43.帰路
室内に漂う微妙な空気が変わったのは、衝撃から立ち直った元帥がレティシアをギャラリーに誘ったからだった。
「アマーリアや妻の肖像画もあるんじゃ。ぜひ見て行っておくれ」
そう言われては断れない。というか、レティシアには断るつもりなどなかった。誘われるまま二階に上がり、重厚な扉の奥へと案内される。
そこは部屋の上部に明かり取りの窓が設置された、天井の高い部屋だった。壁には大小様々な絵画が掛けられている。
レティシアはすぐにその肖像画を見つけた。表情豊かに微笑む母親。記憶にあるよりもずっと若い。
「それはちょうどレティシアと同じくらいの年の時に描いたものじゃ」
「綺麗……」
額縁の中で微笑むアマーリアは輝いていた。着飾っているから、ということではない。彼女が生まれながら持っているものによって輝いているように見えた。
下町でもその美しさと気さくさでモテモテだった母。社交界ではさぞかし衆目を集める存在だっただろう。
「お前はアマーリアに似ておるよ。隣の絵がお前のお祖母さんじゃ」
隣の絵に目を移せば、藍色の瞳を優しく和ませた穏やかそうな貴婦人が微笑んでいた。初めて自分の祖母に、レティシアは見入る。
似ているのは藍色の瞳だろうか。線の細そうな、元帥の隣に立つには覇気がないようにも見える人だ。しかし彼女の絵を見つめる元帥の目は隠しきれない愛情に満ちていて、二人が愛し合っていたことが分かる。
不思議な感覚だ。急に家族が増えた。くすぐったいような、でもそれが心地いいような。
「いつ亡くなったんですか?」
絵の中の祖母の絵はまだ若い。しかし今、この場に居ないということは、もうすでに亡くなったのだろう。
「まだアマーリアが小さいときじゃった。当時はひどく落ち込んで、食事も通らなくてのう。アマーリアには心配をかけてしまった」
「想像付きませんね」
飄々と言ってのけるエルバートを軽く睨み、レティシアはまた絵に目を戻す。そっか。お母さんが小さいときに亡くなったのか。
アマーリアは自分のことよりもいつでもレティシアのことを優先した。良き母であることを何よりも大事にしていたのだ。それは、自分が小さいときに母親を亡くしたからもしれないと思った。
レティシアは目に焼き付けるように絵を見た。そんなレティシアをエルバートは一歩離れて見つめる。
突然家族が増えて、しかもそれが王宮に仕える軍人だと知って、レティシアは混乱しただろう。でも家族が増えたことは素直に良かったと思う。
――だけどその一方で。
「……我ながら性格が悪いな……」
レティシアがこのまま天涯孤独の身であればよかったのに、と思う自分も居た。もちろん意地悪からそう思うのではない。
レティシアが独りぼっちだと泣くのなら、自分がずっとそばに居る。何の躊躇いもなくそう思う自分に、エルバートは少し顔をしかめた。
知らない間に、自分にとってのレティシアは重要人物になっていた。同じ屋敷に住んでいても、その存在を探さずにはいられない。視界にその姿を収め、見つめていたい。
「溺れているな……」
オーウェンがエルバートの思考を読んだら、きっとそう言って笑うだろう。社交界に出席しても、女性のことなど歯牙にもかけなかったエルバートである。女性のことで頭を悩ませる姿は、さぞ周りに奇異に映るだろう。
しかしその変化を嫌がらない自分も居て。そんな自分をつい笑った。
「また遊びに来てもいいでしょうか?」
レティシアは絵から視線を移さずに、元帥にお願いする。その言葉に元帥は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんじゃ。いつでも遊びに来ておくれ。……なんなら、このまま住んだって――」
「レティシア、そろそろ帰ろうか」
レティシアとの同居を諦めきれない元帥が不穏な言葉発した瞬間、エルバートが手を取って部屋を出ようとした。そんな様子にレティシアは笑う。
そんな焦らなくても、一緒に帰るのに。なんの疑問もなくそう思うレティシアは、そう考える根拠については思い至らない。
一緒に居るのが当たり前。不思議とそう思っているレティシアが居た。
元帥はしょんぼりしながらも、二人を見送るために玄関ホールに向かう。それから思い出したようにレティシアの顔を覗き込んだ。
「レティシアは王宮の舞踏会に出席するんだったかの?」
「あ……」
忘れていた。そう言えば王妃さまに出席するように言われていたんだっけ。
目に見えてむっつりと黙りこむレティシアに、エルバートも元帥も忍び笑いを漏らす。行きたくない、という気持ちが全面に出ていた。
「わしが色々と用意してやりたいが……」
そこでちらりとエルバートを見れば、エルバートはむっつりと黙り込んでいた。こちらもなかなかに分かりやすい。
「まぁ、今回は小僧に用意してもらうと良いじゃろう。次会うときを楽しみにしておるよ」
その言葉に驚いたのは、エルバートだった。てっきり我がままをごり押ししてくると思ったのだが。
思わずエルバートは元帥の額に手を当てて、片方を自分の額に当てた。
「……なんじゃ」
「熱があるのかと思いまして」
「やかましい!」
真剣に熱を測るエルバートに吠え、肩を怒らせて屋敷の奥に戻っていく。その背中を二人はぼんやりと見送った。
「……帰るか」
「……うん」
なんだか疲れた。二人はそう思いながら、馬車に乗り込んだ。行きと同じようにゆっくりと進んでいく。
エルバートは目の前に座るレティシアを見て、ふと大切なことに気付く。
「ドレス、作らなきゃだな……」
「え?」
言われた言葉の意味が分からなくて、レティシアは首を傾げる。そんな様子にエルバートは笑う。やっぱり分かってなかったのか。
「舞踏会に出るならドレスを作らなきゃだろう?」
「作る?」
「そうだ。それに靴や宝飾類も揃えないとだな……」
当然のように返ってきた言葉にレティシアは呆然とした。
ドレスはまぁ、分かる。舞踏会に行くと言ってしまったから用意しなきゃいけないのは分かる。でも靴や宝飾類まで揃えなきゃいけないなんて……。
「どうしよう。お金ない……」
レティシアはかかる費用を考えて、真っ青になった。どうしよう。間違いなくお金が足りない。
借金まみれになる自分を想像して、レティシアは固まった。
黙り込むレティシアを見て、エルバートが笑う。
「大丈夫。用意はこっちで勝手にやるから」
「え?」
「それに元帥も張り切って用意すると思うし」
それはレティシアにも容易に想像できて、レティシアもエルバートと一緒に苦笑した。
ドレスや宝飾類は商人を屋敷に呼べばいいか。確か王妃がそういうのをまとめた書類を送って来たから、そこから選べば間違いないだろう。
目の前に座るレティシアを見て、彼女がドレスを身に纏っている姿を想像してみる。きっと誰も彼女を下町育ちだとは思わないだろう。
元々下町の人間にはない気品や優雅さ、といったものが垣間見えていたレティシアである。きっと着飾れば、隠れていたそれらは一気に表面に現れることになる。そうなれば、周囲の彼女を見る目も変わってくるだろう。
レティシアの目の前に広がる世界。様々な可能性。それを惜しいと思うのは、やはり自分勝手なのだろう。エルバートは己の身の内に巣食う思いを自覚し、苦笑いを漏らした。
「子供染みてるな……」
レティシアの世界が広がったら、自分以外の何かを――他の誰かを見るようになるのだろうか。そう思って溜め息をこぼす。
彼女をどうしたいのか、そう考えて思考はいつも行き止まりだ。エルバートの中に、具体的な未来像はない。ただ、そばに居たい。その欲求だけだ。
自分の手元を見つめて何事か考えているレティシアを、そっと眺める。しかしおもむろに彼女が顔を上げたので、心臓がドクンと大きく跳ねた。
「ねぇ、」
「ん?」
「舞踏会は一緒に居てくれるでしょう?」
それはエルバートが予想していなかった言葉だった。レティシアに頼られることなど想像の範囲外で、だからこそ反応が遅れる。
レティシアにとって舞踏会は未知の世界だ。いくら王妃さまに呼ばれているとはいえ、見知らぬ人間の登場に好奇の視線が突き刺さるであろうことは想像に難くない。
まさに針のむしろ。あるいは珍獣扱い。しかしレティシアはエルバートが側に居るなら、それも少しは耐えられるかな、と思った。
エルバートがレティシアの絶対的な味方であると、無条件に信頼しているからである。
だが肝心のエルバートは目を見開いたまま返事をしなかった。それを見てレティシアがふて腐れるように膨れる。
「嫌なの?」
「え? いや、そうじゃなくて」
「じゃあオーウェンさんに頼むからいい」
王立魔導軍の軍帥の副官だ。きっと呼ばれているはず。そう思って言えば、顎を思いっきり掴まれた。そのままエルバートと向き合うように方向を変えられる。
「俺が、側に居る。オーウェンじゃなくて俺が」
「…………」
「分かったか?」
「…………うん」
しばらく不満そうにレティシアはエルバートを睨んでいたが、あごを強く掴まれたので、渋々頷いた。それを見てエルバートは満足そうにしている。
なんだか納得できないでいたが、エルバートが一緒に居てくれるなら特に問題はないので、レティシアはそれ以上深く考えないことにした。
「なんだか楽しみになってきたな」
「そう? 私は憂鬱だよ……」
この先に起こるであろう未来を想像し、片方は口元を緩ませ、片方はげんなりと肩を落とすのだった。