みじかい小説 / 022 / 律とバス
勢いよくガスの抜ける音がして、バスが止まった。
朝の通勤時間帯、バスは満員で、乗客は窓の外に視線をやったり、手元を見たりしている。
それを正面の大きな鏡で確認してから、律はバスを発車させる。
律が路線バスの運転手になったのは、この春のことだった。
通常の運転免許を「一種免許」といい、バスやタクシーなど有料で人を乗せて運ぶ際の免許を「二種免許」というが、バスの運転にはこの二種免許が必要で、律は今の会社に入ってから研修を受けて取得した。
本当は高速バスの運転手になりたかったのだが、いきなりはなれず、まずは路線バスの運転手を経験してからでなければいけないらしい。
そのため、律はこうして毎日路線バスを運行しているというわけだ。
律の両親は、律がおさないころに離婚しており、律はほぼ母子家庭で育った。
母はジムのトレーナーをしながら女手ひとつで律を育ててくれた。
そんな母を早く支えたくて、律は大学には行かずに働く道を選んだ。
その選択に後悔はしていない。
人手不足と言われるバスの運転手だが、うちの会社は別で、若い人に嫌われがちな長時間労働というデメリットを、独自のシフト制にすることで改善し、この地域では人気の仕事となっている。
確かに、好きな時にトイレに行けないだとか、常に人に見られるというストレスはある。
しかし、そういうことに目をつむれば、常時空調は効いているし、汚れない仕事だし、いいことはあると思うのだ。
たまの休みに母が聞く。
「後悔していないか」と。
律は決まって答える。
「人生なんか後悔ばかりだけど、でも前向きに生きないともったいないからな」と。
そうして母と二人笑い合うのが、律は好きだった。
それから40年が過ぎた。
既に母は亡く、ひとり暮らしの律は、今朝もバスを運転するために家を出る。
母の遺影に手を合わせて、笑顔を作ってから「立派に勤め上げてみせるからな」とつぶやく日課をを忘れずに。
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