5.変化するとき
レティシアが部屋に戻ったとき、室内は真っ暗だった。そんな暗い室内の様子にレティシアはぎょっとする。部屋の奥には膝を抱えたアッシュの姿があった。
アッシュはレティシアが戻ったことにも気がつかないほど物思いに耽っていた。その子供らしからぬ姿に、レティシアの心臓が不自然に跳ねる。
改めてレティシアは、アッシュが不思議な子供だと思った。
レティシアが見つめるアッシュの横顔は、同年代の子供よりも大人びた表情をしている。癖のない金髪は外の明かりに照らされて輝いて見えた。
もしかしたらアッシュは貴族の子供かもしれない。それはレティシアがアッシュを拾った時から考えていることだった。だとしたらこんな所に居るような子ではないのだろう。
レティシアはアッシュの横顔を見つめながら、川向こうの街に連れて行こうか迷った。貴族の子息なら捜索隊が出されているかもしれない。連れて行けば、身元も分かるだろう。そしたらもっと良い環境で、良い医者に診てもらえることができるはずだ。
「――川向こうの街に行く?」
「っ!」
物思いに耽っていたアッシュは、聞こえてきたレティシアの声に肩を震わせた。こちらを見るアッシュの双眸は驚きに満ちている。
珍しく子供っぽいその表情に、レティシアは思わず微笑んだ。初めてアッシュの子供染みた顔を見た気がする。
「川向こう…?」
「うん。もしかしたらアッシュの両親が探しているかもしれないから」
その言葉に、アッシュはわずかに顔をしかめた。あまり喜んでいないように見えるのは、アッシュの記憶が戻っていないからなのだろうか。
アッシュがどこの誰かは分からない。怪我をしていた理由も、記憶を無くした理由も。それでもレティシアには悪い人には見えなかった。だからあの雨の日、アッシュを助けることを決めたのだ。
面倒は最後まで見る。「やると決めたことは最後までやりなさい」亡きレティシアの母の言葉だ。
「アッシュはどうしたい?」
覗きこんだアッシュの瞳が揺れる。隠し切れない動揺が見えて、レティシアはアッシュの体を優しく抱きしめた。
子供特有の温かい熱がレティシアの体を熱くする。ゆっくりと背中を叩いてやれば、アッシュが息を吐き出すのが分かった。
「……ここに、居たい」
「うん。分かった」
小さな呟きにレティシアは大きく頷く。安心したように頬を緩めるアッシュに微笑みかけて「ご飯作るね」背中に回した腕を解いた。
テーブルに置きっぱなしの蝋燭に火を点けて、部屋の中にあるランプに火を灯していく。
アッシュはそれを何ともいえない表情で見ていたが、後ろを向いていたレティシアには見えなかった。
* * *
「相変わらず差が激しいな…」
レティシアは目の前に広がる光景に、思わずため息をこぼした。川を一つ越えただけでこんなに違うとは。
通り過ぎる人々はわずかに顔をしかめながら、レティシアの横を通り過ぎていく。この街に何回来ても、あからさまなこの視線には慣れない。
レティシアは川向こうにある、いわゆる「高級住宅街」というところに来ていた。レティシアの住んでいる下町とは違って綺麗に舗装された道がどこまでも続いている。
奇妙な居心地の悪さがレティシアを襲う。きっとこんな所に来慣れていないからだろう。
一つ深呼吸すると、レティシアは街の保安署を目指して歩き始めた。
レティシアの目的はただ一つ。アッシュの身元を調べるためだ。アッシュは川向こうの街に来ることを嫌がっていたみたいだが、やはりこれが手っ取り早いだろうと思ったのだ。
レティシア自身もお人好しだな、ってちょっと思っている。でもアッシュの不安そうな顔を見ると、どうしても放っておけないのだ。
やがてレティシアは保安署にたどり着く。
「…パッと聞いてパッと帰ろう」
決意も新たに、レティシアは保安署に足を踏み入れた。意を決して受付に立っていた男の人に声をかける。「あの・・・!」男の人はレティシアを振り返った後――一瞬にして不機嫌な顔になった。
大方、レティシアのよれよれの服装を見て下町の人間だって思ったのだろう。間違ってはいないが、さすがにカチンとくる。
「何か?」
「あの、子供捜索とかってされてませんか? 迷子の報告とか…」
「特にありませんが、それが何か?」
「いえ…」
言いよどむレティシアの様子を、男の人は不振そうに見る。レティシアは慌てて「ありがとうございました」と叫んで足早に保安署を出た。
あぁ…怖かった。別に自分が悪いことをしたわけではないのだけど。
川を越えるたびに妙な居心地の悪さを感じる。それはある種の疎外感なのかもしれないが。
早く帰ろう。そう思ってレティシアは下町の方へと歩き出した。何も収穫がなかったことに少しだけ落ち込む。
当てが外れたレティシアは完全に八方塞だ。あとはアッシュが記憶を取り戻すのを待つしかない。それもいつになるのか分からないのが現状なのだが。
レティシアはアニーのお店を目指して、下町の迷路のような通りを抜ける。そのとき、見慣れた町の中で一つだけ異質なものを見つけた。
「あれ…?」
街角に立っていたのは黒い軍服に銀の徽章を付けた男。間違いない。国軍の人間が立っている。なんでこんな所に軍の人間が?
セルヴィン国は長い間、戦争をしている。だから軍人が往来を歩いていても不思議ではない。だがそれは、戦線近くならばの話だ。
レティシアの住んでいる街は確かに王都よりは国境に近い田舎街だが、戦線に近いという距離でもない。軍人が単独で居るには少々不自然だ。
人には荒くれ者も多いと聞くから、絡まれると面倒だ。そう思ったレティシアは、道を変えようと通りを見回す。
「レティシア?」
聞こえた声はここ最近で聞きなれた声だった。聞こえた方を振り返れば、不思議そうな顔をしたアッシュの姿があった。
レティシアはアッシュと目が合うと微笑んだが、すぐにその笑みが消えて怪訝そうな顔になる。
訝しげにアッシュを見つめるレティシアの姿に、アッシュはわずかに顔をしかめるとレティシアの方に近づいてきた。
「どうしたの?」
「えっと……」
なんだろう。変な違和感。家を出る前と後ではアッシュの印象が変わったような…。
じっとアッシュを見つめていたレティシアは、やがて自分が見つけた違和感の正体に気がついた。
「アッシュ…もしかして背、伸びた?」
「え?」
今度は聞かれたアッシュの方が怪訝そうな顔をした。そのまま自分の体を見下ろす。
レティシアはもう一度アッシュの姿を見て確信する。伸びた。絶対に成長している。十歳前後に思われたその姿は、今では十三歳から見ようによっては十五歳くらいに見えた。
一旦、アッシュの変化に気づいてしまうと、色々なことがレティシアには違って見えてきた。
体格も子供っぽさが抜け、男らしくなっている。手足もすらりと伸び、以前よりも貴公子っぷりが増したようだった。
「何かしたの?」
「何も」
アッシュ自身も自分の変化に戸惑っているようだった。
記憶が戻るどころか、アッシュの姿が変化してしまった。考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。
二人はお互いの顔を見つめ合い、共に首を傾げる。そんな二人に忍び寄る一つの影。
「――閣下?」