37.それは始まりの前兆
扉を控えめにノックされ、エルバートは書類から顔を上げる。すると扉の向こうから侍従に連れられて来た疲労困憊という言葉が似合いそうなレティシアが姿を現した。
レティシアはふらふらとソファーに座ると、重々しい溜め息をつく。そのおっさんにも似た姿にエルバートは悪いと思いながら少し笑った。
「……笑わないでよ」
「悪い。どうだった?」
「お茶は美味しかったわよ。……お茶はね」
そこに込められた思いに気づき、エルバートは苦笑する。小姓に飲み物の用意を命じ、エルバートもレティシアの隣に座った。
改めて見ても違う女性のように見える。もちろん今までの普通の町娘の姿も似合っていたが、今の恰好には本当に驚いた。
貴族の女性のように着飾ると、まるで生まれながらの淑女のようだった。身の内からにじみ出る気品に、ついつい目を丸くしてしまう。
「どうしたの?」
エルバートがレティシアを見たまま固まっているのを見て、レティシアが不思議そうな顔をする。エルバートはそれに曖昧に笑って視線を逸らした。
そうして二人で無言で飲み物を飲んでいたら、不意に扉が開く。そこから出て来たのはオーウェンだた。並んでお茶を飲む二人に、彼はちょっと目を丸くした。
「お、戻ってたのか、姫さん」
「姫さんはやめてください……」
からかうような視線にレティシアは少し顔を歪めながらも、オーウェンの分のお茶を用意した。男2人はそれを感慨深い気持ちで眺める。
「……なんですか?」
二人の視線が居心地が悪くてつい後ろを振り返れば、二人はお互いに顔を見合わせてなんとも言えない顔をした。
「なんか変な感じだな」
「何がですか?」
「貴族の女性は自分で飲み物を用意したりはしないからな」
言われてレティシアも自分が今、どんな格好をしているのか気づく。確かにこんな恰好をした女性は自分で動いたりはしないだろう。
人を呼んでやってもらうのが当たり前なのだろう。生まれた時からかしずかれることが普通のこと。そう思ってちょっと顔をしかめた。
「自分でできることだったから……駄目でした?」
こういう恰好をしているときは、淑女のように振る舞うべきだったのだろうか。そう思って聞いてみれば、オーウェンが楽しそうに笑った。
「いや、姫さんらしい」
「そうですか……?」
なんだか不安を覚えながらも、着々とお茶の用意をする。オーウェンはそれを受け取ると、嬉しそうに口に運んだ。
エルバートはなんだか感慨深い気持ちになった。貴族の女性は誰かにやってもらうことが当たり前で、こんな風に動き回るというのはあり得ない。それはもちろん、貴族全般に言えることだが。
自分である程度のことができると思っていたエルバートだが、考えてみれば屋敷を清潔に保ち、食事の用意をしてくれているのは、使用人だったのだ。代わりにエルバートは衣食住を提供している。それで十分と思っていた。感謝の気持ちを持ったことがあっただろうか。
考え込むエルバートをよそに、レティシアは自分の恰好を見下ろして顔をしかめる。
「それにしてもドレスって動きにくいですね。袖口が汚れそうで不安です」
「ドレス着てそんなにちょこまか動くことを想定されてないからなぁ」
レティシアは不便だな、と感じた。まぁ貴族の人はこんな風に動き回ったりしないで、椅子に優雅に座っているものか。
そこまで考えて、レティシアは少し顔を歪ませた。それに気づいたエルバートが首を傾げる。
「どうした?」
「いえ……」
じっとしているの苦手だな、なんて思ってないですよ。私には関係ないですしね。だって庶民だし。誰とも分からないが、心の中で弁解したレティシアは、すっかり冷めてしまったお茶を飲んだ。
とはいえ、王妃さまとのお茶会は済んだことだし、これで禍根の憂いはないだろう。もう帰って休みたかった。
「あんなに疲れるお茶会はもう嫌です」
「王妃さまは楽しかったみたいだけどな」
そうでしょうとも。そう言いたいのをぐっと堪える。
相手は一国の王のお妃さま。変なことを言ったら不敬罪であっという間に牢屋に連れ込まれてしまうだろう。
大人しくソファーに座っているレティシアは、見た目では淑女のようだ。所作も丁寧で綺麗。そのことにエルバートは首を傾げる。
「レティシア、」
「なに?」
「どこかでマナー講座とか受けたのか?」
聞いたとたん、レティシアの目が変なものを見るような物になった。そのことに少し心が折れそうになる。
親しさが戻ったのは喜ばしいことだが、扱いがぞんざいになったような……。
「庶民の私にそんなものを受ける機会があったと思う? 母から教えられたもの以上のことは知りません」
その言葉に驚いたのはオーウェンとエルバートだった。前から思っていたが、レティシアの母親とはいったいどんな人物なのだろうか。
レティシアは帰りたい、といつ言いだそうか悩んでいた。エルバートもオーウェンもくつろいでいるが、まだ仕事は終わっていないだろう。となると、帰るのはもう少しあとだろうか。
できればレティシアだけで帰らせてもらえないかな、などと思う。これ以上、ここに居るとまた大変な目に合いそうな気がした。
「エルバート、仕事ってまだ終わらないよね?」
「え? あぁ、そうだな……」
窓を背に置いてある書斎机の上には未処理の書類が積まれている。まだ仕事の終わりは見えそうにない。
うなだれるエルバートの姿に、状況を察したレティシアは苦笑を漏らした。
「じゃあ先に帰って――」
「ダメだ」
間髪いれず返って来た答えに、レティシアは目を丸くしオーウェンは噴き出す。ソファーで転げまわるオーウェンをエルバートが睨むが、オーウェンはちっとも気にしない。それどころか
「俺が送ろうか?」と聞いてくる。
「えーと……」
そっぽを向いたエルバートの様子を窺いながら、レティシアは考える。よく分からないが、エルバートは機嫌がよくない。それを見て首を横に振った。
「エルバートの仕事が終わるのを待ちます」
「ふぅん?」
途端に機嫌がよくなったエルバートにまたもや笑いそうになりながら、オーウェンは残りのお茶を飲んだ。そしてふと眉を寄せる。
「どうした?」
表情を変えたオーウェンに気付いたエルバートが聞くが、オーウェンはそれには答えず、ドアの方を注視していた。
「この足音は……」
何かに気がついたオーウェンがソファーから立つのと同時にドアが廊下側から激しく開けられる。そのドアを吹き飛ばしそうな勢いに、レティシアは目を丸くした。
前にも似たような光景を見た気がする。また第二王子が来たのかと思ったら、そこに居たのは熊だった。
「……え、熊?」
「いや、人間ですよ」
オーウェンに突っ込まれて、レティシアはもう一度ドアのそばに立っている人らしきものを見る。
そこに居たのは筋骨隆々の白髪のおじいさんだった。ガタイが良すぎて、一瞬熊に見えたが一応人間らしい。
たくましい体格にいかめしい顔つき。軍服を着ていることからも間違いなく軍人と分かる。きっと熊男ではないだろう。
「小坊主! ワシへの帰還の挨拶がないぞ!!」
熊男さんは部屋に入るなり大声で怒鳴った。その迫力にレティシアは飛び上がってオーウェンの背後に隠れる。エルバートはというと、うんざりした顔でその男を見た。
「元帥、そんな大声を出さなくても聞こえてますよ」
「なまいきな! 鍛え直してやるから表へ出ろぃ!!」
「お断りします!」
目の前で繰り広げられる展開に、ただただレティシアは呆然とする。
この熊男のことをエルバートは「元帥」と呼んでいた。元帥ってことは――。
「軍部の総司令官……?」
「む?」
レティシアの呟きが聞こえたのか、熊男――もとい、元帥がこちらを見る。
二人の目が合い、レティシアは石のように固まり、元帥は目を細めてじろじろとレティシアを見た。
そして大げさに溜め息をつき、呆れた目線をエルバートに向ける。
「なんじゃい。ご婦人を連れ込んでイチャイチャしてたんか?」
――室内が一瞬にして固まった。