4.違和感
よく晴れた昼下がり。アッシュは誰も居ない部屋の中で一人椅子に座りながら本を読んでいた。開いた窓からは下で遊ぶ子供たちの声が聞こえてきた。アッシュは何気なくその様子を見下ろす。
先ほど、あの子供たちがアッシュのことを誘いに来た。どうやらレティシアからアッシュのことを聞いたらしい。だが本を読むアッシュを見て奇妙な顔をした。
「お前、本なんか読めんのか?」
「…読める」
「ふーん…変な奴」
面と向かって変な奴と言われたアッシュはさすがにムッとなったが、相手に他意はなかったらしい。聞けば彼らは本を読んだことがないと言う。これには逆にアッシュの方が驚いた。
外で遊ぼう、と誘ってくる子供たちに首を振り、アッシュは再び部屋に戻る。手元にはさっきから読んでいた本。文字も読めるし内容も分かる。
さっきアッシュを誘いに来た奴らによると、文字を読み書きできる人間はここら辺ではレティシアくらいらしい。もちろん簡単な単語くらいなら誰でも読めるのだが、文章を読む・書くということになると、ほとんどの人間が難しいと言っていた。
「俺は勉強をさせてもらえるような家の人間だったのか…?」
はたまた勉強をしなくてはいけないような家だったのかもしれない。
最近ではアッシュも、自分が普通の子供とは少し違うと思い始めていた。物事の捉え方、考え方が同年代とは違っているらしい。
記憶がない。それはもどかしいと同時に、ひどく頼りない気持ちになった。もしかしたら自分という存在に、確固たる証明や自信がないからかもしれない。
アッシュは自分の両手を見下ろした。自分の姿に違和感を覚えるのは記憶がないからなのだろうか。
どうしようもない不安を覚えて、アッシュは苛立たしげに舌打ちをした。どうやら自分という人間は、あまり気が長いタイプではないらしい。
目を閉じて自分のことを考えるとき、アッシュは自分が暗闇の中に放り出されたような感覚に陥る。それでも集中していくと、何かが思い出せそうな気がした。
深い暗闇の中で自分自身を見つめる。その感覚はどこか懐かしくて。
――エル……。
「っ!」
アッシュは一瞬、何かを思い出した。そのことに動揺して思わず集中力が切れる。その瞬間、テーブルの上に置いてあった蝋燭が勝手に発火した。
蝋燭の燃える臭いが部屋に満ち始める。アッシュは呆然とその光景を見つめた。
「なんで…」
蝋燭の自然発火。この異常事態に、アッシュの心臓は早鐘のように速くなっている。それでもだんだんと落ち着いてくると、蝋燭の炎も揺らめきながら消えた。
「………」
この不可解な現象を前に、アッシュはただ、火の消えた蝋燭を見つめることしかできなかった。
* * *
オーウェンは不機嫌だった。この上なく不機嫌だった。
予想通り軍会議は荒れた。閣下の失踪だけでも衝撃的だったのに、それを敵に知られていると分かると上層部は泡を食ったように慌て始めた。
いかに閣下に頼っていたが分かるというものだ。
「それで…会議ではどうなったんですか?」
若い兵士の言葉にオーウェンはため息をつく。それだけでろくな会議にならなかったことが分かった。
「とりあえず防衛線を張ることになった。魔導軍は交代で見張りに立つ」
「えー…」
「文句を言うな。この状況じゃあ魔術で攻撃を仕掛けてくる可能性が一番高いんだ」
オーウェンだって文句を言いたいのだ。ただでさえ人が足りてない魔導軍なのだ。交代とはいえ、この状況が続けばこっちが先に潰れてしまう。
先ほど部下が、閣下の使用した魔術を特定した。閣下は転移魔法を展開し、あの場から脱出していた。あの場合、咄嗟に出てしまったという方が正しいかも知れないが。
「閣下の得意魔術だったしな…」
「え、何か言いました?」
オーウェンの独り言が聞こえたらしい部下に「なんでもない」とだけ言って、深くため息をつく。
魔術は普通に発動していた。調査した部下によると綻びもなかった様だから、無事転移先に送られたと考えて間違いないはず。
――それなのに。
「なぜ連絡がないのだ…」
危険から身を守るために逃げたのならば、もう戻ってきてもいいはず。戻れなかったとしても、連絡くらいはできるはずなのに。
閣下からは連絡も何も来なかった。あの人に限って職務を放棄することはない……と思いたい。
あぁ…頭が痛い。オーウェンが何度目かのため息をついた時、部下がオーウェンの居る天幕に飛び込んできた。その様子に、オーウェンは驚いて目を丸くする。
「どうした?」
「閣下の魔術の発動を感知しました…!」
「……なに?」
一瞬、オーウェンは部下が何を言っているのか分からなかった。部下はもう一度ゆっくりと
「閣下の居場所が特定できました!」と叫ぶ。その瞬間、オーウェンは椅子を蹴倒して立ち上がる。
「どこだ!」
脱ぎ捨てていたマントを羽織り、立て掛けておいた剣を腰に差すとオーウェンは天幕を飛び出した。部下は足早に進むオーウェンの後を必死に追いかけながら、ある街の名前を告げる。その名前にオーウェンは眉根を寄せた。
「…遠いな」
馬で行けない距離ではないが、それでは時間がかかりすぎる。
オーウェンの逡巡を悟ったらしい部下は、すぐにオーウェンを木立の奥の方に案内した。
「転移魔法を用意しています」
察しの良い部下に、思わず苦笑が漏れる。
ようやく見え始めた希望の光に、オーウェンは心から安堵の息を漏らした。