45.ある意味で拷問
エルバートは書類を淡々と処理しながら、何度目かしれない溜め息をついた。オーウェンは聞こえてきた溜め息に顔を上げてエルバートを見たが、その視線にエルバートを気づかない。
「閣下、なんかあったんですかー?」
「…………」
「閣下ー?」
オーウェンの言葉はエルバートには完全に聞こえていなかった。また溜め息をつき、書類へと向かう。
本日、レストン邸には多くの商人が出入りしている。それは全て客人のレティシアのためだ。
初めての舞踏会を迎えるレティシアのために、エルバートは舞踏会に必要な全てのものを揃える約束をした。今日、レティシアは人生で一番大変な思いをしているだろう。
「……大丈夫だろうか」
「何が?」
心配そうに声を漏らしたエルバートの元にオーウェンが近寄ってくる。手には新たな書類。それを見て、また溜め息が出てしまった。
いつまでも一人でブツブツと気鬱そうにしているエルバートに痺れを切らし、オーウェンがエルバートの机にかじりつく。それを見てエルバートの顔が不機嫌そうに歪む。
「なんだ?」
「さっきから閣下が溜め息ばっかり付いているから。なんかあったのか?」
問われて再び脳内に不安が浮かび上がる。レティシアは無事にやっているだろうか。そんなことばかりが頭を駆け巡った。
動きが鈍くなるペンを机に置き、オーウェンを見上げる。オーウェンが期待に満ちた目をエルバートを貫いた。
「……今、屋敷に商人が出入りしている」
「うん? なんで?」
「レティシアのために」
エルバートの言葉にオーウェンは納得した。なるほど。舞踏会のための準備か。
レティシアはドレスも宝飾品も持っていない。エルバートはそれを揃えるつもりなのだ。内心で張り切っているような気がして、オーウェンはにやにやする。
オーウェンのにやにやを呆れたように見ていたが、特に深くつっこむことはやめた。何を言っても揚げ足を取られるような気がしたからである。
「なるほど、お嬢ちゃんが心配なわけね」
「…………」
「でも心配することなんてないだろう? 閣下の屋敷の使用人は優秀な人材ばかりだし」
まさかそれが心配の根源だと、エルバートは言うことができなかった。
エルバートは20歳も超える成人男性だ。結婚適齢期を過ぎたとは言わないが、貴族男性なら身を固めてもおかしくない年齢にはなっている。そしてエルバートは将来有望な貴族だった。王家の血筋であり、軍籍に身を置いている。
しかしエルバートには女性の影がなかった。びっくりするくらいなかった。
それなりに浮名を流した時期もあったが、王立魔導軍を創設してからは自ら仕事に忙殺される日々に埋もれていった。それ以来、エルバートは仕事が恋人のような日々を送っている。そんな中に降って沸いたように現れたレティシアである。
使用人たちは諸手を上げて喜んだ。彼ら曰く、ついに嫁を迎える時が来たと。さらにエルバート自身が屋敷に連れ帰ったものだから、その喜びに拍車をかけることとなった。
「でもお嬢ちゃんのドレス姿、可愛いだろうなぁ」
オーウェンの何気ない一言に、エルバートの書類をめくる手が止まった。
実はこれについては、朝から考えてしまっていたりする。それも何度も。
レティシアの身の物を揃えると決めた時、王都一の仕立て屋や宝飾商人を呼ぼうと決めていた。それはバルドロイ元帥に対する見栄もあったが――儂の方が良いものを揃えられると言われたら腹が立つから――喜んで欲しいと純粋に思ったからだった。
エルバートが記憶を失って行き倒れた時、レティシアは決して豊かではないにも関わらず、たくさんのものを与えてくれた。エルバートはそれに報いたいと思っている。
「……なかなかうまくいかないものだな」
例えば綺麗なドレスを与えること。高価な宝石を買い与えること。大きな屋敷を作り与えること。そんなことをしてもレティシアは喜ばない。
レティシアが本当に喜ぶものが分からない。それでも自分ができる最大のことをしても彼女が喜ばないことは分かった。
「閣下も舞踏会には参加するんだろう?」
「その予定だが?」
「ふむ……。また騒ぎになりそうだな。いろんな意味で」
その言葉の意味がよくわからず、エルバートは首を傾げる。それを見てオーウェンは苦笑を漏らした。
エルバートは自分が色々な意味で魅力的な貴族だと理解している。しかしそれが世の中のお嬢様方にはどう見えて、どんな行動をさせるのかということまでは頭が回らないらしい。
「血が流れないといいんだけど……」
久々のエルバートが出席する舞踏会。きっとその噂は、矢よりも早く貴族間を駆け抜けただろう。今ごろは独身の貴族女性が色めき立ってドレスなどを新調しているのではないだろうか。
「お嬢ちゃんのエスコートは閣下がするんだろう?」
「そのつもりだが?」
「なるほど……」
これはますます貴族のお嬢様方はレティシアの存在に注目するだろう。その肩書きと、エルバートがエスコートするという事実に様々な憶測を巡らせるに違いない。
舞踏会場で繰り広げられるかもしれない死闘を考え、オーウェンはその妄想を頭から放り出した。投げ出したとも言うが。
考えてもオーウェンにはわからないし、エルバートがなんとかするだろう。
「どうでもいいけど、お嬢ちゃんはダンスとかできるのか?」
「できないと言っていた。付け焼刃で憶えて大変な思いをさせるよりも、足を怪我したことにして一度も踊らない方が良いだろう」
「なるほど」
「ただマナーは憶えてもらわないと困るから、今日から教師が面倒を見ている」
「それはそれは……」
オーウェンは今ごろ屋敷で悲鳴を上げているレティシアのことを考え、心から健闘を祈った。
--果たしてレティシアは、応接室のテーブルで己の身を嘆いていた。
何度目かは分からない叱責の声に、レティシアの背がビクリと反応する。
「いけません! 猫背にしては」
「はいっ!」
「顎を引いて……引きすぎです! 腕は肩から動かすことを意識して。……落としたものは拾いません!」
慌てて拾おうとしていた手をひっこめた。その間にも教師の叱責の声が響く。
美しい歩き方や紅茶の飲み方。テーブルマナーに座っているときの姿勢。はっきり言って拷問だ。それもかなり厳しい部類の。
レティシアは今まで使ったことのない筋肉が悲鳴を上げるのを感じた。くじけそうになると同時に、貴族のご令嬢方に感嘆した。
こんな拷問を乗り越え、苦行のような体勢で優雅に紅茶を飲んでいたのか。凄すぎる。レティシアには苦しすぎて味も分からなくなっているのに、笑顔で談笑するなんて凄い高等技術だ。
レティシアは教師の目を盗み、そっと息を吐く。こんなテーブルマナーを覚えてもこの先使う機会があるのだろうか。そんな現実逃避をしながらも、背筋を伸ばしてにっこり微笑んでおく。
「口角を意識してくださいね。常に上がっているように。それだけで良い印象を与えることができます」
「はい」
「会話は話すことよりも聞く姿勢が大事ですよ。話を聞いているという思いが話す意欲に繋がり、聞いてくれる人への興味関心に繋がるのです」
教師は厳しいが、言っていることは大変ためになった。基本的に勉学が嫌いではないレティシアは、素直に教師の話を聞く。その様子を見て、教師も熱心に指導していった。
「さぁ! 今度は男性にリードを任せての歩き方ですよ! そこのあなた! 協力して下さいな」
壁際に立っていた従僕が教師の鋭い声にすっ飛んでくる。レティシアは彼の腕に自分の腕をからませながら、言われるままに歩いた。
長いドレスの裾が足元に絡み、しかも履いたことのない踵の高い靴がレティシアを不安にさせる。それでもレティシアは言われたことをこなそうと一生懸命に足を動かした。
全ては王宮の舞踏会のため! ……本当はあんまり行きたくないのだけど。
室内を円を描くようにして歩きながら、屋敷を出る前のエルバートを思い出す。
エルバートは玄関ホールまで見送りに来たレティシアを振り返り、少し困ったような顔をした。
『今日は教師が来るから』
『教師?』
『マナーとか教えてくれるから。……頑張れ』
そう言って優しく頭を撫でて出掛けて行く。その背中をレティシアはじっと見送った。
どこまでできるかは分からないけど。
「…………頑張ろう」
レティシアは決意も新たに大きく一歩を踏み出した。