、沼野ゆかりは一人で部室の管理を任されることになるが、元々大した活動をしていたわけではない。普段通りに過ごしていればいいのだと、この時は安易にそう考えていた。


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