30.久々の帰省
微かな浮遊感のあとに目を開ければ、広がっていたのはあの懐かしい下町の景色だった。目の前には金糸雀の歌声。レティシアは少し息を整えてから、中に入った。
「いらっしゃ――レティ?」
「こんにちわ」
アニーは入ってきたレティシアに少し目を見開き、それから猛然とこっちへと寄って来た。思わずのけぞるレティシアには構わず、アニーはレティシアを思いっきり抱きしめる。その力にレティシアは少し呻いた。
レティシアはたまらずアニーの肩を叩く。それにようやくアニーが抱きしめる力を緩めた。その目は怒っていて、レティシアは後ろめたさから目を逸らす。
「ちょっと。心配したのよ? 急にここを離れるって知らない男から言われるし」
「ごめんなさい。私も訳が分からないままに話が進んでて……」
「まぁ無事ならよかったわ」
五体満足で立っているレティシアに、アニーは心から安堵した風に笑った。
見知らぬ人間から「レティシアはしばらく街を離れる」と聞いてどれだけ心配したことか。家に行ってもレティシアの姿はなく、戻らないことにアニーだけでなく定食屋の常連も気にしていたのだ。
それを聞いたレティシアは申し訳なくなる。心配しているとは思っていたが、こんなに不安にさせているとは思わなかったのだ。
「あ、アッシュはどうしたの?」
一人でお店に来たレティシアに、アニーは不思議そうな顔をする。レティシアは少しだけ痛みを堪えるような顔をした。
アッシュ――エルバートは本来の自分を取り戻し、今は遠い王都のお屋敷に住んでいる。きっとこの先、レティシアがエルバートと再びめぐり合うことはないだろう。
「レティシア?」
「アッシュは記憶を取り戻して家族の元に戻りました」
「そうなの? 元気にしているかしら」
少し名残惜しそうな顔をするアニーから目を逸らし、レティシアは店の奥へと消えた。すぐに着替えて表へと戻ってくる。その姿にアニーが目を丸くした。
「今日から働くの?」
「はい。生活費を稼がないと」
実際、レティシアの生活は苦しかった。色々と物入りの時期なのに、長い間欠勤してしまった。貯金は少しならあるが、出来るだけ手は付けたくない。
それに忙しく働いている方が忘れられると思ったのだ。アッシュと過ごした日々を。エルバートと会話した全てを。
一瞬の幻だったのだ、と自分に言い聞かせ、この町に戻ってきた。元々知り合うはずのなかった二人だ。会わなければすぐに忘れるだろうと思って。
レティシアは別れた日のことを思い出す。魔術でこの町に送ってもらったとき、エルバートはなんとも言い難い顔をしていた。何かを言いかけて、でも結局何も言わず。黙ってレティシアを送り出してくれた。
レティシアは忙しくフロアを歩き回りながら、頭の中では違うことを考えている。ふとした瞬間にエルバートのことを思い出しているのだ。今は別れたばかりだからかもしれないが、それでも寂しいと感じているのは事実である。
「レティシアちゃん、元気ないねぇ」
食器を片づけながら漏らした溜め息が聞こえたのか、常連さんが心配そうにレティシアの顔色を窺う。レティシアは慌ててにっこり笑った。
「大丈夫ですよ」
「そうかい? アッシュ君が居なくなっちゃったからレティシアちゃんも寂しいんだろう?」
「っ、」
「弟みたいに可愛がっていたもんな」
常連さんの何気ない一言に、レティシアは息を呑む。確かにエルバートの記憶がなかったころ、レティシアはアッシュを家族のように思っていた。
レティシアは家族を亡くして以来、一人で暮らしていた。そこに突然現れたのがアッシュ。見知らぬ他人ではあったが、一緒に過ごすのは心地よかった。
むしろ楽しかったのだ。少なくとも思い出して寂しいと思うほどには。
「アッシュは家族の元に戻ったんですよ」
これで良かったのだ。これが正しい結末。
エルバートはこの国の王子にして魔導軍軍帥。対する自分はただの庶民。しかも孤児。知り合うことすら奇跡だったのだ。そう自分に言い聞かせ、レティシアは忙しく動き回る。
だけどレティシアは気付いていない。そうやって言い聞かせれば聞かせるほど、自分はエルバートを忘れられず、気にしていくことになるだろうことを。
* * *
一方、執務室で仕事をしていたエルバートは何度目か分からない溜め息をこぼした。その姿に、オーウェンは顔をしかめる。
「そんなに溜め息をつくなら帰さなきゃよかったじゃないか」
「勝手なことを……」
エルバートは無責任に言い募るオーウェンに舌打ちしたくなった。
エルバートだって帰したくなかった。それをしなかったのはレティシアが帰りたがっていることを知っていたからだ。自分の都合で帰さない、とは言えなかった。
それに自分の気持ちを自覚したとはいえ、今ならこの気持ちを忘れられると思ったのだ。それはとんでもない誤算だったが。
エルバートは自分自身の変化に戸惑っていた。今まで女性とはそれなりに付き合ってきたが、自分の立場故、それはうわべの物が多かった。それはエルバートは王位継承権を放棄し、魔導軍軍帥の地位に就いてからもそうである。
女性が求めるのは自分の容姿と地位である。そしてエルバートが求めるのも、その人自身の妻としての資質と後ろ盾であった。さらに結婚の意思もなかったので、結婚相手を探すこともしていなかった。
女性のことなど、目に入っていなかった。いつだってうわべしか見ない女性たちに期待することもない。だけどレティシアは違った。
出会いからして特殊だった。エルバートは記憶を失っていておまけに子供姿だった。レティシアはエルバートの持つ物に興味など示さず(というよりそんなものがあるとは思ってもいなかっただろう)エルバート自身を見てくれていると実感できた。
それはエルバートが記憶を取り戻してからも変わらなかった。それが新鮮だったのだ。
「このままじゃあレティシア嬢とはもう会うこと叶わなくなるぞ」
「あぁ……」
オーウェンの言葉にエルバートの顔がわずかに歪む。会いたいとは思うが、それでも会いに行くことはしないだろう。
それに会ってどうすると言うのだろう。またこの屋敷に連れて来るのだろうか。自分はレティシアをどうしたいのだろう。
一緒に居ることはきっと不可能ではない。だが難しいことに変わりはない。そして色々な我慢をさせることになる。そう思うとこのまま会わなくてもいいのではないか、と思うのだ。
レティシアを慕わしいと思う気持ちはある。だがきっとそれは一時のものだと思うのだ。会わなければ、きっと忘れることができる。そう思うから、会おうとは考えなかった。
「縁がなかった。そう思うことにする」
「閣下……」
「向こうも会わなければすぐに忘れるさ」
そう言って再び仕事に戻るエルバートにオーウェンは説得を諦める。こうなってはエルバートが話を聞かないことをオーウェンを知っているのだ。
会わなければ全てを忘れる。本当にそうなるかは分からないが、閣下がそう言うのならこれ以上言うのは止めよう。そう思ってオーウェンは自分の仕事に戻った。
果たして、再会はすぐに訪れた。それも思いがけない形で。