「感想」について言いたいことがある2
お久しぶりです。
「感想をAIに書かせたこと」への私の所感です。
まぁ、意見は色々あると思いますが、一つの意見として受け入れてくれたらありがたいです。
最近、再び「感想」について言いたいと思った。
このエッセイのタイトルは私が以前に書いたものと瓜二つであるわけだが、なぜ再び「言いたい」と思ったかというと、ある話題がきっかけだったりする。
それは投稿された作品の感想において、ある人物がその作品をAIに読み込ませて出てきた評価・分析を「感想」として送付したことが大きな話題となったことだ。
その話題の内容についての私の感想を先に言えば「バカ もーん!!(cv 別の波平)」の一言である。
これを聞いた人の中には「そんなものは感想でもなんでもない、ただの『怒り』という感情の発露というだけでしょ?」と言ってくる人もいるだろう。
それは正しい。
正しいからこそ、私の主張が正しいと証明されたことになるのだ。
それを説明しよう。
以前のエッセイでは「感想」は「感じて、想うこと」だと書いた。
読んだことのない人は、その以前のエッセイをちょっと覗いてもらって確認しても良いが、重要なポイントが出ている。
「感じて」の部分だ。
今回のエッセイでは「想う」ではなく「思う」のニュアンスで書くという変化はあるが、とにかく「感想」について言ちゃうことにした。
さて、この「感じる」というのは人の持つ感情の琴線に触れるということだったりするわけだが、ここで勘の良い読者なら気づくだろう。
言いたいことはズバリ!
「AIに感情があると思っているのか?」
ということである。
シンギュラリティを超えてAIが感情を持ったと言える状態ならば、それは「感想」だと言えるのかもしれない。
しかし、いまの技術の段階でAIが感情を持ったという話は聞いていない。
いずれ、そのようになるとしても、いまの認識ではそうは言えない状態だ。
つまり「感想」などという言葉で言い表せるものではなく、ただの『AIにおける分析』というだけで、それを感想として送った者は「感じること」を放棄した、ある意味で人間性を放棄した行為と言えるのではないだろうか?
「何も感じない」「何も思わない」
そんな状態で感情をAIに丸投げするようなことは、己の人間としての自我を捨てているように思え、また同時に、そこに憤りに似た感情を“私は感じた”のだ。
だから私は「私が正しい」と思えるのだ。
AIは優秀である、とても優秀であるのは間違いない。
だがそれは、記憶(記録)というような部分的なものであり「感情」などはまだ人間にしか持てない部分であるはずだ。
それに気づかず、それを放棄するのは人間を証明する部分を放棄して「モノ」になり下がる行為に映る!
“喜怒哀楽”といった感情に裏付けられた感想こそが「感想」と呼べるものに思うのだ!
何年か前に「それってあなたの感想ですよね?」という言葉が流行ったが、人間である以上は完全に感情を捨てきれないし捨てるべきではないと私は思う、いや、断言する。
ただでさえ「論理的だ」「合理的だ」などの言葉がもてはやされており、功利主義的な価値観で堅苦しい世の中なのに「感情のない無機質な世界」を表すような行為は面白みもなく、「そんなものはいらない」と感じたからこそ、私はこのエッセイを書いたのだが、皆さんはどう思っ……いや、感じただろうか?
あと一つ言っておく。
このエッセイの文章チェックにAIを活用していたりする。
何が言いたいかと言えば、使用の目的とその用途が自分の権限(あるいは権利)の範囲で収まるのであればAIを否定する必要はないと私は思っている。
人間の知識を保持する能力には個人差があるし、年齢とともにその能力が衰えるところもあるから、それを補完する意味においてAIの活用は有意義なものであると思う。
しかし、便利さだけで使用すると利用しているつもりが依存する形となり、想像性というものが失われることになるだろう。
想像性を失ったとき、人間は人間と言えるのだろうか?
昔の映画「マトリックス」のような世界になるのは、自分としては遠慮したいところである。
これからの時代、私たちはAIという存在に真摯に向き合うことになるであろう。
「道具を使うか?道具に使われるか?」
その分岐路にいま、私たちは立っているのかもしれない。
感想の返信はあまり当てにしないでください。
かなり時間がかかり結果的に忘れてしまう恐れがあります。
文字を読むのがきつくなってるものでして。
…… というのは建前で、だんだんとボケてきているのを自覚してたりする。




