34.一緒に帰りましょう。
馬車の中は異様な空気に包まれていた。明らかに不機嫌という顔をしたレティシアと所在なさげな顔をするエルバートが、向かいあうようにして座っている。
御者は常にない主人の姿に口をあんぐりと開け、エルバートに睨まれたことに気付くと慌てて御者台に上った。無言で馬に鞭を入れ、馬車はゆっくりと動き出す。
エルバートの視線は窓の外へと向かい、レティシアの視線はエルバートに向けられている。責めているような視線を受けていることは分かっているだろうに、エルバートはかたくなにレティシアを見ようとしなかった。
「…………閣下、」
「…………」
しびれを切らしたレティシアが呼びかけるも、エルバートは視線を動かさない。その態度にレティシアはカチンとくる。思わず立ち上がり、エルバートに詰め寄った。
動いている馬車の中で立ち上がったレティシアに、エルバートはぎょっとする。さらに近づいてくるレティシアの体を支えようと両手を差し出した。
レティシアはその手には掴まらず、エルバートの前に立って彼を不遜に見下ろした。
「これ、どういうことなんですか?」
「俺が聞きたいくらいだ……」
「エルバート!!」
歯切れの悪い返事をしたエルバートに、レティシアは叫んだ。その呼ばれた名前に、エルバートは目を丸くした。
レティシアはエルバートが記憶を取り戻してから、どこか距離を作っていた。名前を呼ぶのですら、躊躇っていたのだ。二人で暮らしていたときの名前でさえも。それが物足りないと思っていたエルバートは、不覚にも胸が高鳴った。
そんなエルバートの気持ちを敏感に感じ取ったのか、レティシアの眉がますます吊り上る。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「あぁ……」
聞いてはいる。正確には聞こえている、と行ったほうが正しいのかも知れない。
レティシアが依然のように親しく接してくれている。家族のように暮らしていたあの時のように近い距離で。
それがエルバートの心を温かくさせる。同時に驚いた。それだけのことで、自分はこんなにも喜んでしまうのか、と。まるで少年のような自分自身に呆れた。
レティシアはわかりやすく怒っている。その表情にエルバートは小さく笑っている。
「なんで笑っているの」
「いや……。悪い。埋め合わせはするから」
「帰りたい」
「また王妃が捕獲部隊を差し向けるぞ」
エルバートの言葉に、レティシアの身体がぶるりと震える。よほど強引な目に合ったのか、目を泳がせて動揺していた。
大人しくなったレティシアに苦笑し、エルバートは彼女の手首を掴む。それからグッと引き寄せた。レティシアは引き寄せられるまま、エルバートの膝の上に乗っかる。
二人は見つめあったまま、しばらく無言だった。それからレティシアが顔を真っ赤にさせて立ち上がろうとする。エルバートは笑顔でそれを阻止した。
「エルバート!!」
再び、レティシアが叫ぶ。それでもエルバートは降ろさなかった。「危ないから」と取って付けたようにそんなことを言って、ますますしっかり抱き締める。
なんなんだ。なんなんだ! 急に抱き上げられ、あまつさえ抱き締められている。レティシアはこの異様な状況を脱しようと身動きするけど、エルバートは離してくれなかった。
危ないのなら、しっかり座席に座るから。そう言うのにエルバートは聞いてくれなかった。エルバートの綺麗な顔が近くにあり、レティシアの心臓が変に跳ね上がる。
エルバートが小さかったときは一緒のベッドで寝ていたこともあったのに。エルバートが自分よりも大きいと気づいただけで、どうしたら良いのかが分からなくなる。
「降ろしてください……」
「もうすぐ着くから」
そんな言葉でやり込められたレティシアは、非常に居心地の悪い思いながら、早く馬車が屋敷に着くことを祈っていた。
こんな近くに居てはダメなのに。何が駄目なのかは分からないけれど、レティシアは強くそう思った。
これ以上近くに居てはいけない。これ以上近づいてしまったら――……。
「レティシア?」
気遣うような声が耳元で聞こえて、我に返ればエルバートの顔がアップで映し出された。私は咄嗟に右の拳が突き出る。
「っ!」
「あっ……」
レティシアの右拳は見事にエルバートの頬にめり込んでいた。またもや沈黙が二人の間に満ちる。
「ごめん……」
しょんぼりと肩を落として謝るレティシアに、エルバートは首を横に振った。悪乗りした自分も悪いと思ったからだ。
二人はいつの間にか止まっていた馬車から黙って降りた。御者はそんな二人をまじまじと見送った。
ほんの少し前に去った屋敷は何も変わらずにそこにあった。依然泊めてもらった部屋にまた案内される。
「帰ってきちゃった……」
もう戻ることもないだろうと思っていたのに。そう思いながら、レティシアは大きな寝台に腰かける。出てくる溜め息は、今日一日の出来事に対するものだ。
変に馴染みがあるのは、ここで過ごした時間がレティシアにとって不快なものではなかったからだろう。そんなことを思っていたら、扉が遠慮勝ちに叩かれた。
扉のむこうからエルバートが顔を出す。
「食事にしよう。今日は疲れただろう」
レティシアはそんな彼をぼんやりと眺めた。結局、ここに来ることを拒めなかったのは、レティシアが知ってしまったからだろう。
一人で過ごす孤独を。誰かと過ごす温かさを。
「……うん。お腹空いた」
素直にそう言ったレティシアに、エルバートが穏やかに笑った。