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何が起きたのかもわからず、どうやったのかも覚えていないくらいに混乱していたけれど、私は目を覚ました七緒ちゃんを、とりあえず保健室に連れて行った。保険医の話では軽く脳震盪を起こしただけらしく、幸いなことに骨折などの大きな怪我は負っていないとのことだった。彼女をベッドに寝かせて一段落すると、保険医は一応部活の時間帯であるあるため顧問と、それから七緒ちゃんの家――実家ではなくおばあちゃんの家らしいけれど――に連絡をとるといって出て行った。先ほどまで話していただけに、こんなことに巻き込んでしまった申し訳なさが際立つ。
「……ゆかり先輩」
「どうしたの、七緒ちゃん。どこか痛い?」
「いえ、それよりも、明良先輩のことですが」
あの場にいて加害者でもある明良は、私が七緒ちゃんを介抱している間に逃げてしまった。
彼のしたことは許されることではない。ただでさえ七緒ちゃんは細身なのだ。男性である明良が突き飛ばしたら、最悪首の骨を折っていたのかもしれない。今回は本当に運が良かっただけなのだから。
それと同時に、私自身の責任もどっと押し寄せてくる。仲が悪い、と思っているなら、何らかの対策を練るべきだった。二人の間にどんな会話が為されたのかはわからないけれど、関係性を甘く見ていた自分が腹立たしい。結局、私は自分のことがかわいいだけだったのだ。明良に嫌われたくないから、彼の嫌味を咎めることもできず、七緒ちゃんを守ることもできなかった。私は、本当に愚かだ。
「……ごめんね。本当にごめんなさい」
「何がですか? まさか、あたしが怪我したのは先輩が明良先輩を抑えられなかったから、なんて言うつもりじゃないですよね」
そのまさかだ。今思っていたことをピタリと当てられ、目を見開いてベッドに横たわる女生徒を見る。
「そんなの、違うに決まってるじゃないですか。むしろ、あたしこそ明良先輩に謝んなきゃな、と思いまして」
「七緒ちゃんが? どうして」
「明良先輩は、あたしが落ちそうになったところを助けてくれようとしたんですよ。足を踏み外しちゃって。それに、ちょっとひどい言葉をぶつけてしまったんで」
嘘だ。七緒ちゃんは気付いていなかったかもしれないけれど、私だってあの場面を見たのだ。明良が手を挙げたところだって、目に焼き付いている。
けれど反論する前に、私の胸には現金にも安堵の気持ちがじわじわと広がっていた。
よかった。明良が誰かを傷つけていなくて、よかった。
私が明良を嫌いにならなくてよかった。
そこでハッとする。ああ、つまり、これがあの教師の言っていた――。
「七緒ちゃん、突然だけど」
「はい、どうしました」
私は。
「私は、明良のことが好きよ」
本当に、突然。いつか投げかけられた質問の答えを、この混乱の最中に導き出したのだ。
色々考えたけれど、私は明良の幸せを願っている。それだけで、こう言えるのではないか。
「愛してるの」
愛してる。
その言葉は、私の中に見えない何かとなって、するりと溶け込んでいった。そうだ。私は明良を、あの手に負えない獣のような男を、愛しているのだ。利用していて、恐らく利用されていて、純然たる信頼関係に置かれているわけではないかもしれないけれど。友情とのギリギリの境目にいるのかもしれないけれど。
私は明良が好きなのだ。
「だから、七緒ちゃん。今の言葉が嘘だったとしても、私はそれを真実として受け止めるよ」
失礼なこととは承知で言う。
初めてかもしれない。誰かに恋をすることは勿論、自分の気持ちをここまではっきりと伝えたのは。それに、正しいことを歪めてでも受け入れようとしたのは。
数拍の間の後、七緒ちゃんは少しだけ吹き出して、そしてにっこりと笑った。
「そうですか、結局、好きなんですね。
なあんだ。だったらあたしも応援します。だってゆかり先輩はあたしの先輩だから。初めてできた、大切な先輩だから」
じゃあ、なぜだか遁走しちゃった明良先輩を追いかけて伝えるべきですね。そう言って彼女は手を振る。大きな怪我をしていないとはいえ痛いだろうに、それをおくびにも出さずに。
私は拍子抜けした。もっと反対とか、説得とかをしてくると思っていたのに。私は、本当に優しい子を後輩に持てたのかもしれない。いや、むしろ後輩と言うよりはもっと近くて、もっと信頼できる。
「七緒ちゃんは、私の友達だよ。後輩、兼、友達。私の唯一の友達よ。
……本当にありがとう。いってくるね」
なんだか明良への感情を打ちあけた時よりも気恥ずかしくて、私は急いで背を向けて扉へと手をかける。
そうして、扉が閉まる瞬間に。
「うん、いってらっしゃい」
友達の、小さな声が聞こえてきた。
§
「どうして嘘なんてついたんですか」
きい、という扉が開く音がした後、ベッドに人が近づく気配がした。枕元に立ったな、と思ってたら、おもむろにそう問われた。
来たか。
高ぶっていた気持ちが一気に現実に引き戻されて、頭がフル回転する。全く、ほんとに空気を読まないなあ。あたしはベッドに寝転んだまま目を合わせずに簡潔に答えた。
「うそじゃないよ。原因が何であれ、あたしがただ足を踏み外しただけだもの。明良先輩の手はあたしに掠りもしなかった」
まあ、足を踏み外さなかったら確実に殴られていたんだろうけど。
「そもそも、地雷だと知ってて暴言吐いたあたしが悪い。あれは頭に血が上りすぎた」
いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあるのだ。
「……そう。わかりました」
あんまり納得はしなかったようだけど、とりあえずといった感じで了解の言葉が返ってきた。ほっとする。もしあたしが誰かの手によって怪我をしたとすれば、許婚の家がその誰かを全力で潰しにかかるだろうから。そんなこと本当にできるのかって思うけど、それは、まあ愛の力だ。ゆかり先輩のような、清く正しい純粋なそれとは違うけど。
「では、次に。どうして急に意見を翻したりしたんですか。藤堂くんが沼野さんを囲い込んだことを伝えれば、彼女は考え直したかもしれないのに」
何でもお見通しというわけか。黙っていたら気付かれないと思ってたんだけど。
それが癪に触って、あたしは嫌味を込めて、よく見てんのね、と言う。すると、彼女は笑ったのだろうか、少しだけ空気を揺らして「勿論。これでも教師ですから」と答えた。




