最終話 愛
雨の音がストレスを軽減してくれるのか、梅雨の季節の授業は穏やかに行なわれていた。
珍しく唱が遅刻しても、教師は叱責せず、クラスメイトは誰もからかわない。
唱は教科書とノートを開き、勉強に集中する。
だが、板書を書き写し手の動きを止めた時、ふと思考が別のことに向いてしまった。
――新学期が始まって数ヵ月。そろそろどこかの部に入らなければいけませんね。何部にしましょうか。
後で花野に相談してみようと思い立つ。
「おい、花なんとか! いるか!?」
教室がどよめく。
おそらく高校生くらいの年齢と思われる女子が一人、私服で教室に駆け込んできたのだ。
「どうした?」
教師の問いかけにも答えず、彼女は、
「昨日、電車で襲われたやつだよ! どこだ!」
背が高くて、髪を染めていて、顔にアザがある。
控えめに言って、真面目なタイプではなさそう。
――目を合わせない方がいいですね。
うつむく唱だったが、見つけられてしまう。
「しょーちゃん……来てたのか。いや、なに呑気に授業を受けてんだよ!」
「え?」
びくっと体を震わせる唱。
初対面のはずの人が、なぜか自分を知っていて、気安く話しかけてきて、しかも怒っているようだ。
不気味すぎる。
「何とか言えって。ニュース観てないのか!?」
「どちら様でしょうか……」
「はぁ……? お前、何を……」
「私が何かしてしまったでしょうか」
「……もういいよ。わけわかんねぇ」
唖然としていた教師が、職務を思いだし、
「お前、3年の鯵紋寺だろ。まだふざけたことやってんのか」
「ふざけてないって! もうすぐヤバイことになんだよ! おい、そこの花なんとか、お前はここにいちゃダメだ!」
「バカなこと言うな。花野は偉いんだぞ。昨日ひどい目に遭ったのに、今日はもう登校してる。お前は親の地位に甘えてないで、きちんと勉強しろ。受験生だろ」
「離せよ!」
「職員室に連れていく」
クラスメイトから同情の視線が集まる花野。
だが、様子がおかしい。
「う、ああ、ぐぐぐぐ」
体が痙攣し、段々と皮膚が白い光を放ち始める。
「……花野さん、大丈夫?」
心配してくれた隣の席の生徒に、花野は襲いかかる。
「いやああぁぁぁああぁぁ」
悲鳴が教室に響く。
周囲の生徒が慌てて距離を置こうと立ち上がるが、ゾンビ化した花野の動きはとても速く、片っ端から噛みつき、殴り、引っ掻く。
「おい、どうした」
ガタイのいい教師だが、
「ああっ」
ほとんど一瞬で殺されてしまう。
鯵紋寺は倒れた椅子を花野に投げてみるが、ダメージはないようだ。
そもそも花野はゾンビ。
既に死んでいる人間を殺すなど、矛盾している。
こうなれば、やはり頼れるのは、
「しょーちゃん、讃美歌を歌え!」
「……歌いません」
「お前……いい加減にしろよ!」
「ひっ。やめてください。乱暴だけは勘弁を」
「友達だから倒したくないってか? それどころじゃないだろ。早く歌え。被害者を増やしたくないよな!?」
「仰ってる意味がわかりません。歌ってどうにかなる問題ではないと思います」
あくまで従わない唱。
鯵紋寺は、唱の顔を見つめ、
「脅されてんの?」
「いいえ」
「じゃあ、そのアザは何だよ」
「え……」
今になってようやく、唱は自分の顔や体がアザだらけであることに気づいた。
殿に暴行を加えられた痕だ。
「しらばっくれてんでもないなら、本当にわからないのか?」
鯵紋寺に睨まれて、すくみあがる唱。
両手を合わせて、神様にお祈りする。
教室内は大混乱。
隣のクラスから教師や生徒が何事かと駆けつけて、騒ぎは大きくなる一方。
喧騒の中、鯵紋寺は唱の顎に手を添える。
「催眠にかけられてるんだとしたら、ショックを与えれば、元に戻るんじゃないかな」
「な、何を……」
「あんたみたいな真面目ちゃんには、これが一番効くよ」
鯵紋寺は唱の唇を奪った。
非力な唱がもがいたところで、鯵紋寺を振り払うことはできず、やがて抵抗をやめる。
「……どう?」
「や、柔らかかったです……」
「そうじゃなくて、思い出した?」
「え? ああ……ああ!」
思い出した。
殿の自宅で教祖と話したこと、かけられた催眠、ここに至るまでのすべてのことを。
もう唱を縛るものは何もない。
教室内の生徒を粗方殺し尽くした花野が二人に向かって、突き進んで来る。
鯵紋寺は唱の腰に触れ、
「しょーちゃん、歌え!」
雨がやむ。
喚きながら避難をしていた教師と生徒が静かになる。
校舎に綺麗な歌声が響きわたる。
神を讃える歌が時と場を支配していた。
花野は倒れ、動かなくなり、光を失う。
「……やっぱ、しょーちゃんって声が綺麗だな」
「ありがとうございま……す」
「どした?」
「いや、だって……先輩があんなことするから……」
「こいつ照れてんな」
血まみれの教室で、二人は心から笑った。
「不謹慎だけど、私すっごく楽しかったです。なんだか、ようやく本当の私になれたような気がします」
「……そうだな。自分らしくしてんのが一番大事だよな」
「もっと歌いたいです。先輩、伴奏をお願いします!」
「いいよ。じゃあ、行こう。今頃、あちこちで同じようなことが起こってるはずだから。しょーちゃんの歌で、みんなを助けてあげよう」
「はい!」
意気揚々と廊下に出ると、
「……お前もかよ……!」
ゾンビ化していた草ヶ部が、鯵紋寺の腕に噛みついた。
急いで唱は讃美歌を歌って、草ヶ部を倒したものの、手遅れ。
鯵紋寺はうずくまって、
「死ぬ……んだろうな。目がかすんできたもん……」
「鯵紋寺先輩!」
「……何してんだよ……早く行け」
「でも……」
「あたしがゾンビになるのは……多分、明日の今頃だから。その時になったら……歌ってくれよな……ほら、行け……」
* *
「あんたはね、頸木。く・び・き。わかる?」
あの時、教祖は唱に真実を告げていた。
「万一、意図しないタイミングで御尊体を流出しちゃった場合に備えて、あんたの歌声が御尊体を停止させるように仕組んでおいたの。もちろん、もう用済み」
最初から愛などなかった。
教団にも、家庭にも。
ただ道具として生み出され、育てられた。
* *
「先輩、大きいから、重たいです。……ここに置いて行ったらダメですよね……」
唱は鯵紋寺を背負って運びながら、ようやく校門まで辿り着いた。
これからどうすべきか思案する。
鯵紋寺の亡骸を手放したくなかった。
ないとは思いつつ、明日までに火葬されやしないかと気が気でなくて。
「んー!」
唱の前で停止した車から変な声がする。
「辰蔵さん……!」
唱を置いて逃げ出した殿だった。
車に乗れ、というジェスチャーをする。
唱は従った。
「あ、えっと、乗せてくれるんですよね」
「んー!」
「あ、喋れないままですか」
まだ教祖による催眠が解けない殿だったが、唱はキスしてあげようとは思えなかった。
「こちらは……ご存じですよね」
「……んー」
夫の様子から察するに、鯵紋寺と不倫していたのは本当のようだ。
なんとも気まずい。
しかし、それよりも今は、
「感染が広がってるみたいなんです。学校でも、私の友達がゾンビになりました……。じっとしてられません」
「んー!」
「連れて行ってくれるんですか」
「んー!」
殿はアクセルを踏む。
彼の考えは、人助けではなく名をあげることだが、協力することに変わりはない。
利害の一致。
車は横浜市内を突っ走る。
また雨が降りだした。
薄暗い景色の中に、白い光が点在している。
* *
「……あ?」
夢を見なかったから、自分が寝ていたと、すぐに思い至らなかった。
寒い。
正確に言えば、体が冷たい。
全身がかじかんでいるような感覚だ。
布団をめくって起き上がろうとしたところで、気づく。
――ここ家じゃないぞ。
「部室……?」
軽音楽部があった部屋に、鯵紋寺と、
「しょーちゃん!」
唱がすぐそばに立っていた。
すこしやつれているようだ。
優しげな笑顔を浮かべて、
「救いましたよ」
「……やるじゃん……ささすがあたしのの後輩!」
抱き締める。
唱の体がやけにあたたかい。
――そうか。あたしはもう……。
「先輩、無理を言って、部室を貸してもらいました」
戸の向こうには武装した警察が並んでいた。
決まり悪そうに、殿が背を向けたまま手を振っている。
「あの、先輩、言いにくいんですけど」
唱が小声で、
「私は辰蔵さんと結婚しましたけど、好きだったからではなくて、親に決められたからでして……」
「そーいや、いたたな、あんんなやつ」
「え?」
「よく考えええてみたら、あ脂ぎってるし、タバココ臭いいし、なんであんんなおっっっさんに惚れたたんだっけ」
二人は顔を見つめ合って笑った。
「あああたしたちち似てるるよね」
不意に鯵紋寺が言う。
「私は背が高くないですよ」
「そそんなこととじゃなくってさ。親ががイカれてるとこことか、男のタタタタイプとかか。だだから、しょしょーちゃんに惹かれれれたし、ほ本気でで嫌いになななったことももあった」
「私は、先輩のこと、自分なんかよりずっとずっとかっこいい人だって思ってます」
「しょしょしょーちゃんの方がががかっこいいいいいよ。ヒヒヒーローじゃんん。っっっっってかささ、か神様だだよね」
「それは先輩ですよ。私は先輩に何度も救われました」
振り返れば、他人のために奔走しているのは、神様でもなく、教祖でもなく、信者でもなく、鯵紋寺だった。
命を助けてくれたのも、愛を教えてくれたのも、
「先輩、あなたでした……」
後輩の目から溢れる涙を拭くと、鯵紋寺はピアノの前に座った。
「うううう歌ってよよよ」
「……はい」
鯵紋寺がピアノを弾く。
唱が歌う。
やがてピアノの音が鳴りやんでも、唱歌は続いた。
━ゾンビに甘美な讃美歌を・完━




