7.壁と距離
謎の襲撃から三日。あれからあの人を見かけることはなかった。とりあえずは平穏に戻ったと言っていいのだろう。――アッシュの変化を除けば。
アッシュが謎の成長を遂げてから三日。あれから急激な成長はないが、あの日を境にアッシュは変わったとレティシアは感じていた。
子供らしさが消え、体格も少しずつ大人のそれへと変化している。服も最初に着せていたものは着られなくなってしまった。
何より表情が変わった。眉間にシワを浮かべることが増え、何かを考えていることが不多くなった。
絶対に何かあったんだ。レティシアは確信していたが、肝心のアッシュは何も言ってこない。それどころか最近は塞ぎこんでばかりだ。
「それじゃあ仕事に行ってくるね」
「あぁ」
「夕飯、お鍋の中だからね」
「分かっている」
最後までアッシュはレティシアの方を見なかった。
接客の間、レティシアの頭の中は家に置いてきたアッシュのことでいっぱいだった。おかげで今日はするはずのないような失敗を繰り返している。
「レティ…。具合が悪いなら休んでもいいんだよ?」
三枚目の皿を割ったとき、見かねたアニーがついにレティシアに声をそう言った。粉々に砕け散った皿の破片を集めながら、レティシアは小さく「すみません」と謝る。アニーは軽く肩をすくめた。
自分でもしっかりしなくては、と思っている。それでもレティシアは、家に置いてきたアッシュが気になって仕方がなかった。
アッシュを見て閣下と呼んでいたあの軍人。彼は間違いなくアッシュのことを知っているのだろう。アッシュも記憶にないながらも、彼のことを気にしているみたいだった。
「もしかしてまずいことしちゃったのかな…」
変態だと思って、手加減なしに攻撃してしまった。相手も女と侮っていたのだろう。そうでなければ、軍人があんな簡単に膝をつくはずがない。
あの日以来、アッシュは様子がおかしい。それはアッシュ自身が感じていることだろう。眉間のシワは日に日に深くなっていく一方だ。
「…話してくれればいいのに…」
抱え込まず話して欲しい。レティシアはそう思っていた。口に出したところで、拒まれるだけだろうことも分かっているが。
拾ったときのアッシュはどこにいってしまったのだろうか。守らなくては、と思ったアッシュは…。今のアッシュは子供には似合わない雰囲気を身に纏い、誰も寄せ付けようとしない時がある。
金色の髪に紫灰色の瞳。その姿に、時々息を呑むと同時に、どうしようもない畏怖を感じることがあった。
まるで、人を従わせるような何かが……。
「――レティ?」
「っ!」
急に声をかけられて、物思いに耽っていたレティシアは驚いて皿の破片を落としそうになった。背後を振り返れば、不思議そうな顔をしたアニーと目が合う。
「どうしたの?」
「…なんでもない」
「そ? それが終わったら注文を取りにいってね」
アニーの言葉に笑って頷くと、皿の破片を捨てるために裏口から路地へと出る。共同ゴミ捨て場に破片を捨てると、どこから視線を感じた。
顔を上げて辺りを見回すも、誰の姿もそこにはない。
「気のせいかな…」
疲れてるのかな、なんて思いながらレティシアはまた店へと戻った。
レティシアが開けた扉が閉まった瞬間、黒い外套をすっぽり被った人が物陰から姿を表す。その人はしばらく扉を見つめていたが、やがて路地の奥の闇へと姿を消した。
* * *
オーウェンは苛立っていた。そしてかつてないほど、自分に腹が立っていた。
予想外の事態に、動揺していたのは認める。それでも自分より年下の、なにより女の攻撃を防げなかったことに腹が立った。不意を突かれたとはいえ、なんたる失態。閣下に顔向けができないではないか。
そんなことを考えて、さっきの衝撃な展開を思い出し、オーウェンは再びどんよりと落ち込んだ。
「まさかこんなことになるとは…」
探し出した閣下は無事だった。五体満足だったし、大きな怪我もしていなかった。
重大な問題が起こっていたが。
部下に聞いてみれば、緊急事態での魔術発動だったために、何か副作用的なものが働いていたのではないか、と言っていた。そんなことを言われても魔術は門外漢なので、オーウェンにはいまいちピンと来ない。
何よりその部下たちも、今は防衛線の見張りのために戦地へと送り返した。オーウェンはただ一人、ここに残って捜索を続けている。
「ったく。どこに行ったんだか…」
オーウェンの脳裏に、閣下とともに居た少女の姿が蘇る。きっと閣下を見つけて保護してくれた人なのだろう。こっちを見る表情は閣下を守らなくては、という思いであふれていた。
「とにかく、すぐに閣下の身が危ないってわけではなさそうだな…」
一刻も早く閣下を見つけ、その身を保護しなくてはならない。閣下の身に起こった問題はそれから考えよう。
オーウェンは下町の安い酒を飲みながら、事態を楽観的に考えてみるのだった。