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 ……中学時代、あたしが苛められていた原因が、許婚にあると知った時。あたしは彼の頬に右ストレートをぶち込んで、家に帰って両親に泣きついた。お願いだから、高校だけは彼と直接会わなくてすむ場所に行かせてくれ、と。彼の家はいわゆる「政財界の大物」と言わしめる大きな一族だった。けど、全国津々浦々、どこへ行っても名前が知れ渡っているとはいえ、首都から遠のけば多少は彼らの影響が少ないのも確か。だから少しでも彼から離れられたら、それだけで充分だったのだ。どうせあたしがいくら結婚したくないと訴えても、それが受け入れられることなんてない。三年間。人によってはたった三年間と言うかもしれないけど、あたしにとっては三年間も自由にできれば、それだけで満足だった。これに対してあちらさんは、いくつかの条件を足すだけで、意外にもすんなりと了承の意を示した。そのうちの一つが、この学校に入学すること。


 そして、もし部活に入るのなら、美術部以外は認めないということ。理由は想像できる通り、顧問教諭が彼の一族の息がかかった人物だったから。この目の前の女教諭は、あたしの見張り役なのだ。あたしの生活を、逐一許婚に報告することになってる。今日みたいな事態に陥った時、部員の情報なら手に入れやすい。


 あたしはそれでも逃げ出すことを望んだ。結局は向こうの監視下に置かれているとしても、三年後には地獄に引き戻されるとしても。


 部活に入ったきっかけなんて全くなかった。ただ彼から提示された範囲の精一杯をやってみたいと思っただけ。それだけの理由だったのだ。


 でもゆかり先輩と仲良くなって、最初の軽い気持ちは嘘みたいに部活に入れ込むようになって。そして、明良先輩の執着を垣間見て。あたしは。


「初めのうちは、ゆかり先輩は明良先輩から離れるべきだと思ったけど」


 あたしは、知らず知らずのうちに……ううん、自分でも何となく自覚してたけど、ゆかり先輩の姿をあたし自身に重ね合わせていた。むしろあたしと違って、明良先輩をどうにかすれば十二分に未来を選択する余地がある彼女を、羨ましいとすら思っていた。だってゆかり先輩は、仮に逃げても家族が路頭に迷うことなんてないんだろうし。逃げられないあたしの代わりに、嫌だと思うんなら全力で逃げてほしかった。その為ならできる限りの手伝いはするつもりだった。


「でも」

「でも?」

「好きだって言うなら、しょうがないもの。あたしはゆかり先輩に幸せになってほしいんだから、それに水を差すつもりはない、手伝いたいって思ったの」


 重ね合わせてたこともそうだけど、それより何より、初めてできた先輩なのだ。初めてあたしに何の思惑もなく接してくれた人なのだ。自由に生きてほしい。


「……そう」


 恐らく、言外から漂うあたしの望みを知って不憫に思っているんだな。教員と言う職業柄か、この女性はあたしに対して時折同情的なそぶりを見せることがある。けど、その感情は彼女の本来の役目と相反するものだ。それは誰よりもよくこの女教師が理解していることだろう。苦い顔をした後、顧問は首を数回振ってから話題を変えた。


「藤堂くんと一緒にいることで、沼野さんは大変な苦労を追うかもしれませんよ。七緒様と違って、彼女は一般家庭出身なんですから」


 この人がこんな風に意地悪な雑談をし始める時は、大抵「彼には報告しない」という陰のメッセージが含まれている。だからあたしはホッと息をついて、雑談に興じることにした。


「あたしが手伝うって言ったでしょ。家のいざこざがあるんなら、萩月の名前なりなんなり使えばいいよ。明良先輩の言う『住民を黙らせる』ことぐらいはできるだろうし。

 それに、センセーだって二人の仲を取り持たせようと画策してたみたいだし?」


 今度ははっきりと、ふふ、という笑い声が聞こえた。食えない人だ。


「どうして気付いたんですか?」

「あのゆかり先輩が『愛してる』なんて急に言い出すはずない。昨日の時点では大切ってだけだったのに」

「流石、察しがいいですね。でも、私が言ったことで沼野さんの感情が流されたなら、本当は藤堂君のことなんて好きじゃないのかも」


 今度はあたしが笑う。


「ついさっき、気付いたの」


 保健室の天井を見ながら、気付いたのだ。


「何を?」


 顧問は本当に不思議そうな顔で尋ねる。それがなんだか小気味よくて、あたしはまた笑った。なんだか、すごく気分が良かった。


 あたしが明良先輩との仲を問うた時、もしも友情しか感じていないのだったら、ゆかり先輩は言うべきだったのだ。「好きだよ」と。何のてらいもなく、真実純真な幼子のような表情で。


「好きかどうか問われて、悩むってことは恋愛の相手として見てるんだなって」


 なるほど、という呟きが聞こえる。それは気付きませんでしたね、と。


 そこから話のネタがなくなったのか、沈黙が落ちた。無言で同じ部屋にいるのはなかなかキツイ。もうお開きと言う意味も込めて、あたしは顧問に背いて言い放つ。


「まあ、後はあっちで何とかするでしょ。明良先輩をうまく捕まえられたらの話だけど」


 それはゆかり先輩が自分でどうにかすべきことのように思う。気持ちを伝えるのも、その先のことも。


 だから、あたしは手伝わない。代わりに心の中で思う。生まれて初めて友達になってくれた彼女に「頑張って」と。



     §



 気持ち悪さを抱えて、ひたすらに美術室への道を辿って行った。ゆかり、ゆかり。俺だけのものだったゆかり。今は他の女にとられて、指のあいだから抜け落ちてしまった最愛の人。


 もしかしたら、萩月七緒の言っていたことも本当かもしれない。ゆかりは俺のことなんて好きじゃなかった。俺が一人相撲をしていただけだと。もしそうだったとしたら、俺は――。


 気持ち悪い。


 近くにあった便所に駆け込み深呼吸をする。どうにか吐き気は収まったが、胸の下がドクドクと尋常ではない速さで打っていて、依然気分の悪さは回復しなかった。口を漱ごうと蛇口を捻る。ガラガラとうがいをして、ふと鏡に映る自分と目が合った。


 酷い形相だった。たった今殺人を犯してきたかのような(思えばそれに似たようなことをしてきてしまったのだったが)、目の血走った顔色の悪い自分。造作は変わらないはずなのに、泣きそうで怒りだしそうな、どこか定まらない顔をしていた。


「は、はっ」


 空虚な笑いが喉から漏れ出た。鏡の中の男は唇の端を小さく開く。


 変な顔。


 ふらりと外へ出ると、偶々廊下には同じ学級の男子生徒たちが歩いていた。俺と目が合うが、するりと視線を外される。当然だ。彼らとは一度も話したことがなかったし、ゆかり以外には無愛想を貫いている。ここで立ち止まって挨拶することすらおかしいのだ。何もおかしなことは起こっていないはずなのに。すれ違いざまに、どうしてと問いたくなる。どうして俺を無視するんだ。そんなことは言えるはずもなく、ただ遠のく背中を青ざめた顔で見送った。きっと不審に思われただろう。


 俺には何もないんだな。


 不意にそんな思いが胸中をよぎった。俺には何もない。


 ゆかりは俺だけのもの、という傲慢な考えをずっと抱いていたが。結局は、俺がゆかりだけのものになりたかったのだ。ゆかりしかいらない、と我儘を言い続けて、ゆかりが消えたら手元には何もなくなった。愛想も優しさも人付き合いも悪く、唯一の取り柄である顔はいつかは老いて消えゆくものだ。現に今だって、不気味と言った方がしっくりくる顔をしている。


「顔が美しければ、誰もが自分を愛してくれるなんて、思わないで」


 思っていないつもりだった。だが、だったらどうしてゆかりが俺を好きになると思ったのだろう。何もない俺を。顔しか秀でたものがない俺を。


 のろのろと歩いていくと、美術室の扉が目に入った。迎えの時間にはまだ早いが、早くこの校舎から出てしまいたい。荷物を持ってどこかへ行こう、と回らない頭でどうにか考えて、扉を開ける。


 すると。


「……明良」


 一番見たくて、同時に一番見たくない人物が、そこにいた。


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