32.呪いの手紙
毎日はこんなに単調だったか。
そんな自分らしくもない独白に、エルバートは内心で笑う。
いつもと変わらない日常。軍の規律を整え部下指導に励み、敵国の情勢に気を配って今後の対策を練る。それが今までもエルバートの生活で、これからも変わらないものだ。
「閣下、その書類もう使えないと思うぞ」
言われて下を見れば、ペン先が押しつけられた書類があった。ペン先からはインクがにじみ出て、紙に黒い海を描いている。間違いなくこれは使い物にならないだろう。
エルバートは苛立たしげに溜め息をついて、紙を丸めて屑カゴに放り込んだ。ついつい項垂れてしまう。
自分の腑抜け具合に情けなくなった。そして驚く。こんな風になってしまうほど、自分はあの少女を気に入っていたのだ、ということに。
「閣下も意地張ってないで会いに行けばいいのに」
すっかり覇気を失ったエルバートにオーウェンが呆れる。そんなオーウェンをエルバートは恨めしげに見た。
「会ったら離れがたくなる」
「…………あっそう」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったオーウェンは、思わず半眼で脱力した。
これは誰だろうか。思わずオーウェンは目の前で項垂れている上官を見る。恋する、とまではいかなくても十分悩む男がそこには居た。
派手な容姿とその肩書きによって、国中の人間がエルバートの恋人の座を狙っている。エルバートもそれなりに遊んで浮名を流したりもしていた。
それがどうだろう。ただ一度、恋を知っただけで仕事もおぼつか無くなってしまった。――あのエルバートが!!!
「閣下も人の子だったんだなぁ……」
「それはどういう意味だ」
オーウェンのしみじみとした呟きを聞いたエルバートが素早く身を起こす。しかしオーウェンがにやにやと自分を見ているのを見て、嫌そうに視線を逸らした。
恋だの愛だの、くだらない。自分の立場上、恋愛結婚など難しいし、家柄や身分の釣り合いの取れた相手を選ぶのだろう。ずっとそう思っていたし、それが普通だと思っていた……父王はだいぶ王族の常識を外れた行動を取ったが、それだって母后が高い身分を持っていたから実現できたのだ。
「会ってどうする。俺がどうしたいかもわからないのに……」
先のことなんか何も考えられない。これが一時の感情ではない、なんて言えないから。
それでも”会いたい”と思うのは止められない。
「……どうしてるかな」
今日もあの下町の定食屋で元気に働いているだろう。身体を壊さないといいのだが。両親と死に別れ、一人で生きている彼女が少しでも笑っていてくれればいい、とエルバートは強く思った。
そろそろ仕事をしなくては。腑抜けた頭を動かし、ペンを手に取る。そこで扉が控えめに叩かれた。
「はい?」
返事をすれば向こう側から侍従が姿を現す。手には封蝋が施された手紙があった。その刻印に見覚えがあり、知らず眉間にしわが寄る。
急いで机の上にあったペーパーナイフで封を切り、中身を取り出して読む。
「閣下? なんだって?」
手紙を開いたまま動かないエルバートを不思議に思ったオーウェンが身を乗り出した。エルバートは読んでいた手紙をオーウェンの方に放り投げ、部屋を飛び出す。
そのすごい剣幕に、オーウェンは圧倒された。そしてエルバートが放り投げた手紙を拾い、中身を読む。そしてあまりの内容に目が点になった。
「……うそだろ……」
そこには王妃から完結に一言だけ。
『あなたの大事なお姫様は預かったわよ』
語尾には綺麗なハートマーク。オーウェンは王妃の企んだような微笑みが見えるような気がして、背筋に冷や汗が伝ったのを感じた。
* * *
エルバートは王妃の私室の前まで来ると、一気に扉を放つ。その瞬間、エルバートに対して侵入者防止用の魔術が発動した。
幾重もの魔方陣が展開し、エルバートを捉えんとする。その全てをかわすとエルバートは王妃の親衛隊の攻撃をかいくぐり、固く閉ざされた続きの間への扉を開け放った。
「母上! これはどういうこと――っ!!」
窓際のソファで微笑む王妃の姿が目に入る。つい怒鳴り、その隣に座る少女のが目に入って固まった。
艶やかな黒髪。藍色の瞳は、今、驚きに見開かれている。一週間ぶりに見るレティシアの姿がそこにはあった。
しばらく無言で見つめ合うレティシアとエルバート。お互い、石のように固まって動くことはない。
「あらあら。お客さまが居るのに怒鳴りこんでくるなんて。行儀がなっていませんよ、レストン卿」
この場の空気にまるでそぐわない言葉が王妃の口から出てくる。そしてあっという間にエルバートの分のお茶も用意された。
「さぁ、お座りなさい」
「しかし……」
「座りなさい」
素早くエルバートは用意された椅子に座った。促されるまま、侍女の用意してくれた紅茶を流し込む。
気まずさからか、エルバートはレティシアを見れなかった。それはレティシアも同じで、不自然にエルバートから視線を逸らしている。
それを見たベルティーナは内心でほくそ笑んだ。
「ところでレティシアさん、」
「え?」
「ずいぶんとエルバートがお世話になったみたいね。改めてお礼を言うわ」
「いえ、そんな……!」
優雅に微笑みながら頭を下げるベルティーナに、レティシアは恐縮する。一国の王妃に頭を下げられては、こちらの立つ瀬がない。
慌てるレティシアに、ベルティーナはことさら笑みを深くする。そのことにエルバートは嫌な予感がした。
何かを考えてるのだろうか。……不安だ。
「それでね、わたくし、あなたにお礼がしたくて」
「は?」
「しばらくここに居てくれないかしら。もちろん部屋は用意するし、何不自由ない生活を保障するわ」
ベルティーナはにこにこ微笑みながらとんでもないことを口にした。思わずレティシアはベルティーナをまじまじと見てしまう。
今のは本気だろうか。疑うが、ベルティーナは撤回しない。この段階になって、レティシアは青くなった。
「いや、そんなお礼なんて! 結構です。大丈夫です!」
「……まぁ、お断りになるの?」
冷えた視線がレティシアを突き刺す。その視線に、レティシアは文字通り固まった。
……あぁ、悪夢再び。