記録001:異空の門を超えて
神界──そう呼ばれる領域は、言葉通り、神々が棲まう世界だった。
だが、それは決して楽園ではなかった。むしろ、静けさが痛いほど広がる“異空間”だった。
空には、島が浮いていた。
無数の浮島が、重力も常識も無視して浮遊している。
形も大きさも様々で、どれ一つとして同じものはない。
空の色さえ場所によって異なり、島によっては昼のように明るく、あるいは夜のように暗く沈んでいた。
「……ここが、神界か」
さとるがそう呟いた。
彼の目はどこか遠くを見つめていた。
レオンは隣で無言のまま歩いていた。彼もまた、言葉を失っていた。
二人の足元に広がるのは、灰色の大地。地面は硬く、ところどころに光る紋様が刻まれていた。
歩くたびに紋様が淡く光る。まるで、存在を感知されているかのように。
「歓迎しましょう、外界の者よ」
声が降ってきた。上からでも、下からでもない。まるでこの空間全体から響くような、柔らかく、しかし不気味な声。
姿を現したのは、一人の少年──のように見える存在だった。
白銀の髪。目は金色でもあり、虹色でもあるような、見る者によって変わるような不定の輝きを放っていた。
背中からは羽のような光の結晶が浮かんでいる。
「私はただの案内人です。神界に足を踏み入れた物を、世界の規則へ導く者です」
レオンはその姿をじっと見つめた。
「神じゃないのか?」
「神ではありません。ただの役割です。神界に存在するための、『定義』といったところでしょうか」
案内人は微笑んだ。だがその微笑みは、人間のものとは違った。
喜びでも、慈しみでもない。ただの形式としての微笑。
「この先、君たちにはいくつかの島を巡ってもらいます。一つひとつの島には概念が宿り、その中心には神が棲んでいます。」
「聞いてた話よりも、規模がデカいな……」
さとるが何かを察したように言う。
案内人は続けた。
「君たちには、すでに“条件”が満たされているのでここに来られ……」
「条件……。じゃあ、ここに来れなかったみんなもその条件が揃えば来れると言うのか?」
「はい、その通りですよ」
その言葉に、レオンが反応した。
「……あいつらならできるさ」
「とても信用なさってるのですね」
「あぁ、もちろんだ」
「そろそろ話を戻してもよろしいですか?」
「すまない」
「条件が満たされていたからここに来れました。しかし、この旅路に“戻る道”は保証されておりません。あぁ、今言っても扉はしまっていますので関係ありませんね。神を殺すということは、世界の土台を崩すということです。神界が壊れるか、君たちが壊れるか……どちらが先か楽しみですね」
「わかっているさ」
さとるが静かに遮る。
「でも俺たちは、もう進むって決めた。戻れなくても、構わない。みんなの世界を守るためなら」
空に散らばる島々を見上げながら、さとるは続けた。
「俺たちの旅は、ここからが本番だ」
案内人が微笑む。
「ほぉ、勇ましいですね。では、始めましょう。“一つ目の島”への旅を。そこは、“記録”の島です。君たちの過去と未来が、交差する場所です」
だが、その言葉にさとるは首を振った。
「いいや。そこには行かない」
案内人の目が細められる。レオンも、驚いたように横目でさとるを見る。
「……どういうことだ?」
「回り道してる時間はない」
さとるの声は静かだった。だが、内に秘めた熱は確かにそこにあった。
「俺たちの目的は、光神を倒すこと。それ以外は後回しでいい。案内人、光神がいる島に連れて行ってくれ」
その瞬間、空気が凍りついたように感じた。
案内人は数秒の沈黙の後、息を吐いたように言う。
「それは……通常の流れからは外れる選択ですよわかっていますか?
「わかっているさ」
「神界の“規則”において、外界の者が光神の島に到達するには、少なくとも五つの島を越える必要があるのです。概念の洗礼を受け、存在を“許可”されなければ、光神の島そのものに立つことすらできないのですよ?それでもですか?」
「それでも、俺は行きたい。いや──行くと決めた」
さとるの瞳がまっすぐ案内人を見据える。
案内人の身体が一瞬だけ揺れたように見えた。何かを判断している気配。
「……君たちは“特殊条件下”でこの神界に到達しています。確かに、その力ならば規則を“歪ませる”ことは可能かもしれませんね。しかし、それがもたらす結果は──君たち自身にも、私にも、予測できません。まぁ、君たちがどうなろうと私には関係ありませんが……。」
「それでいい」
今度はレオンが前に出た。
「何があっても、こいつとなら乗り越えられるさ。なあ?」
さとるは、にっと笑った。
「うん。準備はできてる」
案内人は目を伏せ、そして静かに手を上げた。
その指先から放たれた光が、空にある島の一つを指し示す。
それは他の島よりもはるかに高く、雲を突き抜けた先にあった。
そこだけが、まるで太陽のように輝いていた。
「では──神々の頂へ。そこは、光という名の真実と欺瞞が支配する、神界最奥の地です」
足元の紋様が一斉に光り、世界が揺れる。
空間がめくれ、島々が重なり、視界が白く染まっていく。
「……行こうぜ、さとる」
「……ああ。終わらせよう。全部、な」
こうして、二人は神界の頂へと歩を進めた。
まだ誰も到達したことのない、神を討つための旅路へ。
「やれやれ、またあれ暮れ者が来た。光神様へご報告に行かなければ……」