31.再び誘拐
レティシアは額を流れる汗を思いっきり拭いたいと思った。
目の前には輝くばかりの笑顔を浮かべる豊満な女性の姿。背後には侍女の皆さまが控えていた。
なんでこんなことに。頭に思い浮かぶのはそんな言葉ばかりだ。
顔を強張らせて固まるレティシアの姿に、目の前の女性――ベルティーナは艶やかに微笑んだ。
「そんなに固くならないで。わたくし、貴女とお話ししたくてお呼びいたしましたのよ」
「はぁ……」
お呼びというか、もはや誘拐だったような……。
そんなことが頭の中で思い浮かんだが、もちろん本人に言えるはずがない。レティシアは心を落ち着けるために、侍女の方が淹れてくれた紅茶を飲んだ。
時は少し遡る。レティシアがあの下町の定食屋でお昼の準備をしていた時のことだった――。
* * *
エルバートの元を去ってから一週間。レティシアはようやく依然の暮らしを取り戻し始めていた。
毎日朝から晩まで働き、時には買い物などで息抜きをして。都会の喧騒も戦争に対する恐怖もない世界。それがレティシアの生きる世界だ。
その日もお昼の仕込みを終え、お昼休みに近所にパン屋に向かっているところだった。エルバートの屋敷で食べた物よりも遥かに硬いが、それが普通の庶民のパンを買いに。
今晩はシチューでも作ろうかな、なんて思っていたら軍服を着たお姉さまに囲まれたのだ。
「あの、なんでしょうか……」
屈強とは言い難いが、妙な威圧感を出しているお姉さま方にレティシアの顔が引きつる。そんなレティシアにはお構いなしに、赤銅色の髪の女性がレティシアの前に立った。
「レティシアさまですね?」
「そうですけど、あの何か?」
「一緒に来ていただきます」
来ていただけますか? という断りもなく決めつけられた。伸ばされた手を、レティシアは咄嗟にかわす。
異様な空気が路地に満ちた。
どうしよう。逃げようにも周りを囲まれてしまった。狭い路地には逃げ道がない。レティシアは背中を流れる冷や汗を感じた。
万事休すだ。軍服を着ているということは間違いなく王宮に関係のある人間ということ。そしてレティシアの知り合いに軍関係者は一人しかいない。
「一緒に来ていただけませんか」
「これから仕事があるんです。急にそんなこと言われても……」
どうにか逃れようと言い訳を重ねる。すると赤銅色の髪の女性が一言「分かりました」と呟いた。
分かってくれた。そう思ったレティシアは安堵の息をこぼし、次には目を見開いて固まった。
なぜなら見たことのあるローブの人間が前に進み出たからだ。
「手荒な真似はしたくなかったのですが。仕方がありません」
「はい?」
「ご心配には及びません。店主にはこちらから説明しておきますので」
赤銅色の髪の女性が離す間もローブを着た人が何事か呟くのが聞こえる。まずい。この状況はとてつもなくまずい。
レティシアは逃げようとしたが時、すでに遅し。魔術が完成し、足元に巨大な魔方陣が展開する。
それは黄金の光を放つと、レティシアたちを包み込んだ。前にも感じたことのある浮遊感が身体を支配する。そして次の瞬間、レティシアは見知らぬ場所に立っていた。
「転移術、無事終了しました」
「御苦労。戻ってくれて構わない」
赤銅色の女性の言葉に、ローブの男性は無言で頭を下げ、その場を去る。レティシアは目の前で起こっていることが理解できなかった。
「ここはどこですか?」
かろうじて、そんな言葉が喉からこぼれ出る。それに応えてくれたのは、背後でレティシアの荷物を取り上げた人だった。
「王宮の中庭です。至急、この場を御移りいただきます」
王宮。その言葉にレティシアは目眩がした。
ついこの間来たのも王宮だったが、この前は目の前を通り過ぎただけだった。だが今回はそのど真ん中に来てしまったらしい。
考えたくはなかったが、思い当たる人物は一人しかいなかった。レティシアは恐る恐る女性を見る。
「あの……」
「なんですか?」
「エルバート……殿下が私を呼んだんですか?」
レティシアの言葉に赤銅色の髪の女性が固まる。それからゆっくり首を横に振った。
「いいえ。レストン閣下ではありません」
「え? じゃあ誰が……」
「王妃陛下です」
一瞬、何を言われたのかレティシアには分からなかった。思わず前の人を凝視する。
「…………今、なんと?」
「王妃陛下があなたに逢いたい、とおっしゃっています」
「…………」
――悪夢、再び。
* * *
レティシアはとても居心地が悪かった。向かいに座る女性はこの国の王妃で、おまけにじっとレティシアを凝視している。
おかしい。国一番のお菓子なんかを食べているはずなのに、味が全然わからん。レティシアは泣きたくなってきた。
「――ちょっと小耳に挟んだんだけど」
「はい! なんですか?」
過剰に反応する私に目を丸くし、ベルティーナがくすくすと笑う。笑われた、とレティシアは恥ずかしくなった。ちょっと大声を出しすぎた。
小さくなるレティシアを、ベルティーナが微笑んで見つめる。可愛らしい子だわ、と心の中で呟きながら。
「あなた、しばらくエルバートと暮らしていたんですって?」
「え!?」
思いがけない言葉にレティシアが固まる。どう反応すればいいのか分からないレティシアそっちのけで、ベルティーナは話を続けた。
「あんな気難しい男と一緒に暮らすのなんて大変だったでしょう?」
「えっと……その……」
何と答えればいいのだろうか。レティシアは迷った。正直に答えるなら、そんなに困らなかった、が答えである。エルバートは記憶を失っていたので、普通の子のようにお手伝いさせていたし。
しかしそれを正直に言っていいものか。今は王位継承権を放棄しているとはいえ、王族であることに間違いないのだし。
「……そんなに困らなかったです」
結局、無難な答えを返すことにした。そんなレティシアの心境を呼んだのか、ベルティーナが扇子の向こう側でにやりと笑う。
改めてレティシアをじっくりと眺めるが、取り立てて何かが目を引くというわけでもない普通の女の子。意思の強そうな瞳が、少しベルティーナの気を引いた。
どこかで見たことのある顔。そう言えばユリアンも誰かに似ていると言っていたかしら。
「あの……?」
ベルティーナに凝視されたレティシアは居心地が悪そうにベルティーナを見る。「あら、ごめんなさいね」脅えるレティシアの気配を素早く読んだベルティーナが謝って目を逸らした。
途端に隣の部屋から大きな破裂音が響く。
「っ!」
「あら、意外に早かったわね」
隣の部屋で断続的に続く破壊音にレティシアは固まり、ベルティーナは困った顔をしながら、でも楽しそうに溜め息をついた。
こんなにも破壊音と怒号らしきものが飛び交っているのに、ベルティーナも侍女の皆さんも呑気に構えている。レティシアだけが音に脅えていた。
やがてドアが向こう側から大きく開かれた。
「母上! これはどういうこと――っ!!」
飛び込んできたのは肩を怒らせたエルバートの姿。呼吸や服装が乱れていたのは、激しい攻防戦が合ったからだろう。
レティシアは思わずエルバートの姿に見とれた。それはエルバートも同じだったようで、レティシアを見たまま石像のように固まっている。
ベルティーナだけが普通に紅茶を飲んでいた。
「あらあら。お客さまが居るのに怒鳴りこんでくるなんて。行儀がなっていませんよ、レストン卿」
そんな言葉が虚しく室内に響き渡る。
約一週間ぶりに、レティシアはエルバートとの再会を果たしたのだった。