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      §



 時は遡る。


「そうじゃないって、どういうことだ?」


 俺は、思っているよりも冷静な声で、目の前の後輩にそう問うた。萩月七緒は飄々と答える。


「言葉通りです。あ……藤堂先輩の近くにいるだけじゃ、幸せだとは思えてないってことですよ」

「何で、そう思うんだ」

「だって、普通そうでしょう。望んでもないのにクラスで悪目立ちさせられて。好きでもない男と四六時中一緒にいなくちゃいけないなんて」


 先ほどまでの高揚した気持ちは、跡形もなく霧散する。


 好きでもない、男。


「……それは、俺のことか」

「他に誰がいるんですか」

「そんなはずない。ゆかりは俺との将来を」


 俺との将来を約束してくれた。旅行に行こうと、ゆかりは言ったのだ。


「だから、それが勘違いだって言ってんです。じゃあ聞きますけど、ゆかり先輩から好きだって言われたことはあるんですか? デートしたことは? 誘われたことは?」


「――ない、が」


 そんなことをしなくたって、この先ずっと一緒にいれば、デートぐらいいつかはすることになるだろう。人口の少ないあの町で、二人で遊びに行くことがどれほど俺の計画に関わってくるのか、この女はわかっていない。


「何か問題でもあるのか」


 それなのに、むしろ俺の方がわかっていないのだとでも言いたげに、萩月七緒は小さくため息を吐いた。


 そして、ぽつりと呟く。


「もう、いいです」

「は?」


 なぜ、俺がこの女からまるで見限ったようなことを言われなくてはならないのか。彼女はさらに続ける。


「ゆかり先輩のところにいってきます」


 椅子を引き、立ち上がろうとする後輩。俺もつられて中腰になり、待てよ、という言葉が唇からこぼれた。


 なぜ、急にそんなことを言い出すのか。俺が訝しげに見ると、萩月七緒は唇を真一文字に結んで目をぎゅっと瞑っていた。何かを悩んでいるのか。ここまで罵倒してきたくせに、それ以上に言い辛いことがあるのか。疑問が渦巻くが、一番の不思議は急にゆかりのところへ行くと言い出したことだ。どうせそのうち美術室に来るだろうに。


そう言ってやろうと再び俺が口を開けると。不意に、彼女は大声で言った。


「だって、ゆかり先輩は、明良先輩と付き合ってないって、そう言ってるんですよ! あたしから見たら、明良先輩は狂っているようにしか見えません!」


 そう言うが早いか、二つ年下の後輩は、部室を飛び出していった。




「……は」


 そんな後輩に対して俺は、ぼんやりと部室で突っ立っているしかできなかった。言われたことが理解できない。ゆかりは、俺と付き合っていないと。そう思っていた?


「そんな、馬鹿なこと」


 あるわけない。けれど、もしそうだとしたら? ゆかりが俺を好きではなかったとしたら。


 動揺して机にぶつかる。読んでいた本がばさりと落ちて、ようやく彼女を追いかけなくては、という考えに至る。本を拾い上げる余裕などなかった。


 廊下に出て、曲がり角でスカートの端が消えるのを確認する。察するにゆかりに会いに南側の階段を下りて行ったのだろう。彼女のいる職員室に行くなら北側の方が近いのだが、まだこの学校に来て間もない一年生では塵を理解していなくても仕方がない。むしろ助かったと、この時ばかりは感謝して萩月七緒に追いついた。


「萩月さん!」


 おれが声をかけると、階段を降りようとしていた女子生徒の肩がびくんと跳ねる。


「……藤堂先輩」

「ゆかりのところに行って、何を話すつもりだ?」

「何って、先輩には関係ないです」

「関係ないわけないだろう。俺とゆかりをそんなに引き離したいのか?」


 馬鹿馬鹿しい、と続けた俺に、彼女は憎々しげな目線を向けた。思わず、心臓が大きく音を立てる。こんな風に真正面から人の悪意を受けることは、あまりない。


「相手に振り回される身になって考えたことはあるんですか。先輩はゆかり先輩を好きなわけじゃないですよ。自分の狂気に人を巻き込まないで」


 否定された気がした。いや、気ではない。俺がゆかりを好きであるという事実と共に、この女はすべてを。


俺がゆかりに救われたことを。ゆかりと過ごした二年間を。思い出は、その程度のくだらないものだと。俺の見つけた、唯一の女性を。


 ――否定したのだ。


 この女は、俺が考えていた理想をことごとく打ち砕いて楽しんでいる。


 こんな女、俺たちの近くにいるべきではない。


「顔が美しければ、誰もが自分を愛してくれるなんて、思わないで」


 美しい顔。俺の人生で、どうしようもなく評価の対象になるこの顔が。


「お前に、俺の何がわかるんだ!!」


 咄嗟に手を振りかざす。叩こうとか殴ろうという意識は全くなかった。ただ、消したいと願った。


 萩月七緒は階段の一番上で、それを避けようとする。


 背を反って、頭を抱えて。


 そのままバランスを崩して、足を踏み外して、そして――。


「七緒ちゃんっ!!」


 聞き違えるはずもない、俺の愛しい女性がそう叫んだ後。階下に人間が落ちる、鈍い音が辺りに響いた。


「大丈夫!?」


 ゆかり。


 俺の横をすり抜けて、彼女は後輩の下へと駆けてゆく。俺は、それを呆然と眺めるしかできなかった。


 どうして、このタイミングで彼女がここに来るのだ。いや、それよりも。


「七緒ちゃんっ」


 ゆかり、俺は。


「七緒ちゃん!」


 ゆかり、俺はこの女に酷いことを言われたんだ。


 こいつは俺たちの思い出を否定したんだ。


 可哀想なのはこいつじゃない。


 傷ついたのはこいつじゃない。


「七緒ちゃん! 聞こえる?」


 なのに、ゆかり、どうしてお前は。


「七緒ちゃん!!」


 俺の名前を呼ばないんだ?


「七緒ちゃんっ」

「ゆ、かり先輩……」

「七緒ちゃん、よかった、気が付いた?」


 気持ち悪い。俺を無視するゆかりなんて、見ていたくない。ゆかりは俺のものだ。俺だけがゆかりの傍にいるべきだ。他の人間を優先するなんて、そんなはずはない。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 気付けば、俺は二人を置いて、そのまま廊下を走り去っていた。


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