第二話 小さな友情
夜遅くに、少女はインターフォンを押すのを躊躇っていた。
押そうとする度に指先が震えてしまい、どうしてこんなに自分は臆病なのだろうかと、その場に立ち尽くす。その繰り返しでかれこれ一時間以上が経とうとしていた。
「……ど、どうしよう」
表札には東堂という文字が刻まれている。インターフォンを押せばおそらく彼女が出てくるだろう。しかし、どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからなかった。
嫌われたくない。
けれども、今日を逃せばきっと彼女を取り巻く環境は何も変わらないだろう。だから自分が彼女を助けなければならない。
そんな使命感だけが自身を突き動かしていた。
表情を全て隠すかのように伸びた前髪から覗く瞳は、今にも泣き出しそうなほどに潤んでいる。現に泣いてしまえば楽になれるだろうか? 校則をきっちりと守るかのような黒い髪は玄関口の灯りを反射させて美しく輝いている。
紺のブレザーに灰色のスカート、無論、制服を着崩すなんてことを彼女はしたことがない。もしかすると、スカートの丈を短くしたり、学年毎に指定されたリボンをだらしなく首から下げれば〝そういう〟仲間に入れてもらえるのかもしれない。
しかし、先生に怒られることをしたくないし、今までの自分を変える勇気なんて微塵もなかった。
そんな彼女、日向ユメは転校生だった。今から四ヶ月前の五月初旬、中学三年になってすぐに他県から転校してきた。
それはなんとも悪いタイミングであり、せっかく仲良くなれそうだった友達とは親密な関係になる前に別れることとなり、新しい学園では五月ともなれば友達の輪が完成されてしまっており、自分に居場所なんてないはずだった。
それなのに、東堂リリサは自分なんかを助けてくれた。苦手な気の強い生徒から自分を守ってくれた。理由はそれだけでいい。だから今度は、自分が助ける番だと、ユメは改めて自分に言い聞かせた。
「……せーのっ」
ようやく指先の震えが止まった。今度こそはとインターフォンを押そうとした瞬間、突然玄関扉が開いた。
出てきたのは男性であった。暗くてわかりにくいが、眼鏡をかけており、イマイチ表情が読み取りにくかった。しわくちゃのワイシャツにスラックス、手に持つ上着には東堂製鉄と刺繍が施されているのが見えた。
「おや? どなたかな?」
パッと見た感じ、リリサの父親で間違いはないだろう。リリサ本人でなくて良かったとユメは内心安堵した。
しかし、よく考えると、一時間近くも家の前で立ち尽くしてしまったのだ。もしかすると、不審者として扱われ、誰かが通報したのかもしれないと、ユメは慌てた。それに、時間も時間だけに補導されたら親と先生を裏切ることになる。ユメは最悪の事態をあれこれと想像し、この場から逃げ出そうとした。
「……ご、ごめんなさい!」
黙って逃げてはもっと不審者扱いされると思ったのか、ユメはわざわざ頭を深く下げた。それから闇夜に溶けるようにして逃げればいい。しかし、頭を上げると、男性と目が合った。見れば、眼鏡の奥の瞳は怒っているどころか、優しく笑みを浮かべているように感じた。
「もしかして、君はリリサの友達かな?」
緊張の糸は今にもはち切れそうなほどに張られていた。とにかく、怪しまれないように振る舞う必要がある。それに、声をかけられてしまった以上、このまま無視をして逃げるわけにもいかない。
「え、えっと……あの……」
「違っていたらごめんよ。君がユメちゃんかい?」
「えっ? そ……そうです……。でも、どうして……?」
緊張よりも驚きの方が勝った瞬間だった。どうして彼は、自分の名前を知っているのだろうか? 驚いた直後に困惑し、再びユメの緊張の糸が張られ始めようとしていたが――。
「リリサからはよく君の話を聞いているんだ。おっと、紹介が遅れたね。僕はリリサの父さ。リリサが友達の話をするのは珍しいことでね、ユメちゃん、いつもリリサと仲良くしてくれてありがとう」
「い……いえ! あ、あの、お礼を言うのは私の方で……」
「んっ? どういうことかな? まあ、せっかく来てくれたんだから、料理でも振る舞いたい所なんだけれど、生憎僕はこれから仕事なんだ」
「あの……、お構いなく……」
「そうだ、ユメちゃん、今日はうちに泊まっていくといいさ。リリサもきっと喜ぶだろうし」
「いえ……それは……」
「大丈夫さ。必要ならば親御さんには僕から連絡しておこう。それに、もう逢魔時が近いね」
リリサの父は腕時計に目をやった。慌ててユメもスマートフォンの時計を確認すると、時刻はとっくに十一時を過ぎていた。
「あ……あの、両親への連絡は自分でできます……。でも、リリサちゃんが何て言うか……」
「心配には及ばないさ。リリサが人より正直じゃないことは、ユメちゃんもよく知っているんじゃないかな? いろいろと難しい部分もある子だけれど、仲良くしてあげてくれると僕は嬉しいな」
「それは……もちろん……です」
「そうかい。良かった。じゃあ僕は仕事があるから、そのまま家に上がってくれていいからね」
「あ、ありがとう……ございます……」
リリサの父は、上着を肩にかけて夜の住宅街に消えて行った。
変な奴だと思われなかっただろうか? しかし、ユメはそれ以上に思ったことがあった。
「いいなぁ……。リリサちゃんのパパって、とっても優しい人なんだな……」
突然の父親の登場を乗り切ったユメには、もう怖いものなんてなかった。扉をそっと開けて玄関でユメは立ち止まった。このままの勢いであとはリリサを呼ぶだけだ。
友達の家に上がるだなんて、何年振りかわからない。全てが目新しいものに見えて、ついついユメは周囲を見渡した。
靴箱の上に写真が飾られていた。先ほどのリリサの父と一緒に写っている女性……。一瞬リリサに見えたが、少し違った。
「凄く綺麗な人……。リリサちゃんのママなのかな?」
つい写真に見惚れてしまう。すると、目の前の階段の電気が突然点いた。見上げると、薄明かりの中にリリサが立っていた。どこから説明すればいいのか迷っていると、先に口を開いたのはリリサの方だった。
「何?」
「あっ……! えっと……、その……」
短い付き合いだが、ユメにはわかった。リリサは自分を歓迎していない、かなり不機嫌な状態であると。
父親のお陰で解けかけた緊張の糸が再び張り巡らされた。
「だから、こんな時間にうちに何の用なの?」
「ご、ごめんね……。びっくりさせちゃったよね……。あのさ、えっと……、リリサちゃんのパパに会ったんだ。リリサちゃんのパパってさ、とっても優しいんだね……」
「話はそれだけ?」
「あっ……えっと……」
「で、パパは何て?」
「あの……、泊まっていっていいって……」
「はぁ……」
リリサは怠そうに大きなため息を漏らした。さすがにこんな時間に押しかけるのはやはり無理があったのだ。これ以上リリサに嫌われたくないと、ユメは撤退を決意して踵を返そうとした。
「待ちなさい。お茶でも淹れるわ」
「へっ……?」
ユメは呆気に取られた。きっと自分はおかしな顔をしていたことだろう。予想外の返答に、ユメは混乱した。
お構いなしにリリサは階段を降りてきた。
リリサの私服姿を見るのは初めてのことであり、白いカチューシャにゴシックな雰囲気のモノトーンのワンピースがとてもよく似合っている。
「上がりなさいよ。いつまでそこに立っているの?」
「あっ、あの……」
「あぁ、その写真は気にしないで。私のママは私が産まれた後すぐに他界してるから。だから何も覚えてないの」
「ご、ごめんね……。でも、綺麗な人だなって……」
「そうね。で、帰るの? 上がるの?」
「あっ、うん、お邪魔……します」
リリサに促され、ユメは靴を脱ぎ揃えた。リビングに案内されると、リリサは「適当に座ってて」とだけ言ってカウンターキッチンでお湯を沸かし始めた。
ケトルの音だけが室内に響き渡っている。何か話をしなくてはとユメは思ったが、こんな時に限って頭が真っ白になって話題が出てこない。
「何か……手伝えることあるかな……?」
「ないわ」
「そっか……」
「で、わざわざ何しに来たの?」
「うん……。リリサちゃん、明日から学校来るかなって……」
「行かないわ」
「でも……、六月から一回も学校に来てないよね?」
「別に。私の勝手でしょう?」
「それは……そうだけれど……。そ、そうだ……。リリサちゃんは夏休みの宿題終わった?」
「終わってるわけないでしょ。学校に行かないのに宿題なんてやるだけ無駄。はい、お茶。美味しいかどうかは知らないわ」
「あ……ありがと。あのね、実はさ、私もまだなんだ……」
「はぁ……。どうせ読書感想文か何かに手こずってるんでしょ?」
「えっ……? どうしてわかるの?」
「国語だけは苦手だったわよね?」
「あはは……。まあ、その通りなんだけど……」
一瞬この会話で場の空気が和んだかのようにユメは感じた。この調子なら、リリサが学校に来るよう説得できるかもしれない。そんな兆しが見えた。しかし、お茶を一口飲もうとすると、リリサが急に前のめりになった。
「いい? ユメはさ、弓道で推薦貰えるはずなんだから、私なんかに構ってる暇なんてないの。読書感想文は手伝うわ。でも、何て言われようと私は学校には行かないから」
「でも……、卒業したら離れ離れになっちゃうんだよ……?」
「それはみんな一緒でしょ? 別に、今生の別ってわけじゃないし」
「それはそうだけれど……。でも、リリサちゃんがいない学校なんてちっとも面白くないよ」
「元々学校は面白くて行く場所じゃないわ。義務教育だから。それだけよ」
「うん……」
ユメはすっかりと意気消沈してしまった。おそらく、何を言っても今のリリサには通用しないだろう。それから、やたらと味の薄い紅茶を飲み干すまで、無限に続くかのような無言の時が流れた。
「来てくれて、ありがと」
沈黙の中、リリサが何かを発した気がした。
「んっ? 何か言ったかな?」
「別に、なんでもないわ」
「……そっか」
ユメにはその言葉が届いていなった。中途半端に沈黙が破られてしまった為、ユメはずっと考えていた話題をリリサに振ることにした。
「ねぇ、リリサちゃんってさ、この町の魔法少女の噂って知ってる?」
ユメとしては、これが楽しい話題になるはずであった。夢や妄想膨らむガールズトークというやつだ。しかし、それを聞いたリリサの表情はむしろその逆であり、眉が釣り上がっている。どうやら、失敗に終わったようであった。
「あのさ、ユメはそんなおかしな噂を信じてるわけ? くだらないわね。ユメはもっと現実見た方がいいよ」
「……それは……こっちの台詞なんだけれど……」
「何か言った?」
「ううん……。なんでもないよ……。でもさ、私はそんな強い魔法少女に憧れるっていうか……。だって、本当だとしたら私たち、魔法少女に守られてるんだよ? もしかしたら、何かの間違いで魔法少女に会えるかも……」
「馬鹿ね。第一、その魔法少女は何から私たちを守ってるのよ?」
「う〜ん……。悪い魔女とか……かな?」
「そんなもの、いるわけないでしょ。はい、この話はお終い。って、もう逢魔時になっちゃうわね。その前に、ちょっとコンビニ行きたいんだけど」
「あっ、うん……。私も行こうかな……? ってリリサちゃん……、魔法少女は信じないのに、逢魔時は信じてるんだね?」
「何が言いたいの? 逢魔時……、午前〇時から三時の間のただの外出禁止令。どうせ青少年の非行防止か何かでお偉いさんが考えた条例でしょ。それに尾ひれ背びれが付いて魔法少女やら魔女やらの噂が立っただけの話よ」
「……う〜ん、私はそうは思わないけれど……」
「ほら、夢物語は後にしてとっとと行くわよ」
「う、うん……。ところで、リリサちゃんは何を買うの?」
「決まってるでしょ。読書感想文の参考書よ」
「えっと……、多分コンビニには売ってないと……思うけど」
「何軒か回れば見つかるわよ。ほら、ぐずぐずしないで」
「う、うん……」
間もなく逢魔時、午前〇時になるほんの三十分前、二人の少女は何の気なしに外出をした。
これが東堂リリサの運命の歯車を狂わせる結果になるとは、一体誰が予想しただろうか?
そしてリリサはここ数ヶ月の悩みをユメに打ち明けることができないでいた。
あり得ないほどにリアルな夢――、悪夢――。
「あれは所詮夢――、魔法少女なんているわけがないし、ましてや私が魔法少女? くだらないにも程があるわね」
理由はわからない。しかし、鮮明なほどに記憶に残る、魔法少女としての自分の姿――、そして、最悪の結末。
しかし、誰かに相談した所で笑われるだけだろう。そう決め込んで、リリサは夜の町をユメと共に駆けた。