44.魔法の準備
元帥の屋敷から帰宅した翌日、レティシアは侍女たちに叩き起こされた。
いきなりのことで目を白黒させているうちに、寝台から転がされるように起こされ、洗顔と着替えをさせられる。
「え、ちょっと。なんなんですか!?」
「ふふふ。ついにこのときが来ましたわ!」
急かされるように部屋を出され、二階の奥にある応接間に連れて行かれる。思わず大きい声を出して文句を言えば、背中を押す侍女――ルイーズ――が人の悪い笑みを浮かべた。
鬼気迫るその様子にレティシアは何も言えなくなる。そうこうしているうちに、目の前には応接間の扉が。すでに待機していた二人の侍女がその扉を思いっきり開けた。
そこには見たことのない世界が広がっている。様々な靴や鞄。布地の見本やパターン、そして色とりどりの宝石たち。
「これはいったい……」
「あら、いらしたんですね!」
「はい?」
聞こえてきた声に振り返れば、品の良い素敵な女性が立っていた。
スミレ色のエプロンドレスを身に纏い、腰元には道具の入った鞄のようなものがある。栗色の髪を丁寧に編みこんでまとめあげているその人は、駆け足でレティシアの元に近寄ってきた。
「初めまして! この度はマダム・ソルキールの洋服店をご利用いただき、誠にありがとうございます! 私、今回ドレスを担当させてもらうマリーです!」
「はぁ……」
にっこり笑顔でお礼を言われたが、レティシアにはさっぱり意味が分からない。これはいったいどういうことだろうか。
不思議そうにしているレティシアを見て、ようやくルイーズが布地を豪快にテーブルに広げながら教えてくれた。
「エルバートさまから聞いていませんか?」
「え? 何を?」
「ドレスを作るってお話したと言っていたんですが……」
言われて思い出す。確かに言っていた。ではこれは舞踏会用のドレスを作るということなのだろうか。
広げられた布地。完全オーダーメイドで作られようとしているそれらに、レティシアは喜ぶどころか青くなった。庶民のレティシアには想像でしかないが、とてつもないお金が飛んでいくことだけはわかる。
どうしよう。舞踏会に行く日の私はいったい総額いくらなのだろうか……。そんな想像をして、レティシアは目の前が真っ暗になった。
「レティシアさま? どうかしました?」
遠い目をしているレティシアをルイーズは不思議そうに見た。まぁ、大人しくしているならそれでいいか。そう思ったルイーズはマリーのところに引っ張っていく。
マリーは手早くメモ帳とメジャーを用意すると、レティシアの前に立った。真剣な表情でレティシアの腰回りにメジャーを当てる。
「あの?」
「しっかり立って下さい」
「あ、はい……」
マリーが何をしているのか分からなくて、屈もうとしたら叱られた。レティシアは反射的にピシッと背筋を伸ばす。
メジャーがレティシアの身体のあちこちの大きさを測っていく。それこそレティシアが知らなかった部位まで。マリーはメモ帳に次々と書き込んでいく。それが終わるとドレスの絵が描いてあるたくさんの用紙をテーブルの上に並べた。
「どうぞお座りになって下さい。こちらを見ていただけますか?」
レティシアは言われるままに、ソファーに腰掛ける。マリーは向かい側に座るとレティシアに楽しそうにドレスの型が載った紙を見せた。
「気になったのありますか? これなんかは今期の流行を取り入れたものなんですけれど」
そう言って差し出された紙にはスクエア襟のシンメトリードレスが載っていた。裾の部分には造花があしらわれ、ドレス全体にはレースがふんだんに使われていた。
想像でしか見たことのないようなドレスがそこには描かれていた。一つとして同じ形のものはなく、どれも素敵なデザインだった。
思わず感嘆の息をこぼす。うっとりとドレスのデザインを眺めるレティシアを見て、マリーも嬉しそうに笑った。
「レティシアさまは藍色の瞳がお美しいですから深藍から紫のドレスなんていかがでしょう?」
「あら、赤色系もお似合いなると思いますわ」
「緑色に近い青色もきっと素敵よ。青磁色とか」
布見本や色見本を片手に侍女の皆さんもテーブルの周りに集まってきた。誰もが楽しそうに話しているので、レティシアの頬もつい緩む。
こんな風に歳の近い女の子と話したの、すごく久しぶりかもしれない。それに下町は生きることに必死で、楽しく話す余裕もあまりなかった。
レティシアがふふっと笑い声を漏らすと、周りに居た侍女たちがハッとなった。それから恥じるようにその場を離れようとする。レティシアは慌ててそれを引きとめた。
「待って。そのままでいいから」
「ですが……」
「さっきみたいに仲良くしてくれた方が嬉しいの。世話してもらうのも、あんまり慣れてないし」
祖父の血筋が侯爵家だったとしても、レティシア自身は下町育ちの普通の人間なのだ。正直なところ、お嬢様扱いには慣れてないし恥ずかしい。
だからお願い。そう可愛らしくお願いするレティシアに、侍女の皆さんもついついほだされてしまう。それに何よりレティシアはエルバートの嫁候補。ここでダダをこねて逃げられたら困るのだ。だから侍女たちは笑顔で頷いた。
再び全員でドレスの型が載っている用紙を覗き込む。あーでもない、こーでもない、と侍女の皆さまの方が真剣に話している。流行などに疎いレティシアは、ただ感心して話を聞いていた。
最終的に様々な希望を聞いて、マリーがデザイン画を仕上げて行く。既成のデザインを使うのではないのか、と聞いたらマダム・ソルキールではオーダーメイドが基本で、同じデザインのものは作らないらしい。
「レティシアさまはデコルテラインが綺麗ですから、いっそのことがっぱりと首元は開けちゃいましょうか」
「がっぱり!?」
「それならスクエア襟の方がいいですかね? あ、丸襟で薄いレースを付けるのもいいかも」
「ドレスは真ん中を開けて中から薄い色合いのドレス布が見えるようにしましょうか」
「造花をあしらって……どうしたんです?」
マリーとルイーズたちの話を聞いていたレティシアの顔色はなぜか悪かった。それを見て全員が首を傾げる。
レティシアはたった今、マリーが描いたドレスデザイン画を見る。華やかで素敵なドレスだ。しかし問題はこれを着るのはレティシアということである。
正直なところ、自信がない。こんなに素敵なドレスを着こなせる自信がまったくなかった。
「あの……」
「はい?」
困った顔でマリーを見るレティシア、全員が覗き込む、レティシアは懇願するようにマリーのことを見つめた。
「あんまり派手にしないでくださいね……?」
上目づかいで懇願するレティシア。マリーはしばらく考えるように宙を見てそれからにっこり笑った、
あ、この人絶対にレティシアの言うこと聞く気ないな。
侍女たちはマリーの清々しい笑顔を見てそう思った。レティシアに言うことはしなかったが。
「他に何か要望はありますか?」
「特には……」
「欲がないんですねぇ」
ルイーズが驚いたような声を上げたが、レティシアの本心だった。
マリーの描いたデザイン画とにかく素敵で、それだけで十分に思えたのだ。他に何も思いつかなくて、ただ首を振る。
そんな健気な様子のレティシアに心打たれたマリーは職人として最高のドレスを用意しようと心から誓った。テーブルに散らばっているデザインがなどを回収すると素早く席を立つ。
「では戻ってさっそく製作に取り掛かりますね。ある程度形ができたらまたお持ちします。ご試着して、具合を見てから補正致しましょう」
「はぁ……」
「待ってて下さいね。それではこれで失礼します!」
なぜマリーがそんなに意気込んでいるのかさっぱり分からないが、レティシアは勢いに呑まれるまま頷いた。
とにかくこれで終わった。そう思って肩の力を抜いたとき、レティシアの前に大量の靴が並べられる。
「……うん?」
状況が読めなくてルイーズを見てみれば、彼女は楽しそうにたくさんの靴たちを指差す。
「舞踏会で履く靴を決めなくていけませんね」
「え?」
「オシャレは足元からですよ、レティシアさま!」
そう言って微笑むルイーズの後ろには、様々なものを持っている侍女たちの姿が。
長い一日になりそうだ……。そうレティシアが確信した瞬間だった。