39.真実
母は明るい人柄だった。
いつも笑顔で豪快で。弱音なんて吐いているところを見たことがない。──病気にかかって死ぬその瞬間でさえ。
目を見張るような美人なのに気さくで、下町のみんなに愛されていた。病気で日に日に弱っていっても、その美しさが損なわれることはなかった。
そして父を深く愛していた。きっと色々な人に誘われることもあったと思う。再婚だってできたはず。
それでもしなかったのは、父だけを愛していたから。
死ぬ直前、母のやせ細った手が私の手を優しく包み込む。穏やかな笑顔は、病気の苦しみ感じさせなかった。
『愛してるわ、どこにいても。あなたに世界中の幸せと喜びが訪れることを、いつでも願っているわ』
それが最後に言った言葉だった。
母の名前はアマーリア。父と駆け落ちする前はお父さんとお母さんと暮らしていた、ということしか知らない。
「レティシア?」
元帥を見たまま固まるレティシアをエルバートが怪訝そうに見る。しかし、レティシアは元帥から目を逸らさなかった。
亡くなった母を思い出す。目の前のこの人に、果たして似ていただろうか。
……母は熊男みたいではなかったが。
「どうした? なんかあったか?」
動こうとしないレティシアを不安そうに見るが、レティシアにはエルバートのことは目に入っていなかった。ただ目の前に広がる可能性だけを見ていた。
緊張の糸を破ったのは、元帥の穏やかな声だった。
「何か、気になることでもあるのかな?」
さっきまでの猛々しさも、飄々とした空気もない。そこには年相応の好々爺とした笑顔があるだけだった。レティシアはその表情にホッとしたが、エルバートとオーウェンは常にない表情にゾッとした。
「元帥の、娘さんは……家出をしたんですか?」
「……そうじゃ。身分の違う男と結婚すると言って家を飛び出した。それ以来、どこで何をしているのか……」
寂しそうな声がレティシアの鼓膜を震わせる。悲しそうなその表情に励まされるように、レティシアは小さく口を開いた。
「私の母は……駆け落ちでした」
唐突に始まった身の上話に、元帥だけでなくエルバート達もまた目を丸くする。しかし、レティシアはそれには構わず、淡々と話を続けた。
「母は金髪で、私と同じ藍色の瞳をしてました。美人なのに性格は豪快で……なぜか喧嘩がとても強かったです」
「…………」
「父との結婚を許してもらえず、家を飛び出したと言っていました。父は仕事場での事故に巻き込まれて、母は流行り病で亡くなって……」
話しているうちに涙が出そうになる。それでもなんとか元帥に話そうと思った。だって、もしかしたら。
「母の名前は……アマーリアと言います」
レティシアの言葉に元帥が息を飲むのが分かった。その目は驚きに見開かれていて、レティシアは自分が感じた可能性の大きさを実感した。
――もしかしたら、母は元帥の娘かもしれない。
話を聞いていたオーウェンは、レティシアがかつて自分にくらわせて来た護身術を思い出す。どこかで見たことがあると思っていたが、驚きに身動きのできない元帥を見て、唐突に理解した。
「あぁっ! どこかで見たと思ったんだ!」
「なにが」
突然大きな声を出したオーウェンに、エルバートが顔をしかめる。そんなことに構わず、オーウェンは興奮したようにレティシアに詰め寄った。
「君の護身術! どこかで見たと思ったら元帥が指導している体技に似ているんだ」
「なんじゃと?」
「ところどころ違ったけど、基本は同じだ。どこかで見たと思ったんだよ!」
答えを導き出せたオーウェンは満足そうに頷いたが、それを聞いた元帥はますます驚いた顔をした。それからまじまじとレティシアの顔を見る。
レティシアはそれを黙って受け止めた。やがて元帥の目元がふと緩む。
「……わしの娘は結婚を反対して出て行った。わしに似た金髪と妻に似た藍色の瞳の美しい娘でな。華奢な印象とは裏腹のおてんば娘じゃった。わしの周りをついて歩くもんじゃから、わしもついつい護身術なんかを教えてしまっての」
「ついついで護身術は教えないだろ」
「力のない女子供でも相手を伸せる即激必殺技を伝授したもんじゃった」
エルバートの冷静な突っ込みは見事に黙殺された。
元帥の手がレティシアの頬に延ばされる。その指先が触れると、元帥は顔をくしゃくしゃに歪ませた。
「君は、アマーリアにそっくりじゃ……」
「っ!」
「アマーリアは幸せだったんじゃな」
その言葉に涙がこぼれた。抱き寄せられるまま、元帥の胸に抱かれる。
不思議なことに、レティシアは安心したのだ。目の前に血のつながった家族と呼べる人が居る。そのことに。
下町のみんなはレティシアに優しかった。親を亡くしたレティシアに親切にしてくれる人はたくさん居たが、それでも家に帰ると一人ぼっちっで。
いつの間にかそれが普通になった。それでも母親が死んだ夜は、寂しさと悲しさで波が止まらなかったのだ。
「いつのまにかおじいちゃんになっていたんじゃなぁ」
「おじいちゃんなんて可愛いもんじゃあないだろ」
「こんな可愛い孫を持ててわしは幸せもんじゃな」
エルバートの呆れたような言葉はやっぱり黙殺された。エルバートが元帥に殴りかかろうとするが、オーウェンに止められる。
元帥はレティシアの髪を何度も撫でながら、ふと気になったことを聞いてみた。
「そう言えばなんで小僧と一緒に居るんじゃ?」
「それは……」
「今、俺の屋敷で一緒に暮らしてんだよ」
傲岸不遜に放たれた言葉に、元帥が固まる。確かにその通りだが、大事なことがだいぶ省略されていた。
レティシアは慌てて言葉を添えようとしたが、エルバートに怖い顔で思いっきり睨まれて、つい口をつぐんでしまった。元帥は胸からレティシアを離し、鋭い眼光でエルバートを睨みつける。
「……一緒に住んでいるじゃと?」
「そうだ。今日もこれから一緒に帰るところだし」
「王都での面倒を小僧が見てくれていたんじゃな。だが今日からはわしが見るから、小僧は一人で帰れ」
元帥がレティシアの右腕を引っ張る。負けじとエルバートが左腕を引っ張った。左右から思いっきり腕を引っ張られたレティシアは思わず痛みに顔をしかめる。
「ちょっと、痛いんだけど……」
「痛がってるじゃないか。離すんじゃ」
「元帥が離してください。そうすれば解決します」
二人は一歩も引こうとしなかった。あぁ、このままでは半分に分裂してしまうかもしれない。レティシアは本気でそう思った。
痛みに顔をしかめていると、レティシアの身体が宙に浮く。びっくりして持ち上げた主を見れば、呆れた顔をしたオーウェンが二人を見ていた。
「とにかく落ち着いてください。レティシアはどうしたいの?」
「え?」
「元帥と一緒に行くか、閣下と一緒に帰るか」
聞かれてレティシアは二人を見る。二人は互いに小突き合いながら、レティシアの返事を待っ
ていた。
元帥はレティシアの血のつながった家族。再会を喜んでくれ、聞きたいことも話したいこともある。
それでも今、一緒に帰るとするのなら。
「……元帥、」
「おじいちゃまと呼んでくれ」
「…………おじいさま、今日はエルバートと帰ります」
レティシアの言葉を聞いた途端、エルバートは右腕を高々と突き上げ、元帥は悲惨な顔をして落ち込んだ。一気に老けこんだようにも見える元帥に、レティシアは慌てる。
「なぜじゃ……おじいちゃまのことは嫌いなのか……」
「そうじゃないんです! ただまだ混乱してますし……」
そう言ってレティシアが元帥の手を取る。穏やかに笑うその顔に、元帥はしばし見とれた。
「改めてお屋敷にご訪問させてください。聞きたいこともたくさんありますから」
元帥はとても名残惜しそうに、それはそれは口惜しそうに「分かった」と答えた。それを聞いたエルバートは素早くレティシアの身体を抱きあげる。
レティシアは再び襲った浮遊感にびっくりして、エルバートの首にしがみついた。レティシアを腕の中に閉じ込めながら、エルバートが元帥に言い放つ。
「では。我々はこれで失礼させていただきますね」
「くっ!」
元帥は悔しげに顔を歪ませたが、邪魔をすることはしなかった。そのままレティシアを見上げる。
「わしの屋敷に来てくれる日を楽しみにしておるよ。君のおばあさんやアマーリアが子供のときのことを聞かせてあげよう」
「私もお母さんのこと、たくさん話しますね」
「それにレティシアのこともじゃぞ」
そう言う元帥の顔は完全に孫を愛しむ祖父そのものだった。レティシアはくすぐったい想いを胸に抱きながらも、大きく頷く。
それが面白くなかったのはエルバートである。まるで独占欲丸出しの顔でレティシアを抱きしめると、大股で部屋を出ようとした。オーウェンは笑いをこらえながら、部屋の扉を開ける。
「……おい、小僧」
「っ、」
不穏な言葉に、 エルバートの足が止まる。それからゆっくりと振り向いた。
「変なことをしたら…………分かっておるな?」
「…………」
それには答えず、エルバートは部屋を出て行く。そしてすでに横付けされていた馬車に乗り込むのだった。




