温泉旅行
「この前行った温泉さ、お湯に噛みつかれるんだよ」
そんな不思議な言葉を、高校の友人がぽろりとこぼしたのは、昼休みの屋上だった。彼女の言葉を私は冗談として受け流すことができなかった。というのも、彼女の目が真剣すぎたからだ。まるで、そこで見たものが、今も皮膚の中で疼いているかのように。
気がつけば、私はその温泉を探していた。
地図にも、案内板にも載っていないその場所は、山奥の細道を五回曲がってからようやく現れた。古びた鳥居がひとつ立ち、こちらに風を運んでくる。そこをくぐると、湿った空気が喉を掴んだ。
見た目は古めかしい小さめの温泉宿。入ると、番頭のおばあちゃんが虫眼鏡を使って新聞と睨めっこしていた。私は少々高い1000円を渡し、服を着替えた。
中は意外と綺麗で、統一された木桶にちゃんと並べられた風呂椅子。
そこでようやく私は気づいた。他の客が誰もいないことに。
ただそんなことは気にする意味もないので、かけ湯で体を洗い、入ることにした。
湯気はまるで生き物のようだった。くるくると渦を巻き、私の足元を撫でる。それが「歓迎」なのか「警告」なのかも分からぬまま、私は裸足になって湯舟へと足を浸けた。
ーー瞬間、がぶり、と足首を甘噛みされた。
痛みはない。ただ、確かにそこに“口”があった感触。柔らかく、ぬるく、けれど決してただの液体ではないものに、私は囚われた。
お湯は、私を知っていた。
幼いころの秘密、誰にも言えなかった願い、今朝食べたパンの味まで。お湯はそれを知っていて、まるで懐かしい友人のように、私を包み、くすぐり、時にちょっと意地悪く噛みついてくる。
湯舟の中心には、ぽっかりと黒い穴があった。そこは、お湯が流れ込む場所ではなかった。逆だ。お湯が「生まれてくる」場所だった。ごぼごぼと泡を吐きながら、息をしている。
私はその穴をのぞきこむ。すると、底なしの暗闇が、ふいに瞼の裏を押し広げた。
そこには、友人がいた。
私の身体は湯に溶け、髪は気泡となって弾けていた。笑っていたのか、泣いていたのか、それすら判別できないほど、柔らかく、輪郭のない表情で。
「噛まれたら、帰れなくなるよ」
そう、溶けた友人が言った気がした。
その瞬間、私の足元が、またがぶりと何かに噛みつかれた。
そして私は、湯の底に沈みはじめる。
ーーもうすぐ、私も、友人のようになるのだろう。誰かに、この温泉の話をして。そしたらきっと、次はその誰かにーー
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