第五話 愚者の告知 3
数分後に汚いアパートが見え始めた。もうすぐで家に着くはずだ。周囲に敵の気配は感じられない。残るは家の中だけとなった。アパートの階段を勢いをつけて駆け上がる。そして家の扉の前で足を止めた。
呼吸を整え、目の前の扉を勢いよく開ける。もしも襲われていなければ、まだご飯を食べている頃だ。慌てて靴のまま台所を通り過ぎ、リビング兼寝室の扉を開ける。一度だけ心臓が大きくはねた。
そこには食事が済んでリラックスしている仲間がいた。怪しい人物は見かけられない。
「お。お帰りー。っておい、靴、靴」
「シアン。今誰か来なかったか?」
「あぁ?」
「来てないんだな?」
「お、おう」
「そうか……」
一気に安堵のため息を吐いた。もしかしたらつけられているかもしれないが、とりあえず仲間は無事だったようだ。ふと下を見る。そこでようやく自分が土足のまま上がっていることに気がついた。
「うわ!? 泥んこ!」
「へー、レイでもそんなことあるんだねー」
アルシャルがクスクスと笑い、ちゃぶ台に頬杖をつく。
しかし、ただ一人、椎羅だけはいそいそとビデオデッキに持参品のビデオを入れていた。ビデオテープには『第五百四十二話 美智子と母の再会編』と書かれている。今椎羅がはまっているというドラマだ。ノンフィクションのようだが、一体どのくらいの間、放送していたのかが少しだけ気にかかる。
「ていうかお前、煙草を買いに行くだけにえらい時間かかんだな」
「うるせー。いつもの種類が見つからなかったんだよ」
軽い嘘を吐きつつ、靴を脱いで座る。まだ動悸はするが、先程よりは大分落ち着いた。やはり昔の話はしない方が良いだろう。話せばまた気持ちが落ち着かなくなって、自分でも予測のつかない事態になる可能性がある。
「……で。もう平気なのか?」
「え。何が」
「嘘つくんじゃねぇよ、このダスキン」
「ダスキンじゃねぇし。だから何だよ」
すると、背後から鋭い声がした。
「何で、あの時逃げたんだ?」
息が詰まり、反射的にシアンの方を向く。すると。案の定シアンは目を離さずにずっとこちらを見ていた。
目を逸らしたかったが、ここで逸らせば余計に怪しまれてしまう。だから負けじと見つめ返す。こうなればここは我慢比べだ。震える声を喉の奥から絞り出す。
「俺が、逃げた?」
心臓が大きく脈を打ち始めた。その音を掻き消すように、ゆっくりと呼吸を整える。そうして意識を集中させなければ、何かが途切れてしまいそうだった。
「お前さ、俺たちに話してないことがあるだろ」
「べ、別に。何でも」
「言っただろ? お前のことは理解してるって」
「……」
シアンがじっと目を合わせてくる。その視線に耐え切れず、慌てて逸らす。この我慢比べでは、勝ったためしがない。というより、相手の目に映る自分の姿を直視できない。
すると、いきなり背後からビデオを見ていた筈の椎羅が羽交い締めにされた。慌ててその束縛から逃れようとするが、それに続いたアルシャルに頭に顎を乗せられ、逃げられない。
「放せよ」とは言ってみるものの、どうすれば良いのかも分からない。完全にパニックになっていた。突然のことで戸惑っていると、詩衣もシアンの隣に座ってこちらを見ている。
二人はまるで心の底を見透かすようにじっと目を離そうとしない。はっきりと言ってしまうと、仲間ではあるが、怖かった。何かを言って欲しかったが二人は微動だにしない。その時に、改めて敵に回したくないなと思った。
「言えよ」
「…………」
まさか仲間からこんな尋問をされるとは思わなかった。振り払おうと思えば振り払える。だがそれでは何か大切なものが途切れてしまいそうで、出来なかった。ただ、出来ることと言えば、目を逸らすことぐらいだ。諦めて口を開く。と、同時に溜め息が漏れた。
「……アル。お前弟のことは知ってるよな?」
「うん」
「俺はお前にしか弟のことを喋っていない。何故椎羅が知っている?」
「僕が教えたから」
「何故だ?」
「別に隠す必要がないと思ったからだよ。いけなかった?」
頭上から明るい声がする。その返事に再び深い溜め息を吐く。ややこしいことになった。
少し間を置いて口にする覚悟を決める。心臓がうるさいほどに、激しく脈を打つ。今なら大丈夫だ。少しだけ気持ちが落ち着いている。
たっぷりと息を吹い、一息に吐き出すように言葉を口から出した。
「死んだんだよ。仕事でな」
「え? だって前は」
「…………」
項垂れて、畳の縁を見つめる。あまり思い出さないようにと努めてみるが、とめどもなく思い出が蘇ってきた。小さく頭を振り、黙り込む。まだ大丈夫。話せる筈だ。
「俺にとっては大事な弟だ。だけど、親父が回してきた仕事で死んだ」
「そんなのは、どこにでもあるだろうが」
「更に言えば、俺もその場にいて護りきれなかった。……だから……あの時、ついかっとなって……」
部屋に静寂が訪れ、後悔した。やはり言うべきではなかったのだ。話したところで、何も解決しない。こんな話をしても困らせるだけだ。大体、こいつらも似たような立場なのだ。
慌てて謝ろうと顔を上げると、椎羅が羽交い締めしていた手をほどき、か細い声で言った。
「……ごめん」
「は? ……何でお前が謝るんだよ」
少し躊躇った雰囲気を出す。が、椎羅は少し早い口調で言い返してきた。若干声がくぐもって聞こえるのは気のせいだろうか。
「オレ、いつもレイのことが羨ましかったんだ。……お前はさ、ボスの息子として期待もされてるし、強いし、家族がいるんだと思ってた。オレの両親は……いないから」
椎羅は心の中の何かを抑え込もうとするように拳を握り、項垂れる。少し考えてみると、こいつはまだ俺らより子供なのだ。過去に何があったかは知らないが、楽な生活ではなかっただろう。姉妹だけで生きる事を強要され、こいつはその通りに生きようとした。
この仕事でどれだけ心細かっただろうか。普通なら年齢的にはまだ中学生な筈だ。
「…………」
「でも、オレには姉貴がいる。だから両親のことは忘れようとしたんだ。姉貴がいるから平気だって。でも、いつかお前がオレから姉貴を……取っちゃうんじゃないかって思ったんだ」
「何言って」
「分かってる! けど、どうしてもあの時こう思っちゃったんだよ!! 姉貴を返せって」
椎羅のその漠然とした不安は分からないという訳ではない。かつて自分もそう思っていた時期があった。度々(たびたび)弟がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、不安になったこともある。
「だから、……ごめん」
「……一つ、聞いていいか?」
「何だよ」
「仲間……でいてくれるのか?」
この言葉を言い出すのは、もの凄く怖かった。が、ここでずっと黙って聞いていたアルシャルが思い切り背中を叩いてきた。威勢のいい音がし、しばらくの間痛みが長引く。反論の声をあげようとすると、すぐに明るい声に掻き消されてしまった。
「ばっかだなぁ。そんなこと気にしてたの?」
「な……!! そんなことって何だよ!!」
「僕はずっとレイの仲間だよ? 何があってもね」
満面の笑みを浮かべたアルシャルは、グッと親指を立ててこちらに笑いかけてきた。詩衣も続けて「当たり前じゃない」と不思議そうな顔をする。シアンも横目でちらとこちらを見る。
こいつは肝心なところでは照れやすい。だから毎回苦労させられるのだが、こいつは一つ一つの感情にそれぞれ癖がある。それを見て判断するのだが、それが案外難しい。気長な奴じゃないと、身がもたないだろう。
こいつが照れる時はきまって、目を逸らして腕や頬を軽く掻く。今は頬が赤くなるほど掻いていた。
「……あー。やっぱ性に合わねぇや」
椎羅はそう言って、顔を赤くしながらアルシャルと一緒に背中を叩いてきた。一体その小柄な体のどこにこんな力があるのだろう。そう思ってしまう程に椎羅は叩きまくる。
だが椎羅なりの照れ隠しなのだろうが、先程から叩かれ続けて痛みが増してくる。それでも気持ちは文字通り痛いほど伝わった。
「痛い痛いって」
「おバカさんにお灸を据えてやってんだよ。ありがたがらなきゃ」
変わらない笑顔で言うアルシャルと、つられて笑い声を出す詩衣が言った。
「そうそう。そのなさけない顔、ちゃんと直してもらいな」
「ブサイクってことか」
「ブサイクじゃないね。女々しいだね」
「この野郎!」
「げ。バカが怒った」
「誰がだコラァ!!」
笑いながら立ち上がり、部屋の中を逃げるアルシャルと椎羅を追っかけた。部屋の中は狭かったが、二人は器用に逃げ回る。
するといつの間にか本気で追いかけまわしていた。
息を切らす中、ふと側にあった消しゴムを握り締め、投げつける。剛速球で投げられた消しゴムはアルシャルの頭に命中し、勢いよく弾かれた。パンと鋭い音がする。
「こんにゃろ!」
負けじとアルシャルも側にあったものを引っ掴み、こちらへと投げつける。椎羅に至ってはベッドにある枕まで投げ飛ばしてきた。どうにかこうにか避けると、また投げられてきたものを投げ返す。
部屋の中は荒れ、シアンと詩衣がこっそりと外に避難する。が、それにも気付かずに今度は本気で殴り合っていた。部屋の中が更に荒れ、家具が次々と壊れていく。
この数分後、アパートの階下や隣に住んでいるおばさんに怒られたのは、言うまでも無い。